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神って本当にいるのでしょうか?
神様って本当にいるのでしょうか?教えてください。
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- bragolenne
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是非を超えてた神さまはいうのでしょうね 苦しみ抜いた末に是非を超えてた神さま初めて感じるのでしょうね
- pupurr
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サンタクロースは実際の修行者がモデルになってます。 また もし食べ物がなく「神様食べ物ください」といったとしましょう。 そのときお母さんが夕食をお皿で出したとします。「早く食べなさい」と言って。 ここから考えれば、架空の神が出すのも、母親が出すのも、結果的に食べ物を出した結果はかわりません。 そういうことを人は、財布と相談し、安い店を選び、買い物に行き、まな板で野菜を切って、料理し、食事を作ります。 人にしてあげる行為に見ることができます。 そういう時は本当に感謝しましょう。 しかし人がすごいのはそれを神の手の助けとは思わず、ただのおかあさんだからと思っているんでしょうね 本人も自分の行為の偉大さを知りません。 仏教は助ける働きや結果を助ける働きとして神を人の中に、周囲の人の行動に見ます。行動の中に見ます しかし、この考えでは、他力本願になって、「やってくれ」というとんでもない考えに至る可能性もあります。 仏教は自力本願、自分がそれをできる人間になっていく。菩薩行で人を助けると言う言葉があります。 人は自分を知らないといいます。少年の一郎に未来に大リーグに行くといって信じるでしょうか?たとえ信じても努力しなければなれなかったでしょう。 信じて自己を高めましょう。 人は自分を知らないと言います。未来の自分が本当の自分ではないでしょうか? われわれは命であり、宇宙も生命として捉えられます。 その生命の中にいる我々の中にも宇宙の法則は脈々とあるのでしょう。 しかし、みんな同じ命ですが、それを忘れて健忘症にかかり、自分というエゴの病で争ってますね。 何でもあなたが思えば、そこに存在しています。今の世は信じる人は少ないです。 命の力も宇宙の力もすべてあなたにありますが、あなたは新しい経験で成長しないと本当の自分に出会えないだけで、みんなすべて持ってます。 これからは周囲に感謝して、人の中に見るようにするといいと思います。 結局すべて、あなた自身の話と言うことです。生命のお話ですから。
- lu-mu-
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>いえ。神の加護を必要としていない人間なんていません。 >必要ないと啖呵を切れる人物は無自覚に幸せな世界に生きているだけです。 神の加護っていうのは具体的に何のことですか 仮に神がいたとして、あなたが望むような存在であるとは全く限りません。加護してくれるような存在である保証はどこにもありません。 質問者さんはご自分の神の定義をしていませんけど、定義されていないものの存在の是非を問うことはできません。 私もキリスト教の神のような存在を求めていたことはありますが、神がそんな生物にとって都合のよい存在であると初めから思いこんでいる時点で、何かおかしいと思いました。 そうであるならば、神という存在を追い求めても何にもなりませんからやめました。
- covanonki
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No.37です。 言葉が足りなかったかもしれませんね。重力レンズは空間が重力に よってゆがめられる現象の一例としてお示ししただけで、これが未来 を見るための一因である、と言いたかったわけではないんです。 文章中でお示ししている障害者とは、例えばダウン症であったり、自 閉症、サバン症候群等の、いわゆる脳の先天的な障害を原因とする疾 患をお持ちの障害者のことをお示ししています。 例えばナスカの地上絵をご存知でしょうか。 あれは、宇宙人が作ったわけでもなんでもなく、前記したような障害 を持った人が書いた絵であるという説があります。 脳の先天的な疾患をお持ちの方は、私たち健常者が用いている大脳新皮質で物事を考えることをせず、「原始脳」とよばれる脳の中心にあ る部分で物事を考えます。 彼等の中には、例えば横から見た池をあたかも航空写真で、上空から 描いたような、しかもかなり正確な絵を書くことが出来る人がいます。 サバンの人は、例えば数値を「数」ではなく「イメージ」でとらえる ことが可能で、我々が普段用いている計算式を用いずとも、自然の摂 理を数値化することができます。 同じような状況を、例えば一般の方が作ろうとすれば、どのようにす れば良いでしょうか。 例えば、滝に打たれたり、呪文を唱えながら狂ったように踊り続けた りして、一種の「トランス状態」に入る必要があります。つまり、大 脳新皮質の機能を弱め、原始脳で考えられる状態を作り上げるので す。 彼等の中には、例えば物質を、まるでミクロ顕微鏡で見ているかのようにて、モザイクのようにして視認することができる人がいます。 つまり、彼らにとって、我々が普通に考えている三次元の空間と言う ものは、時に全く無意味なものに変化してしまうことがあるんです。 ここからは推測ですが、例えば「時間」すらも、時に彼らにとって 無意味なものに変化するのだとしたら・・・。 また、例えば動物がそうであるように、地震や火事などの厄災を、私 たちより、より早い段階で察知できる人もいるかもしれません。 精神障害者≒預言者だ、なんてそんなアバウトな話をしているんじゃ ありません。 先天的な脳の疾患を有する人いわゆる預言者と呼ばれるような存在と なる人たちが生まれる可能性が高い、と言っているんです。
