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不平等な世の中

手が二本ありますか?一本しかない人もいます、不平等ですね。 目が見えますか?見えない人もいます、不平等ですね。 歩けますか?歩けない人もいます、不平等ですね。 金持ちな人がいれば、貧乏な人もいます、不平等ですね。 いじめられるひともいます、不平等ですね。 差別を受ける人もいます、不平等ですね。 自分の性格で苦しむ人もいます、不平等ですね。 ・・・何故、世の中はこんなに不平等なのでしょうか?

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  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.13

 <蛇足> 補足を頂きまして、あなたが素晴らしい道を辿ってきた人であることがわかりました。 単純に見えたあなたの質問には、もっと深い意味が隠されていたように思います。 これは、私の私見に過ぎませんが、人生に勝利というゴールがあるとすれば、何かを達成することも重要なことだと思うのですが、 それ以上に、死を前にした時、自分の心が歪んでいなかったなら、それだけでも大勝利といえるのではないかと思います。 それぐらい、人間が歪まないという、たったそれだけのことが大変難しいことなのです。 子供から大人になって行く過程でさまざまな人間関係や経験を通して 知識や知恵も得ますが、少しずつであっても、我知らず心も歪んでしまうのです。 大人になって経験値が高くなるにつれ、本来の幸せ軌道からどんどんずれていくのは何とも皮肉なことと思います。 「人生、如何に幸せになるか!」の答えは、「人生、如何に歪まないか!」と置き換えることができるものと思います。 何か偉大な業績を打ち立てることも決して簡単なことではありませんが、もっと難しいのは、歪まない、捻くれない、ねじ曲がらないことだと思うのです。 人生の荒波に揉まれながらも、少しも歪まなかった人がいたなら、その人こそ、人間の道を制覇したと言えるのではないでしょうか。 歪まない先に、人間の完成した自然な姿が現れるように思います。 あなたが素晴らしい人だと思い、つい自分の持論を持ち出してしまいました。 お聞き苦しかったなら、どうかお許し下さい。

noname#104650
質問者

お礼

再びの回答ありがとうございます。 私も、hyuuma8579さんと完全に同じような考えを持っています。 人間はどんな困難にぶつかっても、少しも歪まずに挑戦し続けることが大切だと考えています。 人生は努力、そして忍耐力が重要だと思います。 素晴らしい人だと評価していただき本当にありがとうございました。

その他の回答 (17)

回答No.18

というか~他が皆、オレと同じじゃすっごくツマらない を~通り越して、関わりを持つ意味すら無いと思うケド

回答No.17

森田療法は無条件降伏と教わりました つまりendeavor10さんのご質問も無条件降伏なさったらいいかも知れませんね。 つまり人間の智で治そうと(直そうでした)から直らない 答えを出そうとするから答えがでない 森田療法では直そうとすれば直れないと悟らせろ事だと思います。 いらぬ御節介だったらすみません。 http://www.jinseimondainokaiketsu.com/

回答No.16

神がそういうゲームを楽しんでいるから、というのはどうでしょう?

