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美術品における「欠損」の とらえかた

私は、ルーブル美術館所蔵の「サモトラケの二ケー」像が、子どもの頃から大好きです。 頭部と腕がないことが、かえって、なんとも言えない動的魅力を醸し出しているように思えてなりません。 (ヴィーナス像なども、むしろ、腕が欠けていることの魅力を説かれているようです) 事実、欠損しているわけですから、完全なる美、とは言えないはずなんですが、私には、その「欠損」こそが、むしろ、「完璧な美」へと導いているかのように感ぜられてなりません。これは、どういうことでしょうか。 鑑賞するそれぞれの人が、作品の欠けている部分を、それぞれ自分の思うままに埋め合わせることの可能性に、カギがあるのかなと思っています。 このような、美術品の場合の欠損は、実際の美術界においては、どのように評価されているものなのでしょうか。

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回答No.2

こんにちは。 美術業界の末端に携わる者の一私見です。 欠損の修復とは言え、事後的に作品に手を入れる以上、いかなる復元すらも「改変」はまぬがれません。 昨今では修復は最低限かつ慎重に行い、復元図をCGで表現する事例が多いのではないでしょうか。 勝利の女神ニケですか。 私も真っ先にあの階段を目指すほどで、半日見ていても飽きません。 そして、noname002様と同様に、彫像などの「欠損」がもたらすものとは一体何だろうと常々思うところがありました。 私のほうこそ、ご意見を頂戴できたら幸いです。 >「欠損」こそが、むしろ、「完璧な美」へと導いているかのように感ぜられてなりません。 はい、仰る通りです。 ウンベルト・エーコは『美の歴史』にて「18世紀後半に発展した廃墟の美学も、新古典主義の美の両義性をあらわしている。」と記しています。 完全なる美、伝統的な美の想定と対比により、欠損、廃墟の美というものが成り立つのでしょうね。 殊に出土品の「欠損」には、「失われたもの、取り返しのつかないもの」として、時の蹂躙やはかなさといった郷愁を、 少なからず私達に呼び起こすものかもしれませんね。 ニケにしても、欠損状態ながら、彫像が孕むあまりの躍動感ゆえに、写真撮影がドラマチックになりすぎたりして。 意外とね、ありのままの自分の眼のようにはいかずに、難しい。 また、昨年「海のエジプト展」で求めたカタログには、エメラルドブルーの海底に、半ば埋もれ欠損したままの女神像が載っています。 でも、幻想的な海中の彫像には、もはや「欠損」以上の「何か新たな意味付与」がなされているように強く感じます。 陳腐な表現では「天変地異により失われた古代都市の悲劇」「海のロマン」が相応しいようで、 だからでしょうか、海洋堂のフィギュア(スノードームに注目!)にもなるのでしょうけども。 http://www.asahi.com/egypt/goods.html 翻って、日本の「欠損」ですぐ浮かぶとすれば、やはり「織部」でしょうか。 「重要文化財 古伊賀水指 銘 破袋」(五島美術館蔵)に添付の書状には、”水を入れる器にとって致命的な大きな欠けがあってもなお、これほどのものは他にあり得ない”という旨の賛辞が記されています。 「欠け」「歪み」を愛でる心とは、いったい…。 http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/water-jars.html そうそう、日本人は、隣国と比較して、ややアンバランスな顔立ちを好む傾向があると聞いたことがあります。 自然な感じが愛嬌があって好ましいとのこと。 対する韓国では、整形施術が日本以上に進んでいる面もあるような…? 古代より先進的な大陸文化、ストイックな中華思想の影響を受け、また常にそれを意識せざるを得なかった日本の文化のほんの一例ですが、 周縁の土地ならではの、中心文化(大陸文化、伝統的なるもの)に対抗する「破格(破調)」の精神のあらわれなのか、 それとも、神代の頃から受け継がれてきたアニミズムの名残なのか。 (むろん織部は戦国武将の気骨もありましょう) さらには、興福寺の八部衆像・阿修羅像(国宝)正面の合掌印につき、 明治期の廃仏毀釈による損壊後に、従来あまり例をみない阿修羅像の「合掌印」が「復元された」という仮説があります。 「古写真ギャラリー」をご覧下さい。 手の感じが、ちょっと微妙な感じがしなくもないです。 いかがでしょうか。 合掌印を結んでいたと思われますか。 http://www.kohfukuji.com/property/index.html で、仮に「改変された」仮説通りに話を進めますと、 この場合は「欠損」状態を留めるよりも、「復元」するべきだったのかどうか。 ──でも、合掌印を復元するという事後的な「改変」より、従来にもまして「完璧な美」に近付いてしまったとしたら──昨今の阿修羅像ブームと照らし合わせて、いったいどうなのだろう── なんて、ふと思ってしまいました。

noname002
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答、有り難うございます。 密度濃い御回答で、字数制限を遣り繰りするのに四苦八苦。 返事が大変に遅れてしまい、失礼しました。 よくも これだけ、私の好物を並べてくださったものです(笑 >日本人は、隣国と比較して、ややアンバランスな顔立ちを好む傾向が >韓国では、整形施術が日本以上に進んでいる面も 韓国は、そうらしいですね。他の国では、どうなんだろ、調べてみるとオモシロいかも。 でも、日本人の その話は、日本人ながら知りませんでした。 対称性というものは美の基本基準と聞きますけれど(遺伝子レベルの支えがあるとか)、いわゆるファニーフェイスくらいが、整い過ぎよりは良いという感覚でしょうか。整い過ぎは、ときに、それこそ無理っぽい不自然な感じを受けることがありますね。 ですが、やはり、基本あってこその「崩し」なんだろうと思います。 「周縁の者」ならばこその、中央に対する反感、反抗。 ここで唐突に思い出したのが、父が、現役時代の「北の海」を、おもしろくない、と言ったことです。強過ぎてツマラナイの通り越して憎たらしいのだそうで(笑)勝手な言いぐさです。 横綱ご本人は、まじめで照れ屋で誠実な人柄だそうで。お若い頃の結婚会見で、お相手女性の気に入ったところを質問されたときの、照れ過ぎて苦しそうな答え方が忘れられない(笑 >「破格(破調)」の精神 美は乱調にあり、ですか。 そして、「花は盛りを月はくまなきをのみ見るものかは」 興福寺の阿修羅像、これがまた大好きなんです私。 「美しき怒り」に会いに奈良へ行こう、と毎年のように思います。 写真が小さめで、よく分かりませんが、多分、片手の状態から、合掌していたものであろうとしたのでしょうね。その後ろの手も、元は何か持ってたのかな?という感じがします。 他の古写真類も眺めて思いましたが、多分、杖を持っていたのであろう手が、拳で殴ろうと振り上げているように見えたり、「ナイス・プレイ!」と親指を立ててるように見えたり。そんなわけない(笑 >復元するという事後的な「改変」より、従来にもまして「完璧な美」に近付いてしまったとしたら それでも、改変されたのでは?という疑問が付きまとう限り、つまり「埋め尽くせぬ想像」によって「完璧」たり得るのかもしれません。 エジプトの古遺物と同じく日本のも、写実端正の極にしてシュール!!

noname002
質問者

補足

>いかなる復元すらも「改変」はまぬがれません。 >昨今では修復は最低限かつ慎重に行い、復元図をCGで表現する事例が多いのでは いまどきはCGというものがあるので、便利になったのでしょう。私はサッパリ疎いですが、むかし、テレビ番組で、美術分野の修復業の人たちの仕事ぶりを見ていて、なんと気の張る仕事だろうか、そうとうの完璧主義的な気性でもないと、到底、勤まるものではない、と感心しました。 仰るとおり、復元すなわち改変に、幾分かでも、なってしまうだろうと思います。 おのれが書いた文章ですら、うっかり消し去ってしまおうものなら、寸分違わず書き直すことは、まず、できませんもの。 回答者さまは、実物のニケー像を何度も御覧になっているようで、羨ましいかぎりです。 私の子ども時分からの夢憧れの一つが、世界中の美術館行脚なのですが、いずれルーヴルを訪れた暁には、まっ先、ニケーの元へ向かうだろうと思います。ああ私のニケー(笑) たしか、評論家の呉 智英氏だったと思いますが、その お父さまが、新聞の書評欄か何かで、エーコの『薔薇の名前』だかの評判をお知りになったらしく、買ってきてくれよと頼まれ、そのとおりして数日後、ようすを見たらば、くだんの著作は、あえなく部屋の片隅に放り投げられてあったそうな。 さすがに80代の老人に、エーコあたりを易々読了されたひには、評論家の自分としても云々と仰ってましたが、その年齢で、初めて知ったエーコなる人の作品に手を伸ばそうとする、その知的意欲にも関心致しました。 それくらい、エーコって難しいのでしょ?私は一冊も読んでないです。本当に不勉強の怠け者で、お恥ずかしい。でも、興味は多少ありますので、そのうちには読むつもりでいます。 ギリシア・ローマ古典様式というものは、イヨ―ロップ人(受け売りです 笑)にとっては果てしなく懐かしき憧憬の対象であり続けるのでしょうか。 「廃墟の美学」というコトバが出ました。はからずも、もう一つの質問の回答者さまから、べクシンスキーなる画家のことを知らされましたが、やはり、独特の廃墟を描いたものが知られているそうです。 ただ、思うんですけども、 べクシンスキーの「損壊」とは違う。 グロッタに由来する「グロテスク趣味における欠損」にしたって、人工の、言わば、あざといまでの模倣ですよね。 対して、ここで とり上げているニケー像やヴィーナス像にしたって、その欠損は、わざと欠けさせたものではなく、不可抗力によるのですよね。 「失われたもの、取り返しのつかないもの」、時の流れと、はかなさを感じざるを得ない。それも全体の美に大きく貢献するものとして加味されている。 たとえば、モネの『アルジャントゥイユの雛罌粟の丘』の絵に漂う一種もの哀しさも、そういうことを示しているのだろうと思います。 ところが、どういうわけだか、ニケー像の場合、悲哀どころか逆に、その「欠損」が、躍動感いや増し、力強く全身これ漲らせる効果になってしまっている。なぜ。 >ニケにしても、欠損状態ながら、彫像が孕むあまりの躍動感ゆえに、写真撮影がドラマチックになりすぎたり そうなんですか!そうなんですね。 >意外とね、ありのままの自分の眼のようにはいかずに、難しい。 やはり実物を御覧になっているからこその御発言だと、とても興味深く思います。 >エメラルドブルーの海底に、半ば埋もれ欠損したままの女神像 うわぁステキです。眼の前に浮かびます。 >もはや「欠損」以上の「何か新たな意味付与」がなされている そう、そういうことなんでしょうね。 スノードームに注目!しました。実は私、けっこうフィギュアものが好きだったり。 参照先の、特に#10あたりのスノードーム、制作関係者たちの、せつない願いが感じられるような(笑) エジプトの古代遺物は、「ツタンカーメン」をステンカラーメンなどと のたまう友人(でも、たいへん優等生だった)と共に、実物を観覧したことがあります。 まず、アクナトン像などの巨大さにビックリ。ただ巨大だっていうだけでも、もの凄いインパクトがありますね。 それにしても、アクナトン王の顔立ちは、知的にして色っぽい。私の好きなタイプ(笑) ツタンカーメン王像は、教科書で受けた印象どおりの端正そのもの。 首飾りなどの造りも、とにかく細やか。でも、どこか、おおどかである。 どこの国のであれ、昔の人が つくったものというのは、大胆と繊細とが同居していて、なんとも言えない感じを受けます。 「織部」も、子ども時分から大好きなんです。特に、あの釉薬の色合いが。 焼き物で思い出しましたが、日本には「金継ぎ」「金繕い」という、繊細なんだか大胆なんだか分かんないような陶磁器修復技法がありますね。 継ぎ目を指して「景色」と呼ぶんだから、オモシロ過ぎです(笑)

