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ザビーヌ事件について なぜそれを無効の行為だと判断してはならないか?

 犯人の行為は 人間の意志によって為されたものでありながら その意志は人間の意志ではなかった。――こう判断する人間の意志行為は 哲学のものではないのか?   ▲ (ヰキぺ:ザビーヌ・ダルデンヌ) ~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%8C   ザビーヌは1996年5月28日、12歳のときに通学中に誘拐され、犯人の家の特製地下室(幅99cm・奥行き2m34cm)に80日間閉じ込められる。その間、小児性愛者である犯人から性的虐待を受け続けた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  * 参照→【Q:ザビーヌ事件について】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html

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回答No.21

こんばんは、bragelonneさん。 【贖罪】しょくざい 財物で罪をあがなうこと。 ●―――魚や鶏をボーンと食卓の上に置いていくシェフの自由意志による意志行為は 限りなく無効に近い。 第3編 民法(権利の主体/物権と債権/契約による債権の発生/無効と取消し/代理/弁済等による債権の消滅/債務不履行/担保物件/人的担保と責任財産保全/物権変動と債権譲渡/所有権の取得/物の貸し借り 【犯罪被害者救済に関する一考察】 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/hosei-2/yoshiki.pdf ●あなたは ザビーヌさんについて あるいはデュトゥルーに対して どういう見解をお持ちなのですか?  さて、ザビーヌさんについて何処から語りましょうか? 12歳のザビーヌさん、20歳のザビーヌさん… 誘拐…80日間監禁… あったかい家、 両親のもと、なに不自由なく暮らす日々の生活 一変して 外界とは隔絶した地下の穴蔵のような場所へほうり込まれる これは現実じゃない、これは現実じゃない…これが現実なの… 先の見えないこの状況にどれほど不安に苛まれたことだろうか 親から引き離され、誰知る者もいない場所で、人として扱われず 家畜の如く、ただただ生かされている12歳の幼子 なぜ、なぜ、なぜ わたしなの… 人さらいに遭い、80日目に救出 家に、両親のもとへ、無事還される あったかい家、 両親のもと、なに不自由なく暮らす日々の生活が… ―――――――――――――――――――――待っていると思いきや 一変して 周囲の奇異なまなざし、腫れものに触るような周囲の扱い、口さない人びと わずか12歳の幼子が自ら内に籠る だれに監禁されたわけでもないのに…閉じこもる(閉された言語空間) 直接手を下したデュトゥルーなのだけれど… デュトゥルー以外に姿なき加害者がいる 罰せられることのない姿なき加害者 12歳―――――8年間の沈黙―――――20歳 その身を清める儀式(祓い)の如く、公衆の面前に立ち証言 1:ヨブ記 / 28章 28節 新共同訳 そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」 「罪」 http://jhc.plala.jp/jhcs/school/hukuin03.pdf

bragelonne
質問者

お礼

 親愛なるlittlekiss さん お早うございます。ご回答を寄せていただきまことにありがとうございます。  今回のお答えに接して 満面が火の海です。顔の赤らめが退いて行きません。きわめて度の過ぎたこころの高ぶりのまま 前回のガミガミを書きこんでしまいました。  しかも これでも反省をする様子もありません。よかったとさえ思っています。これでこそわれらがりとるきっすさんだとさえ思います。  でもお応えをどうお返しすればよいのか 少し考えます。時間をください。補足欄にてお目にかかります。  (なんちゃって!)