回答No.15

 しばしば混同されることですが、物事そのものが、もともと不平等な性質を持っているわけではありません。われわれ人間が、物事そのものに対して、ある種の価値判断を加えてしまうからこそ、不平等が発生しているのです。確かに、われわれの世界は、様々な不均一に満ちていますが、その単なる「揺らぎ」に他ならない不均一を、なにか不当な「揺らぎ」として捉えてしまうところに、人間の人間たる性質があると思います。 したがいまして、不平等とは、人間の価値判断の一種、すなわち、ある物事は「平等であるか/平等でないか」といったような、単なる価値判断の一種でしかないと言えましょう。  そうしてみるならば、この価値判断に対する考察を中心にして、これまでの不平等についての考え方を見直してみなければならないでしょう。つまり、従来では「不平等である」とされてきた物事も、それが無意味な価値判断の結果物であるならば、それはそもそも不平等ではないのです。もちろん、この価値判断が有意味な場面も考えうるので、この価値判断を完全に捨て去ろうと言うのではありません。すなわち、この価値判断が意味を持つ空間の境界線をどこかに引き、本当に不平等ではないものを取り除こう、ということを言おうとしています。  まず、「平等である」ということが、ある種のルール・必要として存在する空間の中では、ある物事が「平等であるか/平等でないか」という価値判断は意味を持つと言えるでしょう。たとえば、「一人あたり三つずつドーナツを配る」というルールが存在する空間の中で、ある人物にだけドーナツが二つしか配られなかった時、「平等であるか/平等でないか」という価値判断を行うことは有意味でしょう。  他方、「平等である」ということが、ある種のルール・必要として存在しない空間の中では、そのような価値判断は必要ありません。たとえば、「自由にドーナツを取っても良い」という空間の中で、ある人物が少ししかドーナツを取れなかった場合、「平等であるか/平等でないか」と言う価値判断を行うことは無意味です。  そうしてみると、貴方の挙げられた「手が二本ある/手が二本ない」「目が見える/目が見えない」「歩ける/歩けない」「金持ちである/金持ちでない」「いじめられている/いじめられていない」「差別を受けている/差別を受けていない」「自分の性格で苦しんでいる/自分の性格で苦しんでいない」という例は、すべて不平等を表しているものではありません。はたして、その中のどれか一つでも、「かくあるべき」と規定されたものがあったでしょうか。手の本数にしろ、視力の有無にしろ、「手が二本あるべき」という規定も、「目が見えるべき」という規定も、本来は存在しないのですから、そもそも、そうした価値判断は無意味なのです。  本当に不平等なのは、「年金が払われた/年金が払われていない」「税金を納めた/税金を納めていない」というような物事でしょう。すなわち、人間が社会の中で定めたルール・必要について、「従っている/従っていない」ということの差異が、本当の不平等なのです。「かくあるべき」という規定のない空間で、「平等であるか/平等でないか」と問うて得られた結論は無意味なのです。  テレビのコメンテータがたまに発言している、「人類社会にしか不平等は存在しない」という言葉は、まさしく、こういう意味で正しいのだと思います。

noname#104650
質問者

お礼

詳しく解説してくださり、ありがとうございました。 回答を読んで、「なるほど」と思いました。 不平等の概念について深く考えることができ、勉強になりました。

noname#136007
noname#136007
回答No.14

  >強迫神経症、パニック障害などの神経症にも苦しめられてきました。 神経症で良かったと思うよ。 神経症じゃ、まず、死なないからね。 俺の、知っている人で「鬱」が何人かいるが、致死率高いしね・・・ 考え方によっては、運がいいとも言えるよ。頑張ってな   

noname#104650
質問者

お礼

確かにそうですね。 ありがとうございます。

  • OtamaFJ
  • ベストアンサー率10% (4/37)
回答No.12

>何故、世の中はこんなに不平等なのでしょうか? その不平等を是正するため「思いやり」として政治がうまれたんですよ。デンマークをお手本にするなら「生活満足度の追求」が政治の最高指標でありますから、そこでは不平等は痛みや苦しみを無くすことはできないにしろ、それを和らげる方向へ向けています。政治の目的は日本のように経済指標をあげて(成長率とか)満足するものではないのです。我が国は政治を勘違いしています。 じゃあ「不平等の原因ってなに?」てあなたは言うでしょう。例として挙げますが、人間の脳には誰しも認識不足な部分(小さな障害)があり、それが個性を作っています。ちなみに、あまりに障害が偏向すると自閉症圏に入ったりします。要は誰でも「小さな脳障害者」であり、それにより個性豊かな人類が存在するのです。一定範囲の先天的不平等=個性、ていうことはお忘れなく。 所得格差や傷病などは、上記のように政治の存在理由を考えてください。

noname#104650
質問者

お礼

参考になりました。 回答ありがとうございました。

noname#131234
noname#131234
回答No.11

質問者様には、該当しないのですが、 コミュニティー全体を見渡すと、 哲学コラムの一部のものに「質問する側」の者のでありながら、 同時に くだらない質問を繰り返しておきながら、 堂々と回答してくれる他人を「不正に」「主観をもって」なんくせをつけ、 「自分は偉い」と勘違いして、国語の先生を気取り、ああだこうだと屁理屈をこね 感謝しない。 回答に対しては、自分の意見・我見を述べ、 コメントを繰り返すことのために利用する。 さらに、自分の意見を感謝の言葉と偽って述べ 「私の意見はこうですが どうでしょう」と、サイトの読者にとんでもない自己宣伝をする。 そういう不平等な世の中です。回答質問の意図が、簡単に曲げられていく世の中です。 歪です。 しかたがありません。 しかし、不正を働くものが誰であるかという事は見抜いていくことが出来ます。 不正・不平等の原因を作ったのが、誰なのかは 忘れないようにしていく、そういうヤツラに金を払わないようにしていく というのが肝要だと思います。(たとえば某放送局・某航空会社など) 騙されないようにすることです。 仮に騙されても、ほかの人は騙さないように心がけることです。