その他の回答 (9)

回答No.10

noname002様、こんにちは。  そして、このたびも、たくさんのお礼を頂戴致しました。 本当にありがとうございます。 ちょっと、私が能やら、個人的な脱線をしてしまいまして… この点につき、質問者様ならびに他回答者の方々には、煩わしくお思いになられたことと思い、少々申し訳なく思っております。 自重致します。 本当にすみませんでした。 日本の「隠す、見え隠れする」文化というものがあるのならば、それも「欠損の美」と何か通ずるものがあるのかもしれないと思いまして…。 それにしても、行き過ぎたことには相違ございません。 私個人的には、この「欠損」のご質問が、何故かしら、noname002様の御家族との良き思い出話と、とても深い結び付きがあるような気がしております。 愛着、ノスタルジアを感じずにはいられない、とても繊細なお心をお持ちでいらっしゃる。 そして、あらためて「欠損」による美の正体とは、一体何なのでしょうね。 殊に、ご母堂様が御自らお選びになられたエッグスタンドのお話、 こちらをお伺いしているうちに、ただ欠損したから美しさが増すとか、そのような単純な話のものばかりではなかろう、との思いを抱くようになりました。 >根が凡庸だと、かえって、表面の奇を衒うことが目的になることもあるようですが、最初はオモシロく感じても、じきに食傷してしまう。 >全く価値観が違う時代に、ただの日常雑器として粗末に扱われ消えていったもの、当時においても珍重すべく海を渡ろうとした途上に沈んでいったもの、むやみに人目に晒すものでない(目垢がつく、という言い方があるそうな)として奥深く秘蔵されたまま行方不明になったもの。 >恐らく、現在残っている何千倍以上に失われたであろう、それ自体「欠損」。 >そこに「思いみる」という心の動き。 はい、仰る事、とても良く伝わってまいりますよ。 「思い見る」のは、「欠損の当該箇所」を通じて、実は失われた「時」そして「自分の心」そのものを思い見ているのかもしれませんね。 それにしても、十人十色、人それぞれなのですよね、心の琴線に触れる対象物というのは。 本当に、不思議なことだとは思いませんか。 長くなるとまたまた質問者様にご面倒をおかけすることになりますので、最後にご教示下さった2点の絵画について、とり急ぎ触れさせていただきますね。 前者の絵画は、とても清々しくピュアな印象を受けました。 どこかご自身のお心と通じ合うものがおありなのでしょう。 とても素敵な絵画だと思います。 そして後者は、ご指摘の「欠損」に通ずる「時の凝固」を少なからず感じる気が致します。 その系譜は、後の「無人」的絵画にも連なる「静謐さ」「幻想」に集約、表象されるかもしれません。 あたかも、「廃墟画」のうちに描き出されているちっぽけな人間描写の如く、人間の存在そのものがいつしか徐々に稀薄化していく、そんな空間を志向しているようでもあり、 現代にも通ずる「何か」があるように思えてしまうのです。 私の中では、「欠損」の美は、まだまだ謎のままです。 ですが、このご質問を通じて、私自身非常に多くのヒントを頂戴することができました。あらためてこちらの質疑に参加させていただけて良かったと思っております。 また、次の機会も、こちらこそよろしくお願い申し上げます^^ 拙文にお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。

noname002
質問者

お礼

ましまろさま、思わぬ お気を使わせてしまいまして、申し訳ございません。 私が早めに閉め切っておればよかったのだと思います。 でも、質問者本人としては、色とりどりに豊富な情報を楽しくも得られており、お忙しいところを本当に、貴重な お時間を割いていただいて、感謝しております。 充実した御回答内容に私の反応も鳴りやまず、どうにも字数制限を遣り繰りするのに四苦八苦のすえ、かなり端折った述べ方になってしまっておりますのが残念ですが、どうか、これに懲りませず、またの機会がございましたら、よろしく御指導お願い申し上げます。 骨董の話にも飛びました。私は、この方面は、村田喜代子さんの『人が見たら蛙に化れ』という作品が参考になりました。このかたも私の虫の好く作家さんの一人で、次に『雲南の妻』というのを読むのを楽しみにしています。 http://www010.upp.so-net.ne.jp/iraija21/dokushohome/kaeru.html では、またの御目もじを楽しみにいたしております。 最後まで、こまやかな お付き合いをいただき、本当に楽しかったです。 ありがとうございました。

noname002
質問者

補足

「隠す、見え隠れする」と言えば、マグリットの作品にも、そういったものがありますね。 No.5のお礼欄で申し上げた、どこかのお寺の避難訓練のテレビ放映、あれも、一種の「欠損」に繋がる事例として挙げてみたわけです。 ところで、 >この「欠損」のご質問が、何故かしら、noname002様の御家族との良き思い出話と、とても深い結び付きがあるような気がしております。 そうですか。私としては、とくに思い当たるものがございませんので、むしろ、ましまろさまの御心情こそが、そのような御推察に結び付いたのではありますまいか? >「思い見る」のは、「欠損の当該箇所」を通じて、実は失われた「時」そして「自分の心」そのものを思い見ているのかもしれませんね。 >それにしても、十人十色、人それぞれなのですよね、心の琴線に触れる対象物というのは。 >本当に、不思議なことだとは思いませんか。 本当ですね。共感を覚えました。 ハンマースホイは、最近まで日本では比較的、知る人が少なかったようで(私も その一人)、リンクを貼りたかったのですが、字数制限のため割愛しました。回答者さまは、すでに御存じでしたようで、 >後者は、ご指摘の「欠損」に通ずる「時の凝固」を少なからず感じる気が >その系譜は、後の「無人」的絵画にも連なる「静謐さ」「幻想」に集約、表象されるかも >あたかも、「廃墟画」のうちに描き出されているちっぽけな人間描写の如く、人間の存在そのものがいつしか徐々に稀薄化していく、そんな空間を志向しているようでもあり、 >現代にも通ずる「何か」があるように思えてしまうのです。 ここも、なるほど、と頷きました。 隠す、見え隠れ、というのは、いわゆる「チラ見」「チラパ」と言われるような、むしろ、惹き付けようとする仕掛け、戦略でもありますが、ハンマースホイの場合は、随所に設けられた仕掛けが、どこか遮断的なのですね。冷たく突き放すようでいて、そのくせ、窓辺の日ざし差し込むさまを描いた、その もの哀しい懐かしさ。 貼付したリンク先のうち、二つめはヤンセンス・エリンガのものですが、無名だったゆえか、ながらく、フェルメールのものとされていたそうです。 先述しましたが、私は、実際に、この絵の存在を知る前、前夜か前々夜の夢のなかで見ていたのですが、絵として見ていたわけではなく、その空間のなかを歩きまわっているというかたちでした。(他の絵でも、こうした現象の経験があります。) 絵のなかの家具の鋲打ちされた部分に視線を留め、歩きまわるときのコツコツと床の鳴る音を聞き、少し埃っぽい窓から差し込む日差しを感じていた。 何よりも、その室内に満ちる空気感…。 それにしてもエリンガの、この絵は、椅子に腰かけて読書中の女性という穏やかさに不似合いながら、どことなく不気味なほどの ある感じと、そのヒロイン格であるはずの女性を差し置いて、画家の、室内空間へこそ向けられている稀有な眼ざしに、鑑賞者も また牽き付けられるのです。 最初の絵のほうは、ケルスティングのものですが、関わりのある画家として、有名なフリードリッヒ、この画家の作品は、私は、じかに鑑賞したことがありまして、ケルスティングも、そのおりに知りました。 母は生前、ミレイの、あのオフィーリアの絵すら、ひと言、「なんと不吉な!」と言って、たちまち顔を背け、二度と見ようとはしませんでした。 反面、モネの、女性たちが舟遊びする光景の絵の前では、しばし佇み、うっとりしておりました。 私個人は、年々、穏やかな生活の楽しさ、美しさの ひとコマを切りとったような作品に心慰められる思いが深まってきて、亡母の気持ちも分かるようになってきました。 やかましいまでに饒舌な「不在」、という言い方もあるようですが(笑) >あらためて「欠損」による美の正体とは、一体何なのでしょうね。 ここへ至って、「欠損」がもたらす効果には大まか2種類あるものらしいと考えております。 神の姿「ニケー」に代表される、欠損によって いや増した、凄まじいまでの躍動感。喪失によって示唆される完璧。 この「欠損」とは、まさに「新たに加わったもの」に他ならず、 そこに、われわれ各々が与えた「首」や「手」や「脚」を得て、自在に動きまわる「欠損」。 対して どことなく悲哀を伴い、ナルシシズムさえ漂うかのような、人間存在の虚無感。 どちらも、おもしろい。興味が尽きません。 さてさて、ヴィナスや美人の話で思った、「黄金比」とは、ヒトにとって何なのか。 落ち着くのか敬遠させるのか。 そもそも、それは、何によって与えられたものなのか。       