bragelonne
質問者

補足

 いとしのりとるきっすさん あらためてお応えいたします。  ★ 【犯罪被害者救済に関する一考察】――犯罪被害賠償基金設立への展望――  ☆ 副題にあるように 法律制度としてのまた広く社会一般としての《心の癒しや やわらがしめられ》の問題をあつかっているようですね。りとるきっすさんは しばしば法律の観点を出して来られますが それはそれが現実における問題解決の仕方であるという基本だからなのだと思います。また この《被害賠償基金》の提唱のように 被害者へのあたたかい気づかいのことも垣間見られます。これらのことに何の問題もないと考えます。  そこで わたしとの違いなのですが わたしは気が短いのではなく長いのですが 遅くもなくふつうに気が早いのでもなく人一倍早いのです。そのこころは 一気に一挙に《癒しと和解》がかなわなければ人間の問題ではないという立ち場に立つという意味です。そういう意味での哲学の立ち場です。  このザビーヌさん事件の場合には すでにご案内のように 《蚊が刺しただけ》という評言を得ています。ゆえに広く伝えようとしてもいます。ちなみに 《蚊が刺したようなものだ》では 絶対にありません。  事実は 子攫(さら)い・監禁・虐待行為です。真実は 蚊が刺した事象です。現実は この事実と真実との総合です。こころの真実は 行為事実に関して《無効》と宣言していますので この場合 現実は 真実が勝ちます。そういうわれわれ人間のこころばえが わたしの哲学です。それでなぜいけないのかと問うていたわけですが だいたいけりがついたのではないかと思います。ひどっちさんと はーとまいんどさんを合わせてわれわれ四人の井戸端会議でしたが ひとまづ結びとしてよいと考えます。ありがとうございます。  細かくは:――  ▲ 被害者にとっての正義は,加害者の責任が確定され,その行為が否認され,物質的・精神的な損害調整が行われてはじめて実現されるのである。  ☆ 法的正義はそうであるのでしょう。人間の存在にかんする自己の回復は このばあい 《蚊が刺しただけ》という一言だと思います。そういう見方もしくは立ち場のちがいです。わたしの立ち場は こころの泉の水の涸れたのをふたたび湧くような自分を回復すること この一事へ向けての対話です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1:ヨブ記 / 28章 28節 新共同訳  そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この一事をふつうの言葉に翻訳すること それのみです。  ★ 「罪」(キーワードによるキリスト教概論)  ☆ 少しおぎないます。(おまえは 学者よりもえらいのか!?!?)   1. ケ:日(=日常性・生活日常の元気)     cf.カという母音交替を想え。       カ:日 つまり ひとひ(一日)のヒに対して 二日三日のカ。      あるいは コ(日)ヨミ(読み=数える):暦のコにも母音が      交替する。つまり ヒ(日)∽カ・ケ・コ(日)。さらにまた      フ・ヘル(経る)は このヒ(日)を動詞にしたものか。      ハレ(晴れ)のハも そうか。   2. カレ:離(か)れ     cf. あく(あこ=場・われという場)‐かれ(離れ)=憧れ   3. ケガレ:日常性から離れること。明暗の両面がある。    (1) すなわちハレ(晴れ)のこと:あらたまった時や場。まつり。    (2) あるいは逆に ケガレ(穢れ):病い・死など。(出産なども      そう見なされていた)。   4. 《罪》は そして特に《原罪》は じんるいにとって もうすっかり癒されてしまっています。勘違いがあるのみだと考えたほうがいいとさえ思います。戦争から何から大きな勘違いが 大手を振って歩いていますが。  ★ なぜ、なぜ、なぜ わたしなの…?  ☆ これは ひどっちさんの提起されている《偶発性》の問題です。課題としてつづきます。  ザビーヌさん物語として りとるきっすさんが小説にでもしてくださいな。  もう少しして 閉めましょう。

その他の回答 (20)