noname#104650
質問者

お礼

分かりました。 回答ありがとうございました。

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.10

あなたの質問では、人間の姿の半分しか捉えていませんね。 もとより、外見や外的条件は、不平等なのです。 というより、不平等だからこそ素晴らしいとも言えるのです。 手が二本ある人とでも、心が歪んでいる人もいれば、手が一本しかない条件でも、心正しく歩む人もいます。 目が見えなくても、称賛すべき人生を歩む人もいれば、目が見えているのに、肝心な心の目が曇っていて、悲惨な人生を歩む人がいます。 金持ち家族でも、あえて自分達はアパート暮らしをして、困った人のためにほとんどを寄付したりして人様のために生きている人(実際、私の知り合いにいる富豪がそうです)もいれば、物欲をほしいままに生活している傲慢な人もいます。 貧乏のため卑屈な性格を持つようになった浅ましい人もいれば、 貧乏などどこ吹く風といったようなおおらかな人もいます。 etc.etc. これらの例が意味するものは、人はみな心だけは平等なのだということです。 貧乏という同一条件をあたえても、かたやおおらかに生き、かたや卑屈に生きる。 この問題は、心のありかた以外のなにものでもありません。 貧乏ならば誰でもが卑屈になるとしたら、まるでそうなるようにインプットされたロボットのようなつまらないものではありませんか? 貧乏だから卑屈になれとは誰もいいません。自分の自由意志で選択してそうなっているのに過ぎないのです。 金持ちがみんな傲慢だとは限りません。金持ちであっても人間性を失う人もいれば、謙虚な人もいるのです。 心の持ち方で決まるのです。つまり人間の自由意志だけは、完全平等なのです。 自由意志が自由意志らしいのは、何物にも規定されないからです。 逆にいえば、そういう性質の自由意志をわざわざ自分から小さく規定してしまう人がいるのです。 金持ちだから傲慢になれとは誰も言ってはいないのです。 貧乏だから卑屈になれとは誰も言ってはいないのです。 目が見えないから世の中を羨ましく思えとは誰も言ってはいないのです。 人より手が少ないから自信を失えとは誰も言ってはいないのです。 そう決めたのは、自分以外のなにものでもないのです。 外的条件の備不備や外的条件の充足欠損が心のあり方や生き方を決めたのではなく、自分が選んだ結果なのです。 そう考えると、心や心の努力だけは、完全に平等なのだなと思います。 言い方を換えれば、自分を成長させる道は平等なのです。 今の環境が他の誰かと比べていいとか悪いとかで満足したり、不満を持ったりするのではなく、今の環境の中から自分の最高を作り上げていく作業が素晴らしいのです。 あなたには挑戦心がないのでしょうか、 「世の中でもっとも悲惨なみじめな誰も理解できない不幸の絶頂を味わってみたい!!だが、私は絶対歪まずに人間を貫いてみせる!!」 私は、そう思うし、またそれらに近い、人が見ていわゆる不幸な境遇や逆境を乗り越えてきました。しかも何度となく。 順境じゃつまんないぐらいです。 たとえば、「もっとひどい仕打ちを受けてみたい!!だが私は絶対恨まないし、歪まないぞ!!来るなら来い!笑い飛ばしてやるぜ!!」てな感じで。 山登りも一緒と違いますか? 素人が登るような低い山がどんだけ魅力がありますかいな? 自分を成長させてくれるには、厳しい冬山や高い山を求めるのが人間だと思いますが。 人間関係も同じです。 誰の言うことでも信じる人から信じられても嬉しくないですが、人間不信の人の心を動かし、そういう人から信じられる方が嬉しいですよね。自分が本物になる以外ないからです。 もう一度言いますが、 順境や恵まれた境遇でも心はいくらでも歪むのです。 逆境でも、人から尊敬されるような実績を打ち立てることもいくらでもできるのです。 環境が不平等なら、心の平等を使えばいいだけのこと!! つまり、外的な要件は、関係ないってことです。 平等でも不平等でもどっちでもいいのです。平等に与えられた自由意志や心さえしっかりしているのなら・・・