noname#108140
noname#108140
回答No.9

いや、何を疑問点としているのか良くわからないというだけです。 そう思う人も居るし思わない人も居るし。 好い感じの欠けかたもあるし、そうでも無いのもある、欠けてない方が好いのもある。 美術についての蘊蓄を語りあって楽しむだけならばこの掲示板の主旨とちょっと違うような気がしましたので。 http://guide.okwave.jp/guide/prohibition.html 【趣旨にそぐわない記述/投稿】のところ参照

noname002
質問者

補足

>何を疑問点としているのか良くわからないというだけ 本当に、当質疑応答が、 【趣旨にそぐわない記述/投稿】のところ参照 に値すると思われますのなら、ご自身の最初からの回答内容を今一度ふり返っておかれてください。 再び繰り返します。 「このような、美術品の場合の欠損は、実際の美術界においては、どのように評価されているものなのでしょうか。」 これについて、単刀直入に お答えをいただけましたでしょうか? それでも、私は、主テーマが直答しにくいものであるならば、その周辺をめぐっているかぎりは許容範囲でよしと思うのです。 それはそれで得るところが大いにあるものです。 どうみても全く関係のないことを、まるで自己本位の「自慰」目的のようにして利用するのは、Q&Aとして、いろんな弊害を考えると、これは見過ごしてよいこととは基本的に思いませんけれどもね。

noname#108140
noname#108140
回答No.8

結局聞きたいことはなんでしょうか?

noname002
質問者

補足

質問本文に明記しておりますが。 「このような、美術品の場合の欠損は、実際の美術界においては、どのように評価されているものなのでしょうか。」 これについて、単刀直入に お答えをいただけましたでしょうか? でも、そのものズバリを簡潔に答えることはできなくても、いろんな角度から検討するのも一興だと思いますし、 ~「欠損」こそが、むしろ、「完璧な美」へと導いているかのように感ぜられてなりません。これは、どういうことでしょうか。~ ということについて、回答者の皆さまからの幅広い御示唆は、これはこれで、私にとって、とても楽しく勉強になっています。 何か、お気に障りましたか?

回答No.7

noname002様、こんにちは。 お返事が遅くなりました、本当にごめんなさいね。 まずは、こちら。 >ミレイも大好き! >どこでしょう? >下半身? ご回答下さって、本当にありがとうございました。 はい、「女性の身体」を改変させたという点で、大当たりです。 ミレイは、絵画の中の裸婦に、自らのあられもない姿に恥じらいをおぼえさせるかの如く、「頭」「胸」の箇所を「切り取り」、新たに「騎士から背けているように」描き直しました。 近代的な裸婦図としてはイギリス史上初のこの作品、なかなか買い手がつかず、当のミレイも苦労したとのこと。 かの漱石先生もロンドンで鑑賞した作品です。 >母と共に、お能を鑑賞しに行って、小鼓方の、これぞ日本的美青年に一目惚れしたことがあります。その世界では地位のあるかただと、後で知りました。いまも私の憧れやまないかたです。 う~ん? 一体どなたなのでしょう。 私も能が大好きなのです。  それも幼少時の日舞の嗜みのせいでしょうか、肝心の謡ではなく、所作や舞に注視しがちになってしまいます。 >ところが、ついには、面を用いずして憑依するさせるということが、じゅうぶんに可能であるという現象を、能の世界のかたに目の前で見せて戴いたことがあり、感嘆しました。 まあ、それは素晴らしいご経験をなさいましたね。  私などには、とても想像がつかないことです。 「憑依」したからには「別の世界、実在の存在ではない」様相を呈していたのでしょうか。 直面といえば、昨年末に「安宅」を鑑賞しました。 上原まりさんの琵琶語りと弁慶、共に「鬼神宿る」ほどの気迫を感じましたが、それとnoname002様が仰るところの「憑依」とは、全く別物なのでしょうね、きっと。 ご自慢のお母様とのエピソード、大変微笑ましくうかがいました。ありがとうございます。 さらに、後付けされた「教養」の助けを要するまでもないほどに、ご自身の「感性」にもとづき鑑賞なさったお父様につきましても、 一見たやすいこととは思われましょうが、観る心を「真っさら」にして作品と対峙するというのは、なかなかに、言うほど容易いことではないかもしれませんよね。 >能『羽衣』というのがありますね。この天女、外国から渡来した女性ではないかと聞いたことがあります。 なるほど、『羽衣』の能装束の文様が「鳳凰」という想像上の瑞鳥ですから、やはり大陸からの渡来人を暗示しているのかも。 シテは飛天の軽やかさとは別に、ある意味、絢爛豪華な装束に負けず劣らずの力量をも試される、意外と難しい作品かもしれません。 >美人となると、世界規模でズバ抜けてるが、容姿でも知能指数や才能の点でも、上下差が甚だしいとか聞いたような。 >日本人は何事も、わりあいに「平均クラス」内に留まってる人が多い? はい、私もそう思います。 かつて、父のもとに戻るための航空券代をちょっと使いこみ(笑)、JAL→KALにせざるをえなくなったことがありまして。 成田→金浦は冴えない顔ぶれ、一転、金浦→パリ路線は、客層がガラリと変わり、超ハイソなオーラに思わず度肝を抜かれました。 まだ韓国は海外渡航が完全自由化されていなかった時代、しかも、例の「爆破事件」直前だったので、あとでこっぴどく叱られましたが。 それはどうなのでしょう、日本人の男性が「突き抜け感のある美人」を好まないから、そのような美人不在な状態なのでしょうか。 >どこの国のであれ、昔の人が つくったものというのは、大胆と繊細とが同居していて、なんとも言えない感じを受けます。 はい、私も時折そのような感じを受けることがあります。 なぜでしょうね、時の試練を経て受け継がれてきたもの、或いは残存してきたものには、鑑賞にたえうる魅力を湛えているとでもいうのでしょうか。 アンティークは、東西の別なくお好きでいらっしゃいますか。 以前、このような質問がありました。 わたしは質問者様から「ノスタルジアの金づるはいやらしい。」と一蹴されてしまいましたが、笑 「「伝統」はそれだけで売りになること」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4935267.html 古きもの全てが後世に珍重されるとは限らないわけで、 ただ時の流れをかいくぐってきただけのものと、古より珍重され愛でられてきたものとがありましょう。 また、現代になって、あらたに価値を見い出される作品(作家)もあったりして。 こういった「価値観」は、いったいどこから生ずるものなのでしょうか。  >「織部」も、子ども時分から大好きなんです。特に、あの釉薬の色合いが。 >繊細なんだか大胆なんだか分かんないような陶磁器修復技法 >継ぎ目を指して「景色」と呼ぶんだから、オモシロ過ぎです(笑) かなりお詳しいようですね。 ご教示下さった通り、茶碗の形状の歪や変化、或いは釉薬、窯変、さらには見どころを称して、私達はそれらを「景色」と呼びますね。 昨夏、天孫降臨の地である高千穂の「国見が丘」を訪れました。 http://www.pmiyazaki.com/takachiho/kunimi.htm 運が良ければ類まれな「雲海」も見ることができる、緑深き雄大な「景色」を堪能しました。 日本には古くから山岳信仰があり、神々が住む場所として畏れられてきました。 そして、山の天気というものは、一日を通じ、めまぐるしく移り変わります。 日本人は──神代の頃から──「景色」が「うつろうもの」「有意転変」と確信してきたわけで、それをごく自然に愛でてきたのではないでしょうか。 そして、先にご指摘下さったモネ。 彼が浮世絵におのれの絵画の可能性を見い出し、『ルーアン大聖堂』などの連作を描くことで、「光と陰のうつろうさま」を表現したのは、決して偶然ではないはずです。 茶碗においても、釉薬の妙を楽しむミュージアム・クラスの「景色」もあれば、また、一見地味で雑器な価格であっても、日々用いて器を傾け撫でる毎に「見え隠れする景色」もある。 これも日本人の美意識の一端ではないか、というのは、陶芸を嗜む私の母の苦肉の弁です。 >阿修羅王像なら、片手に棒キャンデー持たせ、「飴は舐めたし虫歯は痛い」というキャッチをつける。 ああ、だから憂いの表情なわけですね。 二人の作家のご教示、真にありがとうございました。 でも、 >なんだか蜘蛛みたい…。←そう思えてきちゃうから、変なこと言わんといて!(笑) >弥勒菩薩半迦思惟像の欠損なら、どんなものでしょう。 はい、似たようなことを考えたこともあります。 作品により、欠損部位により、「美」の印象も異なりましょうか。 >ニケー像とは比べるべくもないという感じ。 >なんだか、痛々しいのですね。この作家も、一種独特なセンチメンタルを感じないでもないです。 そうですね、やはりニケの躍動感の前には比べようもない。 ベクシンスキーのそれは、水分と脂肪を除去しきったプラストミック人体標本のような静的印象ばかりで、正直、私も好きではないです。 >たしかに私にとって、美術館と図書館は、特別な空間。とにかく落ち着く~。 >古代アレキサンドリアにあったという失われた図書館を思いました。 「失われた」とつくと、どうしても心駆り立てられるものがあります。 世界の七不思議系建築群とか、ね。 >世界中の画家の墓めぐりをしてる人も。 うわ、この人凄いなあ。 ライフ・ワークとしては面白そうですが、誤解されそうな三詭九叩の姿勢って、どうなのよ?(笑) 最後に、 >お熱いのが、ではなくて難しいのがお好き?(笑 >私は難しい男は嫌い(爆 う~ん、「エーコ先生やら記号学やら難しいのが好き」というより、たぶん、あの「物語の背景」に郷愁を駆り立てられて、なのだと思います。 南仏やイタリアものに何故か心惹かれます。 noname002様は、下記のお礼欄でドイツがお好きとありましたね。 >「難しい男」 「難しい」の代名詞というのは、本来は女のほうでしょう? 女面の如く心千々に乱れ悲しみに浸り(時に般若?笑)、またある時は、したたかで強くたくましい狂言さながらに生きる「難しい」生き物なわけでして。 …「難しい」男。 う~ん。 「狂言ほどにも笑えない」代物ということになりましょうか。