noname#135843
noname#135843
回答No.10

 こんばんは、Hidocchiです。どうもご返答賜り厚くお礼申し上げます。 > 一般に犯罪行為について その人間の意志行為を 無効だと見なすこと この判断は なぜいけないのか? なぜ哲学ではないのか? この一点に集中したいのですが どうでしょう?  たぶん そのときには そうは言いつつも これら三つの問題点なども深くかかわって来ているのではないかと思うのですが どうでしょう?  了解致しました。愚生が提案させていただきました上記3点につきましても、もし顔が出そうになりました折りにはお話を進めさせていただくとしまして(現時点では未だ愚生も、曖昧なところもございますため)、『 一般に犯罪行為について その人間の意志行為を 無効だと見なすこと この判断は なぜいけないのか? なぜ哲学ではないのか?」 に集中させていただきこうかと思います。 > わたしは決して前回の【Q:ザビーヌ事件について】においてみなさんと共に問い求めたところから離れたわけでも考えを変えたものでもありません。けれども まだ結論としてはっきりしていないところがあるのかも知れないと どうしても思われました。尋究しうるところまですすめておきたいと思っております。よろしくどうぞお願いします。  こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。 > むしろなぜ哲学としての判断でないのか――判断ではないし してはいけないと見る側から その根拠を知りたいところですが その展望はまだわたしにもよく見えていません。分かっているのは 例の《無主体の過程》説にかかわっているであろうということのみです。いわゆる構造主義の前提にある人間観=社会観なのではないかと思っているのですが。  「人の意志」と「構造性」との関連(対比)が問題の所在というところでしょうか。 > 回答No.1のごとく 一般的に見て結論内容にかんしてまだ はっきりしていないところがやはりあるのではないか。なぜ通じていないのだろうか。なのですが。  確かに承りました。  お礼欄をおぎないます。上述致しましたが、「人の意志」と「構造性」の観点からの言及が今まで、愚生にはほとんどなかったことに起因することもその原因とするとことろかた考えております。  アポロンの詩は お贈りするなどとおこがましいことを申してたいへん失礼しました。    いえいえ、bragelonne様の感情の一部分を垣間みたようでして、愚生自信もとても感動しております。どうもありがとうございました。 定義: ”無効”:はじめから 何も 無かった(これが”取消し”と異なる点かと察せられます。さらに「効力がないとされるのに特定の主張は必要でなく、当然効力はない」) ソース;自由国民社「法律用語辞典 」p.249  生身のひとが持つ”ひとの意志”と構造主義における社会の見方との相違性もしくは、後者の欠点につきまして、以下のものをご紹介させていただきました。 ・”構造主義の欠陥” and ”OKWave” Google検索 でございます。 ・”サルトル・実存主義vs.ストロース・構造主義” and”太陽の帝国” and”柳生大佐”  Google検索 でございます。  誠に申し訳無いのですが、上記ブログ内容につきまして、ご一読賜りまして、上記テキストを叩き台にして、対話を進めさせていただきたく存じます。  ご質問者様ににかような要求をする非礼を深くお詫び申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  まづ何はともあれ  ★  「人の意志」と「構造性」との関連(対比)が問題の所在というところでしょうか。  ☆ ここに――わたしの今の認識に関する限りで―― 焦点があるとわたしも思います。  さて  ★ 【Q:”構造主義の欠陥”】   http://okwave.jp/qa/q3215454.html  ☆ につきましては まだきわめて大雑把な議論であるように思ったのですが どうでしょう? つまり引用・援用して議論を継ぐには いまひとつ利用しづらいと思ったのですが どうでしょう? ですからおしえていただければ ついてまいりたいと思っております。  ★ ”サルトル・実存主義vs.ストロース・構造主義” and”太陽の帝国” and”柳生大佐”   http://empire.cocolog-nifty.com/sun/2006/12/vs_fae6.html  ☆ これも――しょうじき申せば―― きめの粗い議論ではあると考えます。  中でわたしの注目した見解をまづかかげます。  ▲ (【Q:”構造主義の欠陥”】回答No.8) ~~~~~~~~~  一言で言えば、相対主義です。相対主義は、あたかも何らかの諸悪の構造を見抜いたかのようですが、実はいくつか罠があります。まず、相対主義はそれ自体が悪質な普遍主義になるということです。これは井上達夫の相対主義批判でもあります。そして多くの場合、隠れた諸悪を構造的に追認するということにもなりかねないのが現状です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを《無主体の過程》説〔への批判〕につなげることが出来ると考えます。  ◆ (”サルトル・実存主義vs.ストロース・構造主義”) ~~~  「人間社会には自覚できない無意識の構造があって、時間が経過しても不変である」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこの《無意識の構造(つまりあるいは 関係=縁起の過程)》のみで歴史も人間の行動もいとなまれているとするのならば 上に触れた《無主体の過程》説にやはりつながります。  わたしの言い分としましては 一方でやはり人間の個人個人の意志行為があるということ 他方でたしかに社会の場としては これらの意志行為の関係錯綜は 縁起説=ないし構造主義の《無主体の過程》説の説くごとく 個人の意志がもはやあずかり知らない性格のものとなっているということ。これら両側面を 同時に捉えるというものですが どうでしょう?  ★ 「人の意志」と「構造性」との関連(対比)が問題の所在というところでしょうか。  ☆ だと思います。  なお この構造主義=関係主義の思想の基礎には 言われるようにソシュールの《言語記号の恣意性》なる仮説が横たわっていると捉えます。そしてじつは この仮説が ただの神話であるといううたがい=問いをいま 出しております。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html  ☆ ソシュール⇒構造主義は 人間の歴史ないし社会は 自然と対比される意味での《文化》〔のみ〕から成ると主張します。しかもこの文化は 人間の個人の意志行為の一つひとつから成るのではやはりなく 一挙に全面的にホモ・サピエンスないしホモ・ロクエンスなる人間に特有の世界である《文化状態(=社会状態)》が出来上がったのだと唱えます。すなわちこの非自然としての文化世界が ただ関係から成る構造としてあると言うのだと思います。  わたしの言い分は 上に触れましたところのほかに 文化状態は自然状態とつながっているというものです。関係=縁起の過程のほかに 個人の意志行為(しかもアマテラス文化規範語だけではなくスサノヲ自然人間語による意志行為)も絡んでいるというものです。  以上について解きほぐして行ってくださるとありがたいと思います。どうでしょう?

