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神って本当にいるのでしょうか?
神様って本当にいるのでしょうか?教えてください。
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- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
>そもそもまだ自分で何について語っているか判らない物を探ろうという場合 探るのは自由ですが、他人に話す時は多少なり頭を整理してからお願いします。 質問者さんはきちっとした論理的思考を展開できる素養がある方であることが貴方のやり取りで良く解ります。そのことに関してのオーラがちゃんとこちらに伝わってきますから。 >頭を整理してからお願いします。 に関して多分質問者さんも良くご存知だとは思いますが、良く知られたハイゼンベルグの逸話について蛇足を付けておきます: ある人がハイゼンベルグに自分のやった仕事を紹介した。それを聞き終わったハイゼンベルグ曰く、「貴方の論理の展開はどこもかしこも自然で大変良く解る。重要な仕事には必ずとこか得体の知れない不可解で理解不可能な神懸りがあるものだ。だから貴方のやった仕事は重要な事でもなく、又新しい事であるはずもない。」 物理学の仕事だけとは限らないと思いますが、重要な仕事の仕方にはどうやら2つの仕方があるようです。一つはその仕事の結果、話が完成してしまい、その後にはもう本質的な疑問が残っていない、謂わばドアを閉じる仕事がある。例せば、量子力学に関するハイゼンベルグやシュレーディンガーの仕事や、近年ではワインパーグの仕事など、理路整然としていて、何を言っているのかよく解る。もう一つは、まったく新しい世界の存在を提示する仕事、謂わばドアを開く仕事がある。量子力学に関するプランクやボーアや、近年ではプリゴジンンなどの仕事など、本人も何を言っているのかよく解らない。物理屋として飯を食っている連中にとっては、一流の方たちにドアを閉じる仕事よりも、ドアを開ける仕事を是非やってもらいたいですね。それなら我々凡人でも、それに論理的な整合性をつけるための仕事が残されていて、その問題で論文も書く事ができるので、その家族たちも食いっぱぐれる心配がない。でも、話が完成されてしまうと、もうその問題では食ってはいけなくなってしまいますから。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
再び、横から失礼します。。。 「サンタクロースは本当にいない」といいつつ、クリスマスイブの夜に子供達にプレゼントを配っている人がいたとします。 さて、「サンタクロースは本当にいないのでしょうか?」 私自身の答えとして、「サンタクロース」という名を持つものがいなくても、「クリスマスイブの夜に子供達にプレゼントを配っている人」がいたとすれば、その人が行っている行為(ないし行為に重なる「想い」)の「向こう側」に「サンタクロース」の概念が横たわっているのだと思います。 いや、「サンタクロース」という名称・概念を貫く先に、「クリスマスイブの夜に子供達にプレゼントを配っている人」の「想い」が向かっているのだと思います。 「神」という概念についても、同じだと思います。 「神様」という概念ないし実在がどうこうということよりも、「神様概念」を通じた先(向こう側)への想いが、大切に想う人・物・事へ(もしくは人・物・事から向けられているように感じる)の想いと重なるときに、「神様って本当にいる」と感じるのかもしれません。。。
お礼
概念と実在を結びつける視点がそのうち物理に開かれるならば、サンタクロース(あるいは神)が実在するための想念閾値みたいなものが算出されるかもしれませんね。
- entahu2
- ベストアンサー率23% (4/17)
へんな表現ですが、私自身この問題についての表現の問題で困っています。 ともかく、 なんらかの感性の進歩(五感の大地に根付いたそれ)抜きに、何で神について何か考えることができえるのか? わたしには不思議でならないのです。 それ抜きに、神とはという論理をおいかけても、単に四角や三角を描いておいて 神は四角だ、いや三角だといっている域をどこまでも脱していない姿としか思えないのです。 その四角とかの中に どんな数学方程式やその言語記号を埋め込もうと おそらく昔の道徳のための物語の中の神様かその変形にしか過ぎないとしか思えないのです。 それだと、そこに権威が生じ、それはどうあがいても権力にも通じてゆくと思います。 