- 締切済み
神って本当にいるのでしょうか?
神様って本当にいるのでしょうか?教えてください。
- みんなの回答 (64)
- 専門家の回答
みんなの回答
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
神=仏(ほとけ) 異名同体。 このように受け止めて。 感じるので、いると答えます。(理屈からではなく感覚的に、ということです) ただし人間のような姿をしている、なんて受け止め方はしていません。 肉体は物に触れて(眼・耳・鼻・舌・身)存在を知りますが、心(意)は相手の心に触れて、感応します。 植物や昆虫には精神的なふれあいは、顕著ではありませんが、哺乳類になると大抵の人は、心が反応している事が分かるでしょう。 怖いとか、かわいいとか、喜んでいるなぁとか、苦しんでいるなぁとか。 喜怒哀楽などの精神活動も、他者との関係によって起こるのですね。 という事は、我々は同じ物質の世界にいるように、心も同じ精神界に住んでいるんだと受け止められます。 そう受け止めると自分の心も他者の心も同じ、同質である、と思えないでしょうか。 その同じ心の世界に、人間は善悪という感情と理屈を捉えています。 なぜ善悪を感じたり、考えたりするのか、またしてしまうのか。 このあたりに神とか悪魔とか、仏教なら極楽、地獄などを発想する根拠があるようです。 人の心は使うほどに育つ、という考えは受け入れられますか。 始めはこわごわとやってみた悪いことも、二度三度としていると平気でできるようになります。さらに悪いことをしてしまう可能性も出てきます。 同様によい行いも、し続けるとそれが当たり前のようになり、良い事をしているんだ、などと一々思うことなく出来るようになります。 どちらも心が育ったのです。 そして神、ですが。(好ましいほうの心について) 好ましい方の心を育てていくと、好ましい‘こころ’が喜びを感じられるようになります。 心は肉体に、肉体は心に影響を、与え合います。 だから、体の姿勢。これも心に影響を与えます。 リラックスした姿勢より、姿勢を正したほうが心も引きしまり、前向きの気持ちが生まれます。 その心持が心地よいと感じられたら、それは好ましい心が喜んでいるという事なんだと、思えるのです。実感できるのです。(このことに気付いてほしい) 神は『善』の世界の象徴。 人の心の好ましい部分は、神の心と同質。(神の心の反映) だから自分の好ましいほうの心の喜びは、神が喜んでいるという事。 そう思えば、この喜びこそが、☆『福音』であると受け止められます。 神はいるのではなく、感じるのです。
例えば、 世界最速のランナー(走る人)は、凡人から見れば神と等しい存在ですね。 信じないならば、100mでも200mでも世界新記録を質問者さんが明日にでも樹立すれば良いことです。 家電産業を支えている人たちにも神業の凄い人々が居ます。 神と言える存在です。 信じないならば、質問者さんが明日にでも、 一辺が1cmの立方体をμm単位まで均一な平面を仕上げて見せてくださいな。 そう、質問者さんの『 神 』の定義を補足してくださいな。
お礼
??? 「神と等しい~」「神業の~」なんて使い方は慣用的用法に過ぎませんよ?
- 若林 泰志(@wakan3)
- ベストアンサー率46% (65/139)
どんな宗教を信仰しているか次第で変わりますが…… 基本的には、「あなたの心の中にいます」という感じでしょうね。 いないと思っている人には、神はいません。 いると思っている人には、神はいます。 大多数の日本人を基準とすれば、神道の八百万の神をぼんやりと信仰している感じでしょうね。お正月にあんなに大勢の人が初詣してるのが、その証拠です。 多くの人は、朝晩欠かさず一心に信仰しなければ本当の宗教心じゃないと厳密に考えがちですが、実はほとんどの人はユルい宗教心をもってます。厳密と見られがちなイスラムだって、実態はもっとユルいものです。 日本の場合は、神道の神が日常に深くしみこんでしまってて、それが当たり前の感覚になってしまっており、これが宗教だという意識が無くなっているのです。学問的に見れば、これだって立派な宗教なんです。
お礼
「いると思っている人にはいる」という安易な結論は思考停止以外の何物でもありません。 以降もこれは宗教心の話ではありませんので、少々的外れな回答だと思います。ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 神って本当にいるのでしょうか? ☆ そうですね。《いる》という《存在》の問題と 《神》のこととは 同じ主題だと思います。 存在というのは むろん《ひと》が考え感じるのであるからには――そして ほかの生物や宇宙のことについて捉えようとする場合にも 《ひと》が捉えうる限りでの問題だとなりますから―― 基本的にはわれわれ人間の存在のことを言います。 そうしますと 人間とは何か? その存在とはどういうことか? そう言って問い求めている《わたし》とはどういう事態であるのか? わたしはいったいどういう時空間の現象であるのか? 世界(=時空間)とはどういう問題であるのか? でも問題は ぎゃくにはっきりしていてむしろかんたんです。 この主題について解答をわたしたち人間がどのように得るか? この問いにどう答えるかで 決まってくるのではないでしょうか? かならず得られるという思いでいるひとは 人間が解答を得るのは時間の問題だと思っているはずです。いづれ解明されるであろうということでしょう。 得られないだろうと思っているひとも その《得られない》ということが科学によって解明されると思っているはずです。いづれ解明されないことが解明されるであろうと。 得られるかどうか分からない――その分かるか分からないかが分からない。こう思っているひとは その不可思議のことを つまりは 《かみ》と呼んでいるということなのだと考えられます。 これだけのことなのではないでしょうか? おまけが ただし あります。 《かみ》を想定する人びとに言わせれば 科学派は じつは《かみの無》をやはり《かみ》として想定しているはずだとうったえると思います。 もし科学派がその《人間・わたし・世界の存在》を解明したとするなら それは 人間に分かる範囲での知識であって その知識の中に《人間・わたし・世界》はおさまるものではないと思っているはずだからです。 じんるいが 個体の有限性を乗り越えて その知的遺産の展開として《存在》を解明したとすれば その朽ちるべき人間という存在の有限性をどう捉えたのか? これを《かみ》派は問い返すはずだからです。《自己》の解明について その自己を超えるところの場があるとすれば? という問い返しだと思います。 そう考えると おそらく 科学派も 《かみ》派と同じ大前提に立つものと考えられるのではないでしょうか? 有神論か無神論かのちがいであって――そういう表現の違いの問題に過ぎないのであって―― 基本的にはどちらも広い意味の《かみ》を想定している。こう考えられるのではないでしょうか? かみとは このようななぞです。
お礼
>存在というのは むろん《ひと》が考え感じるのであるからには――そして ほかの生物や宇宙のことについて捉えようとする場合にも 《ひと》が捉えうる限りでの問題だとなりますから―― 基本的にはわれわれ人間の存在のことを言います。 この部分の論理展開で既にかなりの無理がありますので、以降の文章にには興味が持てませんでした。すみません。 もう一度読み返してみてはいかがでしょうか。
お礼
>神はいるのではなく、感じるのです。 それが恐らく本質なのでしょう。 神の影絵が人の心のありようであり、人の心の影絵が神のありようなのでしょう。喜びと感謝。感謝と喜び。 しかし即物的な思考しか出来ない人にこの言葉を与えても「なんだやっぱりいないのか」「要するに妄想の産物って事だろ」といった明後日の解釈しかしてもらえないのは大変悲しい事ですね。