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.9

こんにちは。 日本には、民法と刑法が基本ありますよね。 民法は人と人の間でずるっこした約束は、効力をもちませんよ、これが質問者様の言いたいことだと思うのですね。 しかし、刑法は人対道徳という側面がより強く出てるのですね。人間の行動に規制をかけて治安をよくしたいという理念ですね。ここでは、前者とちがって、ずるっこした人は法律で罰しますよっていうスタンスなんです。 だから裁かれるという効力は無くならないのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  拉致事件を例に出しましたが 今度は ザビーヌさんになったつもり もしくは 要するに当事者として考えるなら どういう判断と見解が持たれるか。こういう踏み出しをしてもらうとよいのではないでしょうか?  法律がどうであれ――といま乱暴に話をすすめますが―― 拉致事件の被害者として 犯行者の意志行為については どういう内容のことだと判断しますか?  無効という判断は なぜしてはならないのか? 哲学としてごく一般的な判断ではないのか? こう問うています。  ★ だから裁かれるという効力は無くならないのですね。  ☆ むろんこのように裁判の問題をも含めて考えてもらって構いませんが 問いは その前の段階としてどう判断するかです。なぜ無効と見るといけないのか?

回答No.8

こんにちは、bragelonneさん。 ●或る日の朝いつもと同じように自転車で通学している途中 バンのくるまが前をさえぎったかと思うと 二三人が出て来て 瞬く間にかのじょをくるまの中に連れ込んで走り去った。監禁した。虐待した。  この犯行者は 誘拐およ人身売買の常習犯である可能性が示唆されています。人身売買は 昔の貴族だとか町の名士だとかも何人か裏のつながりとして絡んでいるのではないかともうたがわれています。  でこの意志行為は 人間の意志そのものを無きものとする内容を持っているので 人間の意志行為としては認められない。よって無効である。  この判断は まちがいか? してはならないのか? ≪哲学≫ではないのか?――こういう問いです。 鉢被き…民話…文化人類学… 【◆昔話はどんな影響を及ぼした?◆】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1742667.html 【所有権の起源】 http://page.freett.com/rionag/veblen/ownership.html ―――――この共有財については、原始共同体では、共同体的であれ個人的であれ所有概念はまったく適用されない。共同体所有の観念は比較的遅く発達したもので、心理的な必然性によって個人的所有が先行したに違いない。所有権は、慣習的請求権に基づいて公認された、物にたいして裁量する力であり、所有者が所有物にたいする処分を思案する人格的主体であることを意味している。人格的主体とは個人であり、何らかの人の集団が一団となって物にたいする裁量権を行使すると考えられるようになるのは、法的擬制の本質が行き着くところまで精緻化されることによってなのである。所有権は個人的な所有者を暗に意味しているのである。反省によって、そして既にもう慣れ親しんでしまった概念の適応範囲を拡大することによってのみ、こうした種類の疑似人格的な集団的裁量および管理は、人の集団に帰することができるようになったのである。したがって、共同体所有は必然的に派生的概念であり、それがまねている個人的所有の概念の概念に先行することはできないのである。