noname002
質問者

お礼

お付き合いくださり、有り難うございます。 回答者さまは関西御出身?それは さて置き、 緊急の質問でもなし、ミレイの謎解きを教えて戴けるかもと、のんびりしていましたので、どうか、お気遣いなさらず。 そうですか、下半身ではなく上半身に秘密が。 実は、絵が小さめで、よく分からなかったのですが、ちょうど女性のウエスト部分に何か不自然な感じを受けたのと、局部を隠すように描かれている髪の先が、ワザとらしい感じもしたのです。 考えてみれば、古い古い西洋の裸体画は殆どが神話に題材を採った、堂々たる神の姿としてのものですよね。まぁ、恥じる神など変でしょうしね。 すると、この絵の女性は紛れもなく人間の女性だということになりますか。 もう一つ、おもしろいのは、男性側は、べつに鼻の下を伸ばしているふうでもなく、とても冷静沈着な様子であるのに対し、女性は、仰るとおり、恥じらいの風情であるという、クッキリした対比が描かれている。 裸と鎧。 生殺与奪の力を持った騎士と、丸腰も丸腰、恥じらうしかない女性。 元々は、どのように女性が描かれてあったのか、興味津々! 「さっさと わらわを解き放つがよい」と、昂然と騎士を見据えるようでは、やはり可愛げないでしょうね(笑 漱石先生の御感想にも興味が湧きました。 以前、私が近所の小学校の玄関先で佇んでいたら、授業が終わって出てきた3年生くらいの男の子に、見慣れない人と思われたか、問いかけるように、まじまじと見つめられました。その瞳の濁りなきこと、視線の真っ直ぐなこと! 実に色っぽかった。笑 変な話、プロポーズされるとき、結婚したらメリット こんなにあるよ、などと延々プレゼンされるよりも一言、「僕のお嫁さんになって!」のほうがグッと来ちゃったりして。笑 高千穂は、私も以前から行きたいと思ってる場所の一つなんです! 仰ることを踏まえ、美しいリンク先を拝見しました。 雲海、つい、国産み神話の「乳海撹拌」を連想。 晩年に失明したモネは、「光と陰のうつろうさま」を見つめ過ぎたのでしょうか。 輪郭線のハッキリした浮世絵に、印象派が影響を受けたというのも興味深い。 菩薩半迦思惟像の欠損について、当時マスコミは、三島の『金閣寺』ばりに、なにやら意味深な思想を絡ませて、この事件を報じたそうですが、実際は、当の「犯人」の学生の単なる出来心に過ぎないイタズラだったそうです。

noname002
質問者

補足

>「憑依」したからには「別の世界、実在の存在ではない」様相を呈して ええ、一言で言うと「切り変わる」のですね瞬時にして、実在ならざるものが実在に。そこで能役者の動く空間も別の世界に切り変わる。 多分、歌舞伎などにも同様の所作はあるかと。 『安宅』の「義経打擲」、実際に似た情況を経験した私にも、その心情は理解できるような。もしも富樫となって目撃したなら、弁慶の必死さに恐れ入ったことだろうと思います。 義経と弁慶は男色関係だったという裏説がありますし、それを思うと、より味わい深い。笑 初めて鑑賞したのは『隅田川』。クライマックスで、私は本当に泣いてしまいました。 >日本人の男性が「突き抜け感のある美人」を好まないから、そのような美人不在な状態なのでしょうか。 どうなのでしょう、あまりに整った顔立ちだと、なんとなく冷たい感じがするのか、近寄りがたいように思われるのかも。(文体なども そうでは) 特に日本男性はマザコンが多いと聞きますし、でなければ、ロリコンに走ったりと、女性に対しては、母のようにリラックスできる温かさを或いは、組みし易い存在であることを求めるのか。 「なごみ顔」なるコトバが流行ったこともありました、いずれにせよ、圧倒的に求めるのは安心感? では「黄金比」は… 父は、まあ、教養や権威の述べるところを知らないゆえの恐いもの知らずですけど、 ましまろさまのような優しく肩を持ってくださる淑やかな女性には、ころころと大喜びで恋心を惜しみません。こんな男でも、どういうわけだか、けっこう女性にウケがいいんですよ。私としては心底不可解で、気に食わないが。笑 それが何故か、この上なく気の強い女とスッタモンダの末に一緒になって、母なんですが、これが、多少、ギリシャ彫刻を思わせる顔立ちでして。 母も、高級品から日常使いまで、陶磁器とか焼き物、器というものが本当に好きでした。デパートで食器の売り出しなど見かけようものなら、どうしても買い込んでしまって。 墓前に、生前お気に入りの、ふだん使っていた お湯呑みを置いてきています。紫がかった青い葡萄をアッサリと描いてある、腰がくびれかげんで、手にシックリ持ち易いものです。 私が死んだとき、気に入っている器を一つ、携えてゆくことを許されるなら、人生の出発点に与えられたエッグスタンドを選ぶかしら。 素朴な絵付けを ほどこされた、鶏の形した、ころんと丸みのある陶器のエッグスタンド。 離乳時期に、母が選んでくれたものだそうで、今でも割れもせず手元に残ってます。 おかあさまは陶芸をなさって。 柳宗悦が言った「用の美」ということも思い出しました。 懐かしいものを見、触れるとき、どんな小ぶりなものでも、そのおもてを、瞬間に蘇って流れゆく「景色」があるように感じます。 >古きもの全てが後世に珍重されるとは限らない そうですよね。 過去スレ拝見して。何故か思ったのが江戸時代から続く糠床。笑 取り返せないものの代表と言えば、「失われた時」。 個人的想い出しか付与できぬなら、その個人以外の者にとって無価値、ただガラクタですけれど、歴史的全人類規模の「ノスタルジア」となると… 高みに到達することだけを主人のようにして一心不乱に仕えている。 そのなかに、ユーモアや遊び心さえも、ごく当然のように包み込んで、変な気負いは微塵もない。ひと頃はやった「おもしろマジメ」と言いましょうか。 こういう態度、センス、現代の人間に残っているか、或いは立ち返れるものだろうか。 もしや取り返せなくなっているのではという現代人の不安に伴うノスタルジー? 根が凡庸だと、かえって、表面の奇を衒うことが目的になることもあるようですが、最初はオモシロく感じても、じきに食傷してしまう。 全く価値観が違う時代に、ただの日常雑器として粗末に扱われ消えていったもの、当時においても珍重すべく海を渡ろうとした途上に沈んでいったもの、むやみに人目に晒すものでない(目垢がつく、という言い方があるそうな)として奥深く秘蔵されたまま行方不明になったもの。 恐らく、現在残っている何千倍以上に失われたであろう、それ自体「欠損」。 そこに「思いみる」という心の動き。 http://en.wikipedia.org/wiki/File:Georg_Friedrich_Kersting_006.jpg この絵、なんとも懐かしいのですがドイツが格別に好きというわけではなく、他の国々の風物を見聞しても、妙に懐かしく感じることがあります。 この↓絵は、睡眠中の夢に見たあとで、現実に初めて目にしたとき、大変驚くと共に懐かしい感じがしました。 エリンガ『読書する女性』 http://cgfa.acropolisinc.com/e/p-elinga1.htm 私の好きなハンマースホイ(面白いことに、この画家の絵も「隠す」のとは違う「欠損」的)への影響を与えているそうです。

noname#108140
noname#108140
回答No.6

焼物の失敗作の処分→本来は使えないものだけを処分していたと思われますが。確かに倒錯的ですね。 美術品だって古びて捨てられてしまった物の方が多いでしょうし。たしかに古びたものが全部味があって良いとは言えないですね。 むしろ窯跡から発掘される「破片」に今の人が強く魅力を感じること、このことの方がこの質問の文脈に関係の深いことでは。 ギリシャローマ彫刻の欠損を観賞する心と、新作においてわざと不可抗力の部分を技法的に設けること(窯変もそうですよね)、これは別に矛盾はしないのではないでしょうか。 日本の物を引き合いに出しているのは、西洋の美術が近世になって日本の美術から多くを学んで価値観を修正したことから呈示しているつもりでした。逆に言うと西洋人の中にも日本人と同じ血が流れていると言うことでもあります。 また日本の美術品から西洋が学んだのは、文明の発達段階に時間差があったからでもあるでしょう。西洋は日本から根源的な物を見たとも言えるでしょう。 西洋家具の修復は日本ではそれほど伝統は無いけれど日本の道具類なら日本の方が修復は上手いと思います。文明開化でつぶされちゃったような所もありますが。 あと例に出されている日本人の子供扱いの件については、単に民族差別・人種差別・部外者排斥のあらわれだったのではないかと思います。合衆国でも奴隷制時代には黒人をboyなどと呼ぶのが習わしであって今は逆に避けなければいけない用語になっています。 自分より下の、教育の対象とみている人物を相手にする時、人にはしばしば子供扱いという態度が表れます。 そういう場合に日本人が西洋人より子供っぽいというような劣等感は不要では。