noname#104650
質問者

補足

>あなたには挑戦心がないのでしょうか そんなことは全くありません。私は、誰よりも努力を積み重ねてきました。自分の周りからも「こんなに努力する生徒はいなかった」と評価されてきました。予備校にも通って浪人も経験しました。さらににこの時期には人間関係のどん底にも沈んでいました。また、強迫神経症、パニック障害などの神経症にも苦しめられてきました。何度、挫折しても再び立ち上がり挑戦し続けてきました。青春時代にはこのようにたくさんの困難を積み重ねてきたんです。困難があるから成長できたと考えています。本当にどん底の状態でしたが、逆境をはねのけてきました。この考えは回答者と完全に同意です。それにもかかわらず、こんな質問をしてしまい、反省しています。人のために尽くしたいという気持ちを忘れずに生きていきます。

  • burahuman
  • ベストアンサー率27% (167/604)
回答No.9

不平等を無くすには皆完全に同じ状態にしなければなりませんがそのような事は自然に反していますからね。 自然に反する事を実現させるには多大なエネルギーを必要とし、しかも下位の状態に合わせなければなりませんから人間の本能にも反すると思います。 従ってそのような意味での不平等は宇宙が存在する限り未来永劫続くと思いますよ。 宇宙の法則とも言える不平等の存在を嘆いても仕方ない事でならば積極的に受け入れて生きる方が賢明だと思いますね。

noname#104650
質問者

お礼

自らの運命を受け入れて生きていきます。 回答ありがとうございました。

  • booter
  • ベストアンサー率34% (269/769)
回答No.8

何故、運の強い人、弱い人がいるのか? ​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5514257.html​ の、No.13の私の回答から引用します(少し修正しました)。 > 私が学生の頃、周囲ではいたずらに蟻を踏み潰したり、あるいは生きた蝶を動けなくして蟻の巣の穴の近くに置いたりと残酷な遊びで楽しんでいました(ちなみに自分はそうした行為に引いていたので加わりませんでしたが)。 > 蟻や蝶達は「運が悪い」とか「どうしてこうなるんだ」と思っていたに違いありません。 > > しかし当の我々にとっては、虫達の運がどうのというよりも、人間が行ったただの事象に過ぎません。 > その事象に該当する虫達がいたかどうかです。 > > これを神様視点で言い換え、例として落雷を考えれば、雷が落ちたという事象の範囲に人間がいたかどうか、という事になります。 > ここから言いたい事は、運命というのは一番基礎的な部分では単なる確率にすぎない、という事です。運命というのはその確率として言える事象に遭遇してしまった人の主観的な意見だというのが私の考えです。 > > あるものごとを主観的に捉えるか客観的に捉えるかで運命か事象かという観点の違いなのですが、それでは神様ではない人間はそれにどう対処すれば良いのか、結論としては「人間が虫達に運命を辿るストーリーを用意していないのと同じに、神様は人間に運命を辿るストーリーを用意していない(大体60億人もいるのに面倒見切れないでしょう)、悲観も達成感も大局的に見れば本来は存在し得ず、運が良い悪いというのは人間の主観的な観測である。ならばその基準を人間で作ってしまって人間が勝手に達成すれば良いのではないか」と考えます。 ----- 福沢諭吉の「学問のススメ」を読んで下さい。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、というが、世の中実はどうもそう言う風にできていない」 「本来なら人はその働きの高低に応じてそれなりの所得を得るべきである」 「ならば、よく働いて金を稼ぎ、然るべき所得を得るべきである」 「そして金を稼ぐためには実用的な勉強をすべきなのだ」 と学問の修得を勧めています。(そして実用的でない学問はするべきではないとバッサリ斬っています)。 ----- 人は与えられた天命を全うすべきで、誰かの運命と比較する事など意味がありません。 自らに与えられた不利な武器で戦い、勝ち抜く事こそが一番良い人生なのではないでしょうか。

noname#104650
質問者

お礼

詳しく解説してくださりありがとうございます。 参考にさせてもらいます。 与えられた天命を全うして生き抜いていきます。

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