bragelonne
質問者

お礼

 littlekiss さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 鉢被(かづ)き=鉢被き姫  ☆ この民話は 芽出度しめでたしの物語りのようですね。  ★ 【所有権の起源】  ☆ ヱ″ブレンの考えによると 女の略奪と所有が起源であるような。理由を示し得ないのですが どうもおもしろくありません。  とりあえず 起源ではありませんが どういう考え方ができるかについて 質問として提出したものがあります。ここにかかげておかせてください。  【Q:所有とは 何ぞや?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4248807.html  ☆☆ (その趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~  簡単には 個人的な所有ではなく さりとて 国有ではなく また 社会的所有でもなく 《個体的な所有》と呼んでみます。個人としての私有財産という概念 これを基礎として それに 同時に 《関係的な所有》という概念を 絡ませます。経済的な成果の半分は 関係的に・総合的に みなの業績によって もたらされるという考え方です。これは 非現実的な思想でしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 起源については 《総有》といった考え方ないし歴史事実も示唆的であるように思います。  さて ご回答内容がよく分かりません。わたしの説明は飲みこんでもらったということでよろしいでしょうか?

回答No.7

【QNo.5307920 罪をかぶせること?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5307920.html

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 【QNo.5307920 罪をかぶせること?】回答No.3  ▲ (刑法第三十八条:故意) ~~~~~~~~~~~~~~~   罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。    ☆ ザビーヌ事件の犯行者は 誘拐・監禁・虐待の意思を持っています。  2 重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。    ☆ 犯行の前から終わるまで 意図しておこなっています。  3 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。    ☆ 知っていたはずですが そういうことなのでしょう。つまりこの項目は別ですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうでしょう?

回答No.6

おはようございます、bragelonneさん。 ●★ (1) ひとは罪をなぜおかしてしまうの?  ☆ という主題のもとに考える筋道がよく分からないのですが どうも焦点がちがうように思うのですが どうですか? 罪とは何か? 罪にあたるものってなにかなぁー?と 罪が先に規定されているからおかすおかさないの基準があとからうまれてくるんじゃないの? で、ジャジメンはだれか?となれば―――――人

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます littlekiss さん。ご回答をありがとうございます。  或る日の朝いつもと同じように自転車で通学している途中 バンのくるまが前をさえぎったかと思うと 二三人が出て来て 瞬く間にかのじょをくるまの中に連れ込んで走り去った。監禁した。虐待した。  この犯行者は 誘拐およ人身売買の常習犯である可能性が示唆されています。人身売買は 昔の貴族だとか町の名士だとかも何人か裏のつながりとして絡んでいるのではないかともうたがわれています。  でこの意志行為は 人間の意志そのものを無きものとする内容を持っているので 人間の意志行為としては認められない。よって無効である。  この判断は まちがいか? してはならないのか? 哲学ではないのか?――こういう問いです。  ▲ (ヰキぺ:無効) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%8A%B9  無効(むこう)とは、効力が生じないこと、またはそのような状態をいう。  法律上、特に民法上では、法律行為や意思表示がその有効要件を満たさないために、最初から確定的に効果を生じないこと、または、そのような状態にあることを指して使われる。  ▲ (ヰキぺ:公序良俗) ~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%BA%8F%E8%89%AF%E4%BF%97  公序良俗(こうじょりょうぞく)とは、公の秩序又は善良の風俗の略であり、これに反する事項を目的とする法律行為は無効とされる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ☆☆  この犯行者は 誘拐およ人身売買の常習犯である可能性が示唆されています。  ☆ これは《可能性》の問題ではなく 事実です。書き間違いました。  全部で六人を誘拐し そのうち四人は殺害してしまいました。ザビーヌとかのじょのあとに連れて来られたレティティアのふたりは 生還しました。むろん裁判も行なわれ 済んでいるようです。  背後の組織についてのうたがいは うたがいで終わっているようです。