noname002
質問者

お礼

返事が大幅に遅れましたにもかかわらず早々に再度ご回答戴き、恐縮です。 >美術品だって古びて捨てられてしまった物の方が多いでしょうし。 恐らく、そうでしょうね。なかには、こんにち、高く再評価されたものもあったことだろうかと思います。 >むしろ窯跡から発掘される「破片」に今の人が強く魅力を感じること あ、そうですね、そういえば、骨董の世界で「海上がり」とか言うのですか、破片でしかないのに、なかには、非常に珍重されるものがあるのだとか。 >ギリシャローマ彫刻の欠損を観賞する心と、新作においてわざと不可抗力の部分を技法的に設けること(窯変もそうですよね)、これは別に矛盾はしないのでは はい、私も、これは矛盾というのではないと思います。むしろ、発する心の根は同じなのだと思います。 >西洋の美術が近世になって日本の美術から多くを学んで価値観を修正 >逆に言うと西洋人の中にも日本人と同じ血が流れていると言うこと >日本の美術品から西洋が学んだのは、文明の発達段階に時間差があったからでもあるでしょう。西洋は日本から根源的な物を見たとも言える なるほど、私は、そのあたりも詳しく存じませんが、よく聞くところもあります。 特に、 「日本の美術品から西洋が学んだのは、文明の発達段階に時間差があったから」 「日本の道具類なら日本の方が修復は上手いと思います。文明開化でつぶされちゃったような所もありますが。」 ここは、明瞭なところを存じませんが、潰されちゃったのなら、もったいないことよ、と思います。ですが、昔の道具類じたい、用いられなくなったものも多いのでしょうね。用いられなくなれば、使いこなせなくなるのでしょう。 日本側も また、西洋から多く学んで、それまでの価値観を大いに修正してきたということは同等以上に言えることと思われます。 >自分より下の、教育の対象とみている人物を相手にする時、人にはしばしば子供扱いという態度が表れます。 なるほど。いわゆる「上から目線」でしょうか。 欧米では、キリスト教の絡みがあるからか、子どもというものは、野獣と同じようなものなので、これを徹底的に教育すべし、という感覚があると聞きました。 >そういう場合に日本人が西洋人より子供っぽいというような劣等感は不要 そうですね。成人してのち単身、現地の社会にて暮らす人には、とても辛いものがあったようです。

回答No.5

こんにちは。 No.2です。たくさんのお礼を頂戴致しました。 とても嬉しかったです。 本当にありがとうございます。 以下、お時間あるときにご笑覧下さいますようお願いします。 >やはり、基本あってこその「崩し」なんだろうと思います。 はい、そうなんですよね。 能にもその手法があるのです。 ──年来の稽古の程は嫌い除けつる非風の手を、是風に少し交ふる事あり。上手なればとてなにのため非風をなすぞなれば、これは上手の故実なり。よき風のみならでは上手には無し。さる程に、よき所めづらしからで、見所の見風も少し目慣るるやうなる処に、非風を稀に交ふれば、上手のためは、これ又めづらしき手也。さるほどに、非風却て是風になる遠見あり。これは、上手の風力を以て、非を是に化かす見体也。(至花道)── これは梅若猶彦氏の解釈によると──未熟な修業時代に排除するべき非風(稚拙な好まざる癖など)を、あえて熟練した能楽師が意図的に是風(優れた味のある芸)の中に少しだけ混ぜることがある。 良き芸風、完璧な技ばかりでは、上手でもなく、新鮮味も当然薄れていく。だから、初心者の頃の非風が熟練した能楽師の内に帰り、非も是に変えることで舞そのものが「めずらしく」なる。──ということだそうです。 むろんその逆、初心者が上手の非風を真似た場合は、「焔に薪を添ふるがごとし。」と、世阿弥はあえなく一蹴しています。 韓国を訪れた際、江南あたりでも美人を殆ど見かけなかったのですが、 サムスンだったでしょうか、そのビル内のスタバからビル共有の化粧室に行った際に、 大企業の制服に身を固めたOL達がゾロゾロお出ましになりまして。 日本ではあり得ないほどの迫力あるオーラ、粒揃いの美人&スタイル抜群には驚きました。 もしかすると、あの国の大企業OLの採用基準では「美」(家柄や学歴も?)が「善そのもの、全て」なのかも、という印象を受けました。 >父が、現役時代の「北の海」を、おもしろくない、と言ったことです。強過ぎてツマラナイの通り越して憎たらしいのだそうで(笑 なるほど、たしかにHeelというのは、目立つし憎まれる損な役回りですよね。 でもそういう人に限って、イメージとは真逆で、人の良さや誠実さが溢れていたりして。 それを含み重々承知の上で、お父様はあーだこーだと仰られたのでは?^^ >「美しき怒り」に会いに奈良へ行こう、と毎年のように思います。 やはり、noname002様もお好きでしたか…! 左顔の唇を噛みしめているあたり、さぞかし悔しいのだろうなあ…との思いが伝わってくるようでもあり。 よろしければ画像でその箇所のご確認を、これもフィギュアなれど、 合掌印の微妙な「ズレ」までリアルに忠実に再現されていますね。 フェイクだから逆に、依怙地なまでの「欠損の妥協」を許さないのでしょうか。 http://www.kaiyodo.co.jp/asyura/ >多分、杖を持っていたのであろう手が、拳で殴ろうと振り上げているように見えたり はい、そうですよね。 拳や棒?を振り上げて、もっともっと怒りを露わにしてもいいのにね?←謙虚さゼロ でもやっぱり、今の合掌する阿修羅の姿に心を打たれたりなんかして。 >「ナイス・プレイ!」と親指を立ててるように見えたり。 何度見ても笑えますな、ここ。 私なら中指立てさせる(笑)  いえ、パチンコ玉射撃というのはどうです?←興福寺さま、ごめんなさい。 >それでも、改変されたのでは?という疑問が付きまとう限り、つまり「埋め尽くせぬ想像」によって「完璧」たり得るのかもしれません。 はい、仰る通りではないでしょうか。 そして、あの阿修羅像は彼方の敵ではなく、おのれ自身と対峙し葛藤しているようにも見受けられるのですよ。 >私の子ども時分からの夢憧れの一つが、世界中の美術館行脚なのですが、いずれルーヴルを訪れた暁には、まっ先、ニケーの元へ向かうだろうと思います。ああ私のニケー(笑) 「ああ私のニケー(笑)」も、こたえられない名セリフなのですが、 実際にnoname002様があの彫像と対面した暁には、そのセリフとは裏腹に、 周囲の人混みと喧騒とは隔絶した、かぎりなくピュアで静謐なひとときでありましょうね。 私は、世界中の図書館行脚をしてみたいです(私は何度美術館を訪れても、ロクなインスピレーションを得られないので)。 こちらのサイトである女性から紹介してもらいました。 本を全然読まない私以上に、そりゃあもう遥かに慧眼で、「美」には超ウルサいnoname002様なら、 少なからずご興味を示していただけるかと思いまして。 『ヨーロッパの歴史的図書館』 http://www.kokubunsha.co.jp/archives/ISBN4-7720-0390-8.html ご指摘の『薔薇の名前』は、図書館が重要な舞台です。 内容に関しては1万分の1も何もわかってなどおりません。 >エーコって難しいのでしょ? だ~からいいのよ、んもう、ほっといて頂戴!(笑) 評論家の呉 智英氏のエピソードは、その通りだと思います。ご教示本当にありがとうございます。 >べクシンスキーの「損壊」とは違う。 >グロッタに由来する「グロテスク趣味における欠損」にしたって、人工の、言わば、あざといまでの模倣ですよね。 はい、そうとも言えますね。 ちなみに、彼のこの作品なんか、どう思われますか。 http://belvederegallery.com/Bex/pages/d17.htm 『アルジャントゥイユの雛罌粟の丘』をひっぱってくるあたり、noname002様のセンスが素晴らしいなあと思わずにはいられません。 これ、決してお世辞ではありませんから。 >どういうわけだか、ニケー像の場合、悲哀どころか逆に、その「欠損」が、躍動感いや増し、力強く全身これ漲らせる効果になってしまっている。なぜ。 はい、時という名の鉄杭が無情にもあの両腕を削ぎ落とすことで、幸か不幸か古の人々よりも、まるで失った腕など不要と思えるかの如く、「両翼」の類まれな躍動感と力強さを私達は見い出すのかもしれませんね。 それにしても不思議なのが、「翼」なるものでして。 恐らく古代アッシリアあたりに端を発する異端(異能)の象徴といったところでしょうか、 何故中国以東にはあまり見受けられないのでしょう。 中国は雲、日本は羽衣というイメージが思い立つのですけれども(天狗はこの際抜きにして)、どう思われますか。 >アクナトン王の顔立ちは、知的にして色っぽい。私の好きなタイプ(笑) ん? 結構気が多いです?(笑) まあ、そんじょそこらの生きた男性よりかは、はるかに古の彫像の方が、男前なのは間違いない、ですよね。 おまけ:ミレイのこの絵で、彼が≪好事家の心をくすぐろうとしたかの如く≫、ある箇所を「切り取り(欠損)」後に描き直した箇所があります。 さて、それはどこでしょう? これに関しては、女性のnoname002様よりも、≪好事家なkadowaki様≫のほうが、わかるかもしれません♪ http://www.tate.org.uk/servlet/ViewWork?cgroupid=999999961&workid=9508&searchid=10995&tabview=image