- はNULPTYX冗談十 ヌ@AOKL.JPまさ|か(@MUTUKINANA)
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- lu-mu-
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あなたは神様なんて必要としていないでしょう。
お礼
いえ。神の加護を必要としていない人間なんていません。 必要ないと啖呵を切れる人物は無自覚に幸せな世界に生きているだけです。
- littelkiss
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こんばんはdendenaaaさん ●神様って本当にいるのでしょうか?教えてください。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3114606.html ごさんこうに いると思う人にはいる。かも。。☆ いるなら神様をさがした方が早いかも☆☆■ 探しても居ないだろうから居ないのか。。難しいですね □☆ ☆☆答えなしということが答えです!私的に。☆☆☆☆☆☆
お礼
探すのではなく、己の人生の中で神を感じるのが一般人のレベルじゃないですかね。あちこち本当に探して回るのは奇人変人のレベル。 万象の中に神を感じるのが覚悟者のレベルでしょう。
- covanonki
- ベストアンサー率48% (219/448)
自分なりに、神の定義づけを行おうと、必死に考えたことがありま す。 物理学の世界で考えたときに、相対性理論や、量子論の観点から考え れば、「距離」や「時間」というものは、全く無意味なものになって しまいます。 例えば、「重力レンズ」のように、重力によって空間がゆがめられ、 何億光年もかなたの光が、実際の方向とは別の方向に確認できたりし ます。 「重力」や「斥力」の影響を受けて、空間や時間の速度が捻じ曲げら れ、では、もし仮に「未来の地球」を見ることが出来たとしたら・・・。 もし、そんなものを見る力のある人がいたとしたら、ひょっとしたら 彼等は「預言者」と呼ばれるかもしれません。 マヤやインカの時代、脳や身体に何らかの障害をもって生まれた子供 たちは、「神様の贈り物」であると考えられていました。 それは、彼らの持つ、健常者にはない特殊な能力が、まるで神の持つ 能力のようであったからです。 ひょっとすると、彼らになら、そんな時間や空間を無視して、未来を 覗き見るような能力があったのかもしれません。 障害者という表現が適切かどうかはわかりませんが、過去の歴史の中 で、「預言者」と呼ばれた人たちは、そんな障害者たちであったので はないか、と思っています。 ですから、能力があるのはそんな子供たちであって、「神」そのもの に何かをどうこうしたりするような力はないのだと思います。 「神」と呼ばれる存在は、まるで図書館に置かれた書物のように、た だ「記された」だけのものであったのでしょうから。
お礼
重力レンズを使ったとして、過去は見えるとしても未来は見えないと思います。 預言者は目に入る光で何かを見ているのではなく、いわゆる電波を受信しているのでしょう。 現代ではそれも幻覚症状として精神障害扱いされますから、障害者≒預言者という定義が現代でも通用するかもしれませんね。
- juyjuy
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私はこれまでの回答者様がたのように精緻な哲学の議論は出来ません。 この質問自体「神」の存在を疑っているのが前提ですが、「神」は信じるから「神」がいて信じていないのならいません。 私は神を信じていませんので神はいません。 質問者様ののように「神」を疑った人は沢山いました。 疑われた「神」というのは過去の芸術の格好のテーマでした。 聖書にもヨブ記を始め無数にあります。 イエスですら死ぬ間際に疑っています。 まあ永遠の課題ですからこの欄も永遠に続くことでしょう。 第三者のたわごとです。お見過ごしください。
神仏は本当におられると思います。 臨死体験でそうした存在に出会われた体験談を読んだことがありますし、それ以外でも世界の様々な偉人と言われる類の方々の伝記等々で、本人御自身がそうした存在を知覚している旨を記述等しておられるものを読んだこともありますが、それらが自分から見て信頼かつ尊敬できる内容だったからです。 こうした方々の中には、近現代の方々でその生涯のあり方も世間に知られているというケースもありましたので、その生涯を通して誠実であり、見識は尊敬でき、また他者や社会に尽くす生き方をされた、のであれば、そしてそうした方々が語られる内容自体も誠実性が感じられ、尊敬できるものであったのなら、信じることができた、という次第です。 逆にいえば、上記のような要素に欠けるものを信じるつもりはむしろありませんので、再度逆に言えば、信じることのできる方々が中には結構おられたので、信じることはできた、という次第です。
お礼
>あなたが望むような存在であるとは全く限りません。加護してくれるような存在である保証はどこにもありません。 神を出会い系の相手か何かと勘違いしていませんか? そういう人材マッチングのような低い次元のお話をしているのでは無いので。他の方の回答もご参照ください。 >生物にとって都合のよい存在 というように、はなから神を自利に利用する対象のような意識で宗教に向かえば、あなたのような結末になるのは当然です。 (日本の信仰は自利に用いるように一見見えますが、信仰と日常と感謝と恩恵が全てミックスされている概念なので、神を利用するなんて意識はありません) 宗教は神を追い求めるものではありません。世界に神を感じ、全てに感謝する意識を育み、純粋にすがる(卑屈なすがり付きではない)事で人がどうしても逃れられない恐れを取り除いてもらう。そういうものですよ。