回答No.5
bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ★  【私人間効力】  ☆ 憲法とか刑法とか特定の法律のもんだいとしてあまり考えていなくて つまりそういう意味で 人権の侵害ということは 存在としての《わたし》の自己表現をいっさい踏みにじるという一般的で或る意味で抽象的な理念において捉えていると言うことかも知れません。でも身体の拘束なり抵抗し拒否する意志を無視することなりは 表現の自由を侵すことなはずです。  そういう意味で 次のように単純な筋道なのですが?  ☆☆ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり 公序良俗の違反ないし 自由や人権の侵害 この行為については 無効が成立するということではないですか? この一本の筋道で考えておりますが どうですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 何かが足りないのか。法律のいづれかを特定して条文にも沿って明らかにしなければならないと言っておられるのか。・・・どうですか?

回答No.4

(1)ひとは罪をなぜおかしてしまうの? 罪の構成要件は? ●―――――無効の行為だと判断してはならないか? “ 記述されざる構成要件要素 ”がある場合があるから 【錯誤】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AF%E8%AA%A4 錯誤(さくご)とは、 一般的には、 人の 主観的な認識と 客観的な事実との 間に 齟齬を 生じている 状態の ことをいう。 民法においては、 伝統的理解によると 内心的効果意思と 表示行為から 推測される 意思(表示上の効果意思)との不一致をいう。 刑法においては、 主観的認識と客観的な 事実又は評価との不一致をいう。 これは犯罪事実に関する 「事実の錯誤」と 自分の行為が法的に許されているか否かに関する 「法律の錯誤」に 分類される。

bragelonne
質問者

お礼

 ううん。どうなんでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (1) ひとは罪をなぜおかしてしまうの?   罪の構成要件は?   ●―――――無効の行為だと判断してはならないか?   “ 記述されざる構成要件要素 ”がある場合があるから  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むつかしいのですが まづ次の記事を参照します。  ▲ (ヰキぺ:構成要件) ~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E6%88%90%E8%A6%81%E4%BB%B6  ・解説  罪刑法定主義の観点から、構成要件は、条文に一般人が認識可能な形で定められていなくてはならないとされる。  ただし、刑法の謙抑性の立場から、法の適用を限定するものについては法令に規定されず判例で認められるものがあり、これを《記述されざる構成要件要素》という。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 次に  ★ (1) ひとは罪をなぜおかしてしまうの?  ☆ という主題のもとに考える筋道がよく分からないのですが どうも焦点がちがうように思うのですが どうですか?  つまり 公序良俗の違反ないし 自由や人権の侵害 この行為については 無効が成立するということではないですか? この一本の筋道で考えておりますが どうですか?