noname002
質問者

お礼

有り難うございます。 今度は能。またも私の大好物だ(笑 若い頃、母と共に、お能を鑑賞しに行って、小鼓方の、これぞ日本的美青年に一目惚れしたことがあります。その世界では地位のあるかただと、後で知りました。いまも私の憧れやまないかたです。 観る前に軽く腹ごしらえと、近くの お寿司屋に入ったら、観劇ということで母も私も、それなりに着飾っていたせいか、なじみの寿司職人であるアンチャン、「どっか行くの?」と尋ねるので、母が「お能」と言いますと、「ノー?何です、それ」と聞き返すんです。 「ほら、お面付けて、両足すりすりして歩くの」とヘンな説明をしたら、アンチャン、ねた握りながらふんふん頷き、「あー、あの、きしょく悪いみたいなやつね!」と、これまたヘンなガッテンの仕方(笑 韓国では美人は大企業が全てお召し上げ?芸能人じゃあるまいにと思いますが、彼女たち自身、そこに誇りを感じている自負心ゆえのオーラでしょうか。 あちらは、いまだに家柄や学歴について拘りが強い気風と聞きます。政財界の学閥問題も大きいのだとか。まぁ日本だって、偉そうなこと言えないと思いますが、有名な「恨の精神」なるものと考えあわすと、興味深いものがあるかも。 美人となると、世界規模でズバ抜けてるが、容姿でも知能指数や才能の点でも、上下差が甚だしいとか聞いたような。 日本人は何事も、わりあいに「平均クラス」内に留まってる人が多い? >>エーコって難しいのでしょ? >だ~からいいのよ、んもう、ほっといて頂戴!(笑 お熱いのが、ではなくて難しいのがお好き?(笑 私は難しい男は嫌い(爆 ずいぶん前、ニュースを見てたら、どこかの有名寺院での防火訓練のもようが放映されて、お坊さんたちが、重文級の仏像の前後に連なり、避難作業しておられるのを、最初のうち、TVカメラは、仏像や、お坊さんたちの上半身だけを映していたんです。 一見、お坊さんたちに前後を挟まれて、仏像が自分の おみ足を使って、えっさえっさと避難しているように見えたので、もう、おなか抱えて爆笑。しかも、仏像ですから、うっすら微笑んでいますでしょ。 まんまんちゃん微笑みながら避難訓練の図。 >中指立てさせる(笑)いえ、パチンコ玉射撃というのはどうです? 八部衆、パチンコ玉の戦い。 阿修羅王像なら、片手に棒キャンデー持たせ、「飴は舐めたし虫歯は痛い」というキャッチをつける。

noname002
質問者

補足

マンネリというコトバは、マニエリスムからきているそうな。 能は、能面にも みられるように、基本の約束事が殊のほか多く、観客として楽しむにも、それを踏まえないと、ついていけないところがありますね。 お面というものも、各国の芸能に見られ、そこに、呪術的要素が含まれているのも見受けられ、日本の「人形(ひとがた)」に込める意味合いと共に興味深いです。 ところが、ついには、面を用いずして憑依するさせるということが、じゅうぶんに可能であるという現象を、能の世界のかたに目の前で見せて戴いたことがあり、感嘆しました。 基本あってこその崩し、ピカソあたりも連想するところがありますが 私、「北の海」関をヒール的役回りとは逆に、典型的優等生タイプかと思っていました。 父は、絵は上手だし、けっしてアタマの悪い男ではないですが、物事を深く考えるなんかハナからしないですよ(笑)そういうのに限って悪運が強いんだから(笑 以前、芸術に関する、こんな問答がありました。 「芸術とは『見たときにすぐに分からなくても、題名や作った人のコメント見て納得して凄いと思うもの(コンセプトがなくては駄目なもの)』か、『意味がなくてもハッとして凄いもの(落書きでもいいわけです)』どちらだと思いますか?また、どちらが好き?」: 「好きも何も言わさないような迫力ってあると思います。この場合は個人的好き嫌いを超えてしまいますね。 コンセプトで納得するんじゃ「ふ~ん、なるほど」って感心はしてもインパクトはあまりないかも。 この点うちの父は徹底してます。 『ピカソ、何だあれは。』 と苦々しい顔で言うので私が『あれはね横と正面が合体したものを描いてるんで非常に画期的実験的な…』と説明しようとしても 『なんか知らんがオレは嫌いだ!』 の一言です。好き嫌いに関しては絶対的な自信を持って言い切ります。 まあ本人にしか言えないんですから自信持ってて当たり前か知れませんけど一流の画家だろうが音楽だろうがシェフの料理だろうが 『オレは嫌いだ!』 の一言で片付きます。教養がない分シンプルですね。でも東山魁夷画伯の作品はベタ褒め」 他に 「鑑真和上像、これも、引き込まれましたね。~周りに人がいっぱいいますが、自分と銅像の2人(?)きりなんですね。本当にその部屋に自分だけにされたら悟りを開きそうでした」という御回答、 「『この作品が街のゴミ置き場に落ちてたら』って考えてしまう」という御回答があり、私も考え込みました。 「コンセプト(説明的なもの)があるものは芸術ではなくデザイン」という御回答もあり、 質問者御自身は「コンセプトというのはありすぎると困るし、鬱陶しい」と仰ってた。 >彼方の敵ではなく、おのれ自身と対峙し葛藤しているよう 一般人の多くも、阿修羅王像への共感と魅力を感じる大きな原因の一つでしょう。 http://www1.odn.ne.jp/~vivace/homepage/Nara/nishikondo.html >微妙な「ズレ」までリアルに忠実に再現 >フェイクだから逆に、依怙地なまでの「欠損の妥協」を許さない このリンクも、すでに見てましたが、あ、ほんとだ。 おもしろい!「ズレ」にまで妥協しないなんて。 くだんの六本腕なんですけど、連続した動きをスローモーションで再現しているように見えなくもないです。 でも、手のひらに乗せてる写真を見ると、なんだか蜘蛛みたい…。 >古の彫像の方が、男前なのは間違いない 有名寺院の「八部衆」像の どれだったか固有名称は忘れましたが、えらくオトコマエの像があります。阿修羅像もですが、その当時、実在の男性がモデルであるらしいと読んだことありますよ。 「あいたきものよわれもまた下照る道に出でたつ乙女子となりて」 なんちて。 弥勒菩薩半迦思惟像の欠損なら、どんなものでしょう。 べクシンスキーは、総じて、緑がかった青の色調が印象的でした。 リンク先を拝見しまして、正直、個人的に好きではないけど、これはこれでオモシロい。でも、ニケー像とは比べるべくもないという感じ。 なんだか、痛々しいのですね。この作家も、一種独特なセンチメンタルを感じないでもないです。 ところで、世界中の図書館ですか。 たしかに私にとって、美術館と図書館は、特別な空間。とにかく落ち着く~。 古代アレキサンドリアにあったという失われた図書館を思いました。 世界中の画家の墓めぐりをしてる人も。 http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-f-gaka.htm 能『羽衣』というのがありますね。この天女、外国から渡来した女性ではないかと聞いたことがあります。 天使の概念って、眼と翼だけになっていき、ついには翼だけになるんでしたっけ、まぁなんとシュールというか、興味深い。 もう少し勉強してみます。 ミレイも大好き! >どこでしょう? 下半身?よくわかんない(ホント!

noname#108140
noname#108140
回答No.4

もしニケやビーナスの作者が最初から壊れたように制作していたとしたらたぶんそれほどおもしろくないでしょうね。 つまり一旦できあがった物に作者の意図しない力が加わって壊れた所に、作者の観念を超えた力とか、時間性、自然が入り込んできていると思います。 それによって個人の手中の物を超えたと言ってもいいかもしれません。 日本の美術品の場合修復に西洋ほどエネルギーが注がれてこなかったのは、あきらめの良さみたいなのもあると思いますが、やはりそういうヤレや風化自体を美として楽しむ心が昔からあるからではないかと思います。 日本人は自然の風景の写しも好きでしょうが、作品そのものの中の時間の流れによる変化も同じように観て来た所があるように思います。 今の美術を見ると、最初からそういう要素が加わるのを制作プロセスの中に組み入れているような作品が多く見られます。インスタレーションなどはもちろんですが、絵画平面のデカルコマニーとかタッシング、ドリッピングなどは偶然性を取り入れて画家の自己を背後の方に消滅させる仕掛け・工夫みたいな物のように思います。 日本も最近は都市では住環境については新品至上主義のようになってしまってそういう成り行きを生かしたようなセンスがかえりみられないようなのが少し気になります。

noname002
質問者

お礼

こちらの御回答も、興味深く拝読しました。ありがとうございます。 密度の濃い御回答が相次ぎまして、返事のほうが すっかりと遅れてしまい、失礼いたしました。 >日本の美術品の場合修復に西洋ほどエネルギーが注がれてこなかった >日本も最近は都市では住環境については新品至上主義のようになってしまってそういう成り行きを生かしたようなセンスがかえりみられないよう またぞろ変な連想かもしれませんが、和服と洋服の違いのことも思いました。 たしかに、日本人一般に、住居も新建ちを好むのが多いでしょうし、その他の身の回り品なども、お古を厭がる傾向は、通常よく見られます。 畳と女房(身の回り品?)は新しいに限る、とか(笑) 出世したとかいうような人のものでしたら、その愛用品を、あやかれるかのように入手したがる向きもありますが、逆に、ほとんどの場合、他人の使用したものは「ケチがついている」かのように感じるところがあるようです。一種のゲン担ぎみたいなものでしょうか。 それと、安易な「リセット」願望も潜んでいるのかも。 欧米では、古い物件や家具に、自分なりの細やかなリペアなどを施すことも楽しみにして、むしろ古いものを喜ぶ伝統もあるようです。 時の流れや、その重みに敬意を払い、愛でるという心境は、洋の東西ともに見受けられるようですが、建物の材質の違いなどにも影響されているのでしょうか、西洋では、やはり古いものの重厚さを尊び、人柄などを褒めるときにも、マチュア、成熟を重んじるそうです。女性のコドモっぽいのは、一人前のレディとして扱ってもらえない、とかいった、これもテレビで見たことなんですけど、イタリアの貴族と結婚した女性が、現地の社会で、最初の頃いつも子ども扱いされたのが、とても辛かったと述懐しておられたのが印象に残っています。 西洋の、古さへの尊敬は、つまるところ人間が営々と積み上げてきたものに対するそれ 日本のそれは、自然の営みに向けたものでしょうか。 しかし、ならば、西洋における「グロッタ趣味」は、いかなるところから発したものなのか。。。