それだけだと というところを強調しておきますが。 ごめんなさい。 具体的な詳しい話も こういう宗教とからむことは私には 苦手です。 宗教に自信をもっている方(かた)が、 自我とかを脱していなかったり、見栄とか、プライド(へのとらわれの実態)をまだもっていたりすると、 それは拡大される歴史的構造があったりします。 すると、 こういった話を具体的にして 真実だと思うことでもいいのですが、 それを明らかにしてゆくと、 そうした自我は、苦しいはずです。 ですので、 お茶をにごしながら、書いていくという形となってしまうのです。 》神って本当にいるのでしょうか? 《 この設問への希求の大きさを考えると、でも、 何か書いておきたい という気持ちにもなってしまいます。 へんな話ですが、 困りつつ迷いつつ書いています。 …。 五感がほとんど感動をともなわず(たとえばどんな出汁のどんなお蕎麦を食べても《おいしさ》をまったく感じない状態)で 3年ほど過ごしたことがあります。 心身の病気状態とも言えます。 まったくすべてが灰色の印象でした。 そんな時に、論理って何なのでしょう。 心や 存在に関する論理って? が、一方では 大自然との触れ合いにても、音楽との触れ合いにても、体中でその底からふるえるような、まわりまで震えているかのような感動の涙を流したこともあります。 なんらかの そうした感性についての体験抜きには、すべて 三角や四角をたくさん書いてこれが存在だと論議している無駄な線たちにしか私には思えないのです。 数式の計算をしていて まるで雪が降ってきたみたいに感動したというその道の天才の話を実地に聞いたことがあります。 その場合の論理の世界は 同じ論理でも、神を知る道と通じていると思います。 論理よりも、 写真機を持って、北海道の湿原のエゾ鹿とか 鶴とか、広大な大地と日の光を追いかけてみるほうが、 もうすこし、 その答えが明白となるのではないでしょうか? 神は何もしていないし教えてもいないですが、 すでにそれは自分で考えられる命と この無限の贈り物を贈られているからです。 五感を磨く道とともには、神と呼ぼうと神様と呼ぼうと、存在と呼ぼうと、不思議と呼ぼうと、 その人は、人間的行動(行動ですよ)による恩返しをしないではいられないはずと思います。 意味不明なこと、書いてしまったでしょうか? …。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.1&5&6&7&30です。 ☆☆ (回答No.30) 1. 《質問からかけ離れた瑣末な指摘》を 質問者がみづからおこなったと告白している。 ☆ を認めたのだから もういいはずだという見方が成り立たないと考えざるを得ないので 投稿しつづけなければならない。 ここまで人間が互いの理解をこばむというときには もし ○ 神がほんとうにいる ☆ と思うのならば 放っておくことでしょう。一見 そういうことになると思うことでしょう。 ところが その《思い》は 人間の思考の問題でありその範囲を出ません。《神が本当にいる》という思念は 神ではないし 神の存在を何ら証明していません。 朽ちるべき存在としての人間が そのように思っているというだけの事実です。想像の産物であるに過ぎません。 というところに 神の存在が想定されているのです。 だからその神がその真理にもとづきただしい裁定をおこなってくれるか? ところが これも保証のかぎりではありません。もしくは われわれ人間が決めることが出来ないという性格の問題なのです。 ここに 神の存在が想定されています。 けれども 決定版が人間のことばで明らかにされたなら それは 神ではありません。神はなぞだと規定しまえば そのなぞという規定じたいが うそになりますが でも一般に 神は 表象しえぬなぞだと捉えるのが もっとも妥当な説明になるでしょう。
お礼
過程の日本語が酷いので無視するとして、最後の > けれども 決定版が人間のことばで明らかにされたなら それは 神ではありません。神はなぞだと規定しまえば そのなぞという規定じたいが うそになりますが でも一般に 神は 表象しえぬなぞだと捉えるのが もっとも妥当な説明になるでしょう。 分からない、思いつかないという事ですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.1&5&6&7です。 ☆☆ (回答No.7) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 《質問からかけ離れた瑣末な指摘にしつこく食いつく》 bragelonneさんの行動は 《bragelonneさんが虚栄心たくましく育った》 事にもとづくものだと思いますよ。 ☆ 分かりました。《質問からかけ離れた瑣末な指摘》だったということで おしまいとします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この後半の一文を分かりやすく伝えるのが 人間のつとめであると思い直した結果 投稿します。 おぎなって書き直しましょう。 1. 《質問からかけ離れた瑣末な指摘》を 質問者がみづからおこなったと告白している。 2. わたしは《質問からかけ離れた》ものではなく そうではないがわたしの回答内容を誤解していると考えたので 質したところ 行き着いたのは 上のような質問者じしんの自認だった。 3. ぢゃあ そこまで気づいたのなら 放っておけば何とかなるだろうと考えて わたしは《おしまいとします》と述べてやり取りから降りた。 4. だが この振る舞いは 質問者をわるものにしたまま放っておいたことになるやも知れぬ。 まぁ ここまでとしましょう。人間であることを放棄した人間だと看做すことは まだまだ先のこととして ここは 人間性に信頼を寄せて この程度の指摘は 勝者のほうからしておくべきだと考えた結果の再投稿でした。
お礼
>☆ 分かりました。 この時点で「《bragelonneさんが虚栄心たくましく育った》 事にもとづいて」そういう無意味な投稿を繰り返しているのだな、と理解したので、以降のやり取りに必要性を感じなくなったのですよ。 お疲れ様です。また会う日まで。
- yudayuda
- ベストアンサー率28% (23/81)
例えば、の話ですが。 アイヌの方々は、自分の生活に役立っているもの全てが「神=カムイ」だと 考えていたそうです。 熊、鮭、鹿。そしてそれら獲物の存在を告げるミソサザイや虫も神。 火の神が一番身近な神です。 面白いことにこの神は、人々と対等の立場なのだそうです。 キリスト教やイスラム教に良く在るような、唯一絶対神でも、人間に罰を 与えられるような存在ではなくて、こちらがした願い事をそれらの神が 叶えられなかった場合は、人間の方にも神を罵る権利を持つそうです。 古代日本の八百万の神、とニュアンス的には良く似ていますよね。 それらを作り出したのは人間です。 となると、人間の心の中にこそ神はいる、ということにならないかな、なんて。 だから、偶像とか現存する宗教とかが崇めている神様は別にして、 「神様」はいるんじゃないかと。だから、願いをかなえるのも自分自身なんですよね。 他力本願が叶わないわけですよ(苦笑)。偶像とかに神様はいないんだもの。 ただ、誰かが彫り上げた石の仏様とかに、長年人々の素朴な祈りがこもって、 その結果、その石仏は神様になる、というようなことはありえるかもしれませんが。 ベタな回答ですみません。個人的にはそう考えています。
お礼
仏教などではちゃんと「開眼」といって仏様を仏像に下ろす儀式を行います。 修行を積んだお坊さまだと、仏像を見て一目で開眼済みかどうか見分けがつきますよ。 身の回りのものに溢れる神と、人の心や天上に住まう神々や仏様はちょっと違う存在なのかもしれませんね。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
すみません度々。 窮地に陥った時の「ええじゃないか」の踊りの運動は、現代に通じる「ひきこもり」の社会へのふてくされ的な感情がやけくそに転じて出来た、前衛芸術と見てよいのではないかと思っています。
お礼
本当の窮地では周りが見えず一人で怯えてうずくまるのが正解だと思います。 周りに仲間がいて、追い込まれつつあるという状況を共有しようとするだけの精神的余裕はあるのではないでしょうか。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
最近テレビ見ていて、「くわやがいとすえ」の様な問題が出た時、このイメージを「徳川家康」って、瞬時にどうしてつなげられるのかな?って話を身近な人としていたのですけど。 「くわやがいとすえ」→「徳川家康」これは、 自分の記憶の中のあらゆる名称から抽出された 「徳川家康」に、「くわやがいとすえ」にソートをかけてなどという膨大な作業を脳が行っていると考えるのは不自然であり、 逆に「くわやがいとすえ」の文字集合の絵的全体イメージと、「徳川家康」を結び付け「とくがわいえやす」と並び替えているのではないのかという結論になったのですね。 「神」も「かみ」もそんなイメージづけの様な気がします。