noname#135843
noname#135843
回答No.3

 こんばんは、Hidocchiです。  この場をお借りし、美しい”詩”をお送りいただきまして、厚くお礼申しあげます。  この事件につきましては、実を申しまして、愚生のオツムでは回答することが非常に困難な問題でございます。 (1)ひとは罪をなぜおかしてしまうの? (2)法益の問題か?それともモラルの問題なの? (3)偶発性の問題はどうなっているの? (http://dell-support.okwave.jp/qa5684019.html No,53からでございます)  いろいろと頭の中をよぎり、どうご返答させていただいてよろしいのか 非常に悩む問題でございます。  誠に申し訳ございません。恐縮の極みでございますが、もう少しヒント(問題の方向性)をご教示きただけないでしょうか? もちろん、哲学の問題かと解しております。  ご返答の程、いただければ幸甚に存じます。よろしくお願い申しあげます。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  アポロンはどうでしたでしょうか。またまた 異邦人の問題になったようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) ひとは罪をなぜおかしてしまうの?  (2) 法益の問題か? それともモラルの問題なの?  (3) 偶発性の問題はどうなっているの?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。そうですね。とりあえずこれらの問題は 括弧に入れておいてくださいますか。一般に犯罪行為について その人間の意志行為を 無効だと見なすこと この判断は なぜいけないのか? なぜ哲学ではないのか? この一点に集中したいのですが どうでしょう?  たぶん そのときには そうは言いつつも これら三つの問題点なども深くかかわって来ているのではないかと思うのですが どうでしょう?  直前のふたつの回答でのやり取りもご覧になってください。  そうして わたしは決して前回の【Q:ザビーヌ事件について】においてみなさんと共に問い求めたところから離れたわけでも考えを変えたものでもありません。けれども まだ結論としてはっきりしていないところがあるのかも知れないと どうしても思われました。尋究しうるところまですすめておきたいと思っております。よろしくどうぞお願いします。  * むしろなぜ哲学としての判断でないのか――判断ではないし してはいけないと見る側から その根拠を知りたいところですが その展望はまだわたしにもよく見えていません。分かっているのは 例の《無主体の過程》説にかかわっているであろうということのみです。いわゆる構造主義の前提にある人間観=社会観なのではないかと思っているのですが。  挙げていただいた三つの問題点など犯罪行為にかんする事柄や観点から迫ることも よいでしょうか? わたしには うといところがあります。  * ぎゃくに言えば Hidocchi さんから頂いたご回答に賛同しつつ わたしはその見解において自信があると言おうとしているのかも知れません。そうなると 意地のわるい質問にもなりますが たとえとして出させていただくなら 回答No.1のごとく 一般的に見て結論内容にかんしてまだ はっきりしていないところがやはりあるのではないか。なぜ通じていないのだろうか。なのですが。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  アポロンの詩は お贈りするなどとおこがましいことを申してたいへん失礼しました。  というのも 《異邦人》の感覚といった問題は とうぜんのごとくわたし自身のそれでなのですから けっきょくふつうにお応えを為したという格好なのだと思います。  そういうふうにお受け取りくださいまし。お礼をおっしゃっていただきありがとうございました。  * 拉致された――それは無効だ。こういう判断が なぜふつうに成されないのでしょう? きわめて当たり前のことだと思うのですが いったいどうしたものでしょう? という思いがつづいていました。それゆえ設問に及びました。お分かりいただけると思います。

回答No.2

こんばんは、bragelonneさん。 ●―――――哲学のものではないのか? ほじゃ、このあたりから 【うそと真実の弁証法】 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADFA_jaJP336JP337&q=%e4%ba%8b%e5%ae%9f%e3%81%a8%e7%9c%9f%e5%ae%9f%e3%80%80%e5%bc%81%e8%a8%bc%e6%b3%95