noname002
質問者

補足

やはり、こちらでも、日本人の視点を中心に述べておいでですが、こうなると、実際、西洋の人の「欠損」に対する感覚を、なまで知りたくなってきました。 日本人にも よく知られているところで すぐに察せられるのは、グロッタ趣味「廃墟の美」あたりなのですけれど、 >日本の美術品の場合~あきらめの良さみたいなのもあると思いますが、やはりそういうヤレや風化自体を美として楽しむ心が昔からあるからではないかと たとえば、他にも私が子どもの頃から惹かれてやまないものに、アンコールワット遺跡群があるのですが、まだ、テレビや写真でしか見たことはないものの、見るたびに思い浮かぶコトバが 「年ふりて美しい」 です。 もしも、建造なったばかりのアンコールワットを見ても、それほど魅かれなかったかもしれません。仏像などにも同様に感じることがあります。 まさに、長い長い時の流れによって痛めつけられたことが、そのまま美に生まれ変わっているように思えます。 変な連想のようですが、昔の日本家屋で、茅葺屋根の下に渡した太い梁は、床に設けた囲炉裏から出た煤にまみれるほどに、より腐敗しにくく、じょうぶになると聞いたことがあります。 >ニケやビーナスの作者が最初から壊れたように制作していたとしたらたぶんそれほどおもしろくない わざとらしい人為は自然を上まわれない、ということでしょうか。 こちらの御回答を読ませていただいて、全体の内容から、焼き物のこと、その修復の技法のことを、あらためて思いました。 >今の美術を見ると、最初からそういう要素が加わるのを制作プロセスの中に組み入れているような作品が多く見られます。インスタレーションなどはもちろんですが、絵画平面のデカルコマニーとかタッシング、ドリッピングなどは偶然性を取り入れて画家の自己を背後の方に消滅させる仕掛け・工夫みたいな物 「最初から偶然性を取り入れ」ようとするのは、もちろん、その効果の絶大なオモシロさを知っているからこそ、仰ったように「個人の手中の物を超え」ることを目論んでいるからこそなのでしょうね。 >作者の観念を超えた力とか、時間性、自然が入り込んできていると >個人の手中の物を超えたと >自己を背後の方に消滅させる仕掛け・工夫 芸術品としての陶磁器などの制作者は、気候状況などまでを含めて念入りに計算しながらも最後は、「人事を尽くして天命を待つ」とばかりに一旦手を離して、自然の偶然性に任せるしかないのでしょうが、しかし、それでも結局、些かでも自分の意に叶わないものができてきてしまったとみたら、その場で、ものの見事にアッサリと叩き割ってしまうのですね。 迷いや妥協というものが全くないようです。はたから見て、どんなに立派な出来栄えと思えても。 ドしろうとの側には、ただただ、もったいないなあ、どこが気に入らないの?としか思えないのですけど。ですから、 制作に打ち込んでいる時点では、「あきらめの良さ」は一切ないのだなと思います。 ただし、これ、と思った作品に、やがて不可抗力で欠損が生じたり、経年変化が生じた場合には、それはそれとして楽しむのだろうと思います。 むしろ、あとから加わった自然を歓迎するのだろうかと思います。 侘び寂びという、余裕に満ちた高度な精神性も、日本にはありましたね。 一見、消極的なまでに淡泊な受け身の姿勢のようですが、実は逆なのかもしれないと思ったりします。 またも変な連想ですが、 マリー・アントワネットの農園趣味とか お金持ちの質素好みとか 美人の地味な服装は、かえって、地の美しさを引き立てる、とか(笑) ○ ○ ○

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.3

美術に関しては素人で、しかも偏った嗜好の持ち主ですが、「欠損」というエサの誘惑に抗しきれず、回答欄を汚させていただくことについてお許し願い上げます。 まず、「サモトラケの二ケー」は言うに及ばず、「欠損」と《美》の関係についても、すでに何度か実像と対面なさったNo.2さんがほとんど「完璧」に近い回答をなさってますので、以下については、まだ拝顔の栄に与っていない(まあ、拝顔は無理か?)中年男のひがみ程度にご笑覧いただければ幸いです。 それにしても、私自身としては、首から上を差し引いても3m以上はある、あの巨大な女性像には、幼少時にお転婆な女の子に虐められ、結婚してからは愛妻に虐待されてきたせいか、どうも心から好きになれません。 それに「勝利の女神」なんて、現代の女性に当て嵌めれば、おそらく甲斐性がなく、安月給しかもらってこない愚夫に鞭打つ鬼嫁以外の何ものでもないでしょうし。 そういう巨大女性像を「半日見ていても飽きません」という女性は、もしかして、「欠損」部分にご自身のかんばせを乗せてをニンマリなさっているのかもしれませんね。 私などは、顔や目を見なくて済むだけに、かろうじて恐る恐る彼女の像を直視できるといったところです。 だって、「ニケー」像ときたら、あまりにも迫真的すぎて、今にも見る者の方に近づいてきそうですし、私などは抵抗する間もなく襟足を引っ掴まれて、「お前のような弱々しげな兵士は許さない!」と言わんばかりに、事も無げに放り投げられそうな迫力を感じさせませんか。 それとも、これは単なる私のコンプレックスから来た妄想にすぎないのか? その点、「ミロのビーナス」像となると、これもやや大柄な女性像ではありますが、それでも「ニケー」ほど巨大ではないですし、ただただ無意味で純粋な、美という言葉を用いることさえ不純めいて憚られるほどに美しいと感じさせてくれます。 それでいて、いかにも時間による風化から超越していると言わんばかりに威風堂々としてもいますよね。 しかも、各パーツ同士が微塵の誤差もないほどの黄金比率で照応し合い、あたかも耳には届かない荘厳な交響曲を奏でているようにさえ感じられます。 >私には、その「欠損」こそが、むしろ、「完璧な美」へと導いているかのように感ぜられてなりません。これは、どういうことでしょうか。 私が思うに、両腕の「欠損」、これは神による深慮、すなわち「欠損」を宿命づけられた存在でしかない人間たちが、この「完璧な美」に驚き、戸惑い、恐怖や不安に駆られないようにという神の計らいの賜物でしかないような気がします。 そもそも完璧、完全な美というのは人間の理解力や鑑賞力を超越してしまうのではないでしょうか。 それは、ちょうど太陽光線(磁力線)のうちでも、可視光線よりも波長の短い紫外線や、長い赤外線として、人間の視力をもってしては不可視であるのと似ているような気がします。 と言うか、ビーナスに仕えていた精霊クピドー(エロース)についても、そもそもの誕生の経緯からして「欠損」の象徴であり、それ故に永遠に美を憧憬し続けるのだとプラトンの『シュムポシオン』(饗宴)では説かれております。 また、近代に至っては、たとえばF.シュレーゲルをはじめとするドイツ・ロマン派にしても、「欠損」、つまり欠如、不在、喪失、憧憬等を人間の美の生成や創造の精神、動機として意義付け、重要視しております。 日本の古典では、たとえば『古今集』の四季の部立に注目してみると、たいへん興味深いことに、歌人たちは四季の最盛期(たけなわ)を歌うのではなく、まだ来ぬ季節を待つ心や過ぎゆく季節を惜しむ心ばかりを、ほとんど依怙地になって歌っているとさえ言えるかもしれません。 ここにも「欠損」に触発されて美を紡ぎ出す人間の営みが窺い知れるような気がします。 なお、ビーナスの両腕の復元をはかった科学者がいますが、このことは、科学者というものが芸術家に較べ、いかに主観的な観念(妄想)に囚われやすい人種であるかを端的に証明しているのではないでしょうか。 以上、冗長な駄文を書き連ねてしまい、たいへん失礼いたしました。

noname002
質問者

お礼

ありがとうございます。 いずれも内容の濃い御回答を戴き、それだけに返事が遅れがちで失礼しました。 字数制限のため、補足欄も使用しております。 >「欠損」というエサの誘惑に抗しきれず、回答欄を汚させていただく 汚すだなどと、とんでもないことですが、欠損がエサですか(笑 >すでに何度か実像と対面なさったNo.2さん ええ、やはり、実際のところを知っているということは強いな、と思いました。 心から好きになれないと仰る理由に笑ってしまいましたけれど(奥さまに見られてしまいませんようにネ) 現代の「勝利の女神」は、「愚夫に鞭打つ鬼嫁」化する前に、甲斐性抜群の伴侶をゲットするか、それ以上に自分でサッサと稼ぎまくるのではないでしょうか。 >もしかして、「欠損」部分にご自身のかんばせを乗せてをニンマリなさっているのかも そうかも(笑 >私などは、顔や目を見なくて済むだけに、かろうじて恐る恐る彼女の像を直視できる ニケーというのは、アテーナーの手のひらに、ちょこんと乗っかっている分身のような存在なのでしたっけ。 クリムトが描いた『Pallas Athena』は、アテーナー女神の眼が、ちょっと怖い感じです。 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b6/Gustav_Klimt_045.jpg ドイツ・ロマン派のことにも触れておられますが、私、このあたりも殆ど知らないのです。なのに、むかしからノヴァーリス、ヘルダーリーン、アルニムあたりを、人生後半の読書の楽しみに、とっておいてきたのですよ。なぜだか、彼らの名前からして虫が好くんです。懐かしささえ感じるんです。理由は分かりません。 >ほとんど依怙地になって というのも笑ってしまいましたが、 >四季の最盛期(たけなわ)を歌うのではなく、まだ来ぬ季節を待つ心や過ぎゆく季節を惜しむ心ばかりを そういえば私の母は大の和服好きで、お正月などに私に着付けながら、よく申していたのが、着物は季節の先取りをするのが粋というもの、遅れてしまうと野暮になる、ということでした。 この場合、「欠損」と言うよりは、「(いつか来るべき)まだ来ぬもの」でしょうか。 ですけど、先取りし過ぎると、どうなるの?とも思いますけど(笑 「なごり」というコトバもございましたね。 結局こちらも、最後のほうは日本のことを とり上げて締めくくられました。やはり日本人ということでしょうか。