お礼
どんな神を信奉しているかによって、神という語から導き出される神のイメージは異なりますよね。
- masazai
- ベストアンサー率36% (55/150)
同じ回答が既にあった場合はご了承下さい。 神についての説明を聞いたことがあります(宗教的講義で)。 「あなたが海のど真ん中で遭難したとします。救命ボートも、縋る材木も、救命ジャケットも、助かるためのものはもはや何も手元にありません。泳いで生きていられるのも時間の問題。 そんな最後の最後、究極的最後に『あぁ、誰もいないのか!?助けて!!!』と最後に心がすがるものが神なのです」と。 「縋る心が神を創造する」という意味ではありません。 無神論者の人でも、勝負の時、上記のような絶体絶命の時に意識が求める「何かの力」の真の姿が神なのだ、ということだそうです。 それを「運命」と名づけるかもしれませんが、それも元々は神のことなのだ、と。 質問者さんが神を見出したいと望まれるのなら、いつか何かの形で見出すでしょうし、神を否定したいと思われるのでしたら、神を見出すことはかなり難しいかもしれませんが、「見出せない」とは言い切れません。 但し・・・神を否定する人に「神はいます」と言っても「それはあなた(回答者)が信じているからでしょう?」と一蹴されてしまいます。 だから、この質問に万人を納得させる回答はあり得ず、参考意見でしかありえないと思います。済みません。
お礼
>「あなたが海のど真ん中で遭難したとします。救命ボートも、縋る材木も、救命ジャケットも、助かるためのものはもはや何も手元にありません。泳いで生きていられるのも時間の問題。 >そんな最後の最後、究極的最後に『あぁ、誰もいないのか!?助けて!!!』と最後に心がすがるものが神なのです」と。 それはいわゆる「カミサマ」です。 「唯一神」や「神々」とはちょっと性格が違います。 もっとも人から遠く全ての人が内心ですがるものが「カミサマ」です。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
>非物質の存在を何語で論じるのかと、非物質の存在が何語を喋るかは、全く違う意を持ちますよね。 はい、字面だけを追うと「全く」違いますね。しかし、ここで論じようとしている問題は、そんな論理的な整合性を突き回して解答が出てくるような物ではありませんね。言葉が明快で一意的な意味をもち、さらに論理学的な意味で厳密に整合しているに越したことはありませんが、そもそもまだ自分で何について語っているか判らない物を探ろうという場合には、言葉の時系列的で些末な局所的論理構成に余り雲泥せずに、全体像を空間的に把握し、ジグゾーパズルを解くように、言葉と言葉、空間の各点と他の点の間の非局所的な長距離相関を認識するように迫って行かないと、支離滅裂になってしまいます。無から有を造り出す創造的な営みでは、場合によっては、そのような局所的論理構成の整合性を無視する勇気が必要なときがしばしばあります。 さて、少なくとも私にとって「非物質の存在」という言葉で何を意味するか、論じるに足る物なのか、論じても無駄なことなのか、あるいは論じることは出来ても、それにどれだけの重要な意味があるのか、あるいは無いのか、また、それが一意的な意味がある言葉なのか、多義的な意味があるのか、何語を話せるのか、あるいは、そもそも言葉を話せるのか、まだ判っておりません。言葉その物が未定義なのです。ですから、そんな状態では、「神様は何語を話しているのですか」と「神様について何語で論じようとしているのですか」は、私にとっては、同じなのです。この「同じ」という言葉の意味も、定義の確定した論理学上の意味で言っているわけでなく、海とも山とも判じ難い得体の知れない未定義なもの同士が「同じ」だと言っているのです。 未だに、人間の言葉使いを記号論理学などの枠に押し込めないでいるには、それなりの理由があるのです。論理的整合性に敬意をはらいつつ、言葉の持っている多義性、したがって、この曖昧さを逆手に取って、それこそ連想ゲームように横っ飛びに次々と飛び回り、言葉と言葉、現象と現象、あるいは概念と概念の間の長距離相関を探り、曖昧なまま前に進む勇気は、何かを創り出す行為には絶対に必要なのです。言葉には記号論理学の枠を超えた、そのような奥深い機能があります。事実、人類の経験則によると、AはBを導き、BはCを導き、、、YはZを導く、と時系列的に局所的な整合性を確認しながら前に進んで行って、何か重要な発見が成されたことは殆どありません。