bragelonne
質問者

補足

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ヨブ論は 出ませんでしたか?  ★ 【うそと真実の弁証法】  ▲ (同上 p.10/12) ~~~~~~~~~~~~~~~~  《真実》と《うそ》は、それ自身を見るかぎりでは、同じ姿をしていて、うそとも真実とも判別しがたい。  それのちがいは、根本的には、それが表わしているもとの対象の本質に、それが一致しているのか否かということにあり、この一致・不一致を検証していくことで、真実とうそは、まるで反対のものとなって、あらわれてくる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まちがいです。《真実》も《真実ではないといううそ》もあくまで《わたし》の主観内容にかかわります。  《うそ》は それをつくとき こころに動揺や不安を自然にともないます。やましさや 後ろめたさをおぼえます。それだけのことです。そういう定義で足りると考えます。  つまり 本人は 絶対的に知っています。死ぬまで知っています。  たとえば このように定義したうその場合には そのウソが《表わしているもとの対象の本質に、一致している》にもかかわらず 本人が知らずにいて・従って勘違いによって自分の内面ではウソだと思っていたという場合さえ含みます。  従って わたしのこの定義の場合には あとで そのウソが その悪影響が少なくて済み軽かったとか ウソ自体は軽いものなのに思わぬ悪影響を及ぼしたとかいう結果をともなったとしても とりあえずには問いません。一般に自己表現という行為において おのれの主観として自分の心や意志を曲げたという判断かつ実行のことを言います。  これが《うそ》の問題です。  一般に《無効》の行為は このウソから出るものと考えます。  自分のにしろ相手のにしろその存在を抹殺するというウソは 意志行為であるにもかかわらずもはや人間の意志行為だとは見なされない。つまり 無効だと判断する。  このようにザビーヌ事件を無効と判断することは なぜいけないとなるのか? なぜ哲学としての判断ではないのか?  このように問うています。どうでしょう?  * 次の《信仰》についての定義は ひどすぎます。  ▲ (【うそと真実の弁証法】p.12/12)~~~~~~~~~~~  宗教は、信仰をもってするもので、信じることが肝要である。  信じるとは、知的なせんさく・懐疑を停止し、与えられた主張・真実といわれるものを、そのままにまるのまま素直に受け入れることである。  真理・真実は、知的ないとなみのもとにあるのだが、宗教は、この知の働きをいわば信というマヒ剤によってマヒさせ停止させるのであり、うそであっても、無批判に受け入れていくことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《信仰》は 知性ないし経験思考が及ばないところについて――もしくは 及ぶか及ばないかが分からない領域について――つまりは従って《非思考》として わが心にかすかに捉えたかに思える志向性のことです。こころの窓のことです。  《宗教》は この信仰を二人以上の人間が 互いに同じものとして持つと強引に見なすところから――つまりは 錯覚を現実だと言いくるめるところから――出発するまやかしであり ウソの意志行為です。  宗教にかんしてわれわれは決して《無批判》ではありません。と言うよりも その出発じたいが 信仰の自殺行為です。組織をつくるときから 無効です。  《信仰》は 非思考ですから なぞであり つねになぞです。むしろ《懐疑》しつづけます。あらゆる懐疑をもってしても なぞであり続ける領域について 《わたし》が相い向かうとき こころの明けもしくは伸びとして 信仰が芽生えます。その内容には 大きく分けて有神論と無神論とがあります。有神論の中に その神の名をどう呼ぶかで いくつかの信仰形態があります。この信仰の形態別に 無効の行為として宗教が発生しています。

  • heartmind
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回答No.1

こんにちは。 危ない思想性に導くからです。 日本の現代の児童ポルノの問題を考えてみてください。 虐待、DV、セクシャルハラスメントこういう言葉は日本での歴史は、比較的新しいのです。存在してても、言うのはタブーでした。 お相撲さんの虐待死は、今まで隠されていた歴史的事実です。 ジェンダーは、武士論では公然と肯定されています。 社会が成熟すると、明らかになってくることもあるのです。 モラルが重要視されてくるという必然の潮流です。 個人的人生論とは相反します。難しい問題ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 危ない思想性に導くからです。  ☆ ふうむ。そうですね。たとえば 拉致事件について考えてみてください。  ほとんど抵抗力の及ばない力によって身体を拘束され 連れ去られる。この行為は むろん犯罪であり それは人間の意志行為としておこなわれたにもかかわらず 人間の意志だとは認められない。すなわち 無効である。――と判断すると 《危ない思想性に導》かれるのですか?  どういう《危ない思想性》ですか?  《タブー》と見なされている事柄については 判断を明らかにしないというご見解でしょうか? 表現の自由をご存じないのですか?  ★ モラルが重要視されてくるという必然の潮流です。  ☆ そういった社会の思潮の移り変わりには関係ないはずですよ。表現行為の自由という人間の自由はです。  ★ 個人的人生論とは相反します。難しい問題ですね。  ☆ よく分かりません。人生論に反するというのは 誰の人生論ですか? 反しようが合っていようが やはり表現の自由です。何ら《難しい問題》ではありません。どうでしょう?  * むろん表現の自由には 何も表現しないという自由もあります。ただしだからと言って 表現する自由を制約する社会的な動きや力の側に何故まわらなければならないのでしょう?

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