noname002
質問者

補足

真夜中のルーヴル。 一人とり残され、薄暗がりの階段を見上げた先、巨大なニケー女神の像が そそり立っている。 とみるうちに、 …やおら、ずしーん、、ずしーん、と、あのインパクト溢れる太股が、こちらに向かって歩き出した、、、 おおコワ!ですね。妄想というか、悪夢に魘されそう(笑 ゴチック小説名付けて『真夜中のルーヴル』『ルーヴル・一夜の怪』とか。 あっカドワキさま、だいじょうぶ?(笑 つとに知られているヴィーナス像の黄金比率の美ですが、 回答者さまは、実物を御覧になったのですね。 私の高校時代の恩師が、黒山の人だかりのなか苦労しながら、ヴィーナス像来日時の姿を拝んできたことがあるという話をしてくれたのを憶えています。あまりの大盛況で、後ろ姿しか見られなかったとか言ってたように思います。 そのおり、ただただ印象に残ったのが、 ヴィーナスの その お尻の、あまりと言えば あまりの立派さだったそうで。 殆ど、その お尻のことしか印象に残ってないそうで(笑 バイクで事故って腕を骨折し、三角巾で吊っている状態で杖をつきながら過ごすハメになった人から聞いたのですが、(そんな状態で、ロック系コンサートに行こうと誘ってくるんですから!)特に歩く時など、腕でバランスとりにくいので、思いっきり腰を使ってバランスとってる、と言ってました。 >神による深慮、 >「欠損」を宿命づけられた存在でしかない人間たちが、この「完璧な美」に驚き、戸惑い、恐怖や不安に駆られないようにという >神の計らいの賜物 自然の力によって齎された「欠損」とは「神の深慮」「神の計らい」としか譬えようもないと。 「神」が、そんなに優しいのか分かりませんけど、それほどのものではないのかと。なるほど。 しかし、ニケー像やヴィーナス像は、これは人間が つくったはずのものですよね。その上に、「欠損」という自然の不可抗力が齎された。もしや「神の嫉妬」? しかも、むしろ、それによって、いよよ完璧なものとなった。 >完璧、完全な美というのは人間の理解力や鑑賞力を超越してしまうのでは >太陽光線(磁力線)のうちでも、可視光線よりも波長の短い紫外線や、長い赤外線として、人間の視力をもってしては不可視であるのと似て 歴史を振り返れば、天与の才ある者が往々、理解を得られずに迫害、排斥されやすかったことも思い起こされます。 と頷きつ、なぜか ここで、ヒトに聞こえない周波数の音や、ヒトには気づけないニオイを嗅ぎ分けてしまう動物たちの能力を連想してしまいました。 『息子アンテロスをユピテルに示すヴィーナスとメルクリウス』 http://www.japandesign.ne.jp/HTM/REPORT/art_review/50/big/07.html 上部には、黄金の杓と鷹から彼と知れる、他ならぬ全能の神ユピテルが身体の一部のみを覗かせています。神々の上に立つ存在であることを印象づけるきわめて効果的な構図であるのみならず、絶対的なものはどれほど表現しようと追い求めても全体像を掴みきることはできないという、芸術家の苦しみを示しているかのよう http://www.japandesign.ne.jp/HTM/REPORT/art_review/50/index6.html >ビーナスの両腕の復元をはかった科学者がいますが、このことは、科学者というものが芸術家に較べ、いかに主観的な観念(妄想)に囚われやすい人種であるかを端的に証明 芸術家の妄想とは違った、科学者系妄想でしょうか(笑)これも、とり憑かれると大変でしょうね。でも私は、それぞれにオモシロイな~と思います。行き過ぎると、やぼ化するのも同様かと思いますけれども。 『シュムポシオン』(饗宴) 恥ずかしながら、存じません。おもしろいでしょうか、そのプラトンのは。 ちょっと調べてみました。 …エロスを宇宙生成と結びつける例は、早くパルメニデスの断片にみえる。プラトンの『饗宴』はエロス讃美論として有名。二つのアフロディテにつながる二つのエロス(男女の愛と少年愛)を区別し、後者を讃美する論。エロスを、宇宙の万象を支配する原理としてとらえる論。なかんずく、エロスを「完全なるものへの欲求」とする論が有名 http://www.tabiken.com/history/doc/C/C135L100.HTM >精霊クピドー(エロース)についても、そもそもの誕生の経緯からして「欠損」の象徴であり、それ故に永遠に美を憧憬し続ける ならば、人間の象徴のようでもありますね。クピド、アモルって、ヴィナスの息子でしょ?と思っていたら、 クピド、アモル(エロース)は、ヴィーナス(アプロディーテー)に付き従ったのであって、そもそも親子関係はなかったのだそうな。 なんだか、マザコン。それも、継母との禁断の(笑 そういえば、なんとも怪しい絵がありました。回答者さまの お好みに叶います?(笑 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bd/Angelo_Bronzino_001.jpg

  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15358)
回答No.1

 専門家ではありませんが。  完成する。完璧な物は神聖な物として扱われます。またそれが許されるのは神だけとも考えられています。ギリシア神話にも完璧さを人間が求めて不幸になる話があります。美の女神と争ったり。  日光東照宮で逆さ柱があります。これは完成すると後は壊れていくだけだからまだ未完成だという状態で常に完成に向けて努力する事も意味しています。  それと無いことで、想像する楽しみもありますから。それが脳にとっての刺激になりますね。  完璧さは神の領域、それがかけたのが人間の領域。神の世界は神々しいが人間の世界で美しいと感じるのがもっとも安心出来るのではと思います。

noname002
質問者

お礼

アドバイス、ありがとうございます。 返事が出遅れてしまいまして、失礼しました。 字数制限のため、補足欄も使用しています。 以前に『宇宙の美』についてアンケート的質問をしたことがあるのですが、私にとって、宇宙空間レベルのことになりますと、もはや「美」なんて言ってられないほどのことになります。 ギリシャ神話でも、人間界の男が、女神に見染められたものの、その正体の神々しさに怖気づいて、人間界に帰してくれと哀願する話がありましたような。 近頃、いくつかの私の質問に良き御回答お寄せくださっているようで、重ねがさね、お礼申し上げます。いずれも参考にさせていただいております。 ※なお、この欄を お借りしまして、 その他の御回答者さまがたへの お返事は、このあと順次させていただきますので、いま少し お待ちくださいませ。 いずれも力作揃いの高レベルの御回答をいただき、嬉しく思っております。

noname002
質問者

補足

>完璧な物は神聖な物として扱われます。またそれが許されるのは神だけとも考えられています。 なるほど、と思いました。 ギリシャ神話の「アラクネの物語」というものがありますね。 …神々の醜聞を題材にした織物の見事さに、見物した人々は、機織のつむの発明者であるアテナにも勝つだろう、と考えた。 しかしアテナは巨大なつむを手に丘の上に立ち、日没の夕焼け雲、星が光始める青と銀色の光を織り糸に、世界の創造の場面を織った。さらに天空をよぎって星をちりばめた。あまりの美しさに見物人たちは跪いて拝んだ。 アラクネは自分の敗北に恐怖して自殺してしまった。アテナは彼女を憐れんで、その姿を糸を紡ぐ蜘蛛に変えたという。… http://www.jiten.info/dic/arachne.html 結局、自然界の神々しさには勝てなかったということでもあるのでしょうか。 >日光東照宮で逆さ柱があります。これは完成すると後は壊れていくだけだからまだ未完成だという状態で常に完成に向けて努力する事も意味しています。 ガウディの「サグラダ・ファミリア」をも連想しました。 日光東照宮には行ったことがありますが、「逆さ柱」は知りませんで、少し調べてみました。 まず、辞書には、仰るように、 「日光の陽明門にみられるように、建物の完全すぎるのを恐れて柱の1本だけを上下逆にしておくこと。逆木柱。さかさばしら。」 とあります。 「完全過ぎるのを恐れる」。不吉だというのでしょうか。「完全」つまり、それは「終わり」と同じことだというのでしょうか。あるいは、「完全」が「神の領域」というならば、人間ごときには恐れ多いことだというのでしょうか。 しかし、人間に「完全」「完璧」などということがあり得るのだろうか。 また、ウィキぺディアには、 …日本の木造建築における俗信の一つで、木材を建物の柱にする際、木が本来生えていた方向と上下逆にして柱を立てることを言う… …「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という伝承を逆手にとり、わざと柱を未完成の状態にすることで災いをさけるという、言わば魔除けのために逆柱にしたとされており、妖怪伝承の逆柱とは異なるものである。鎌倉時代の「徒然草」には、完全なものは決して良くはない、それで内裏を造る時も、必ず一か所は造り残しをする、とある。江戸時代には、家を建てる時「瓦三枚残す」と言った、という。… とあります。 本来は、建築上からも悪影響があるという逆さ柱を、敢えて「完成」「完全」を避けるため、言わば「魔除け」として行うのであると。 木守柿というのもありますね。全部取りつくしちゃいけないとか。 また、「完璧」は、見えぬ魔の嫉妬の眼を招きやすいのであるかもしれません。 なお、キリスト教のほうでしたか、逆さまの木なる概念があるそうな。 >無いことで、想像する楽しみもありますから。それが脳にとっての刺激に はい、想像というのは、古(いにしえ)ほど、ヒトの楽しみであったろうと思われます。そこから、あらゆる分野における発展があったわけですし。 >完璧さは神の領域、それがかけたのが人間の領域。神の世界は神々しいが人間の世界で美しいと感じるのがもっとも安心出来るのではと ですが、「神」なるものは、ヒトが考え出した概念でもあり、その欠けのない完璧さを美しいと感じるのは、人間の世界のなかで人間のみが感じていることになります。ところが、本当の欠けのない完璧さを、人間が示すことは不可能事なのですし、単なる想像としてであっても、その想像じたい、欠けのない完璧な想像であるということを示すことさえできない。 はたして、「完璧」なるものを生み出したのは誰なんだろう、と思います。 世界の文化的表現について見聞していても、埋め尽くそうとする表現、空白を残そうとする表現。。。 しかし、どうやったって、人間には埋め尽くせるはずもないわけで。 ☆

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