先ずAとN、NとZとの間の長距離相関を三段跳び、四段跳びに「把握」して正しい結論に到達し、その正しさを確認するために後でその間を埋めて行く作業をして来た場合の方が圧倒的に多いのです。 物理学の分野などでは、殆どの場合、先ず一流の人達が、細かい局所的な整合性を無視したこの三段跳びによって重要な結論に到達してしまいます。そして、その人は、その三段跳びの間の論理的ギャップを埋める仕事を他の人達に残して、他のもっと重要な問題に行ってしまいます。このギャップを埋める仕事も絶対に必要ですので、それを後人達に任してしまうのです。大抵の場合、任されるのは所謂一流でない方たちです。その方たちが、一生懸命になって、局所的な整合性を完成させて、それに基づいて教科書を書くようです。そこで、そのような教科書だけで教育を受けて来た人達の中には、物理学の発見には、そのような時系列的な局所的論理の整合性に拘ることが必要なのだと誤解してしまう方が時々いるようです。でも、発見や創造的行為は、決してそんな形で出てくるわけではなく、細かな論理を無視する勇気もいるのですよ。 私の良く知っている世界的に有名なあるインド人の物理学者が、ファインマンの先生で、ブラックホールという言葉を創出して一般相対性理論で有名な先日亡くなったホイーラ教授を評して「彼は議論の途中で都合が悪くなると『あっ、それはそう言う意味じゃなくて、こう言う意味だ』と次々と、定義を変えていってしまう。まっ、政治家に最も近い物理屋さんだね」と冗談を言っていました。ところが、そのインドの先生も、五十歩百歩で同じことをやっています。でも、確かにそのインドの先生は、ホイーラー教授よりも数学的にはしっかりした論文を書いていました。創造的な行為をするには、物理学でも哲学でも、そして多分どんな分野でも政治家的な素養が必要なようですね。 以上のことから、 >非物質の存在を何語で論じるのかと、非物質の存在が何語を喋るかは、全く違う意を持ちますよね。 と言う違いに拘るのは、私には余り生産的な議論だとは思えません。論理的な整合性を無視しながら論理的に話す、何じゃこりゃ、ということになってしまいますが、それが出来るのが人間なんですね。あ~難しい。でもこの言述の一見した矛盾を解く鍵が、局所的論理と全体像、あるいは局所的論理と長距離相関という概念です。 余談ですが、なぜ時系列的な局所的整合性を頼りに前に進めないかの理由は、本質的には、論じている記号なり言語の曖昧さ、あるいは多義性にあります。論じている本人はAはBを導き、BはCを導き、、、と順に正しい方向に進んでいる積りになっていますが、その問題に関することの本質は、もしかしたら、AはB’を導き、B’はC”を導き、、、とその都度、各局所的な状況では一見無視できる僅かにずれた方向にあるかもしれません。ところが、人間の思考は極度に非線形です。したがって、もしかしたら、この時系列の中にはカオスの理論で言う「リアプノフ数」が正の値を持っている状況に対応した状況が起こっているかもしれません。したがって、その時系列は本質から指数関数的にずれて行ってしまうかもしれないのです。所謂有名な蝶々効果(バタフライ・イフェクト)です。人間の思考の奥深さは、長距離相関の把握によってこの正のリアプノフ数に打ち勝って、カオスでは必然の指数関数的なズレに打ち勝つことが出来ることにあるのかもしれません。指数関数的ズレも、言語の持つ極度な非線形性に起因しているようですが、それをまた長距離相関の持つ極度な非線形性を使ってそのズレを修正してみせることが出来る、これが人間の持つ超非線形効果なのかもしれませんね。
お礼
少なくともあなたが科学をきちんとした形で学んでいない方だという事はよくわかりました。 ウィキペディアや「よくわかる○○」系の本を読みかじった人は、よくこういう文章の書き方をされます。 >そもそもまだ自分で何について語っているか判らない物を探ろうという場合 探るのは自由ですが、他人に話す時は多少なり頭を整理してからお願いします。
お礼
>「貴方の論理の展開はどこもかしこも自然で大変良く解る。重要な仕事には必ずとこか得体の知れない不可解で理解不可能な神懸りがあるものだ。だから貴方のやった仕事は重要な事でもなく、又新しい事であるはずもない。」 これは納得いきませんね。格言でもなんでもないと思います。 他人に対し共有も説明もできない事柄を自分の手柄として語る人間の方がどうかしています。 ドアを開けるだけなら誰でもできます。そして一流の物理屋さんが開けたドアだから多くの人がドアの奥を覗いてくれるというだけです。今までにドアを沢山閉じてきた人が一流と呼ばれ、新たに開くドアを皆に披露する権利を得ます。