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徳川秀忠は恐妻家?
徳川秀忠についてさまざまなサイトで恐妻家であったとか、 奥さんに対して頭が上がらなかったと書かれていますが、 何か記録でも残っているのでしょうか? 幸松を継室の江与に内緒で生ませたので恐妻家と判断されているのでしょうか? 内緒であったと言う記録はあるのでしょうか? 内緒でないのであれば徳川吉宗の様に非嫡子であるので 家臣の屋敷で生ませて養育することはなんら不思議でないと思うのです。 また、豊臣秀頼が侍女に産ませた子供は正室の千姫に産ませた子は千姫に内密であった様ですが、こちらも恐妻家であったからでしょうか? 徳川家を恐れて内緒で生ませて養育したと思いますが、秀忠が幸松を内緒で生ませたのは江与が秀吉の養女として嫁いだので豊臣家を気使い内緒で生ませた可能性はないのでしょうか? また、数奇な運命をたどった江与に対する思いやりで幸松を内緒で生ませた可能性はないのでしょうか?
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幸松(保科正之)をなぜお江に内緒で生ませたか調べてみると個人的には秀忠は恐妻家とは思えません。 歴史関係のHPでは秀忠が唯一浮気して出来た子が幸松であるとか 唯一の浮気相手がお静と書いてあるサイトがありますが 秀忠はお江が竹千代(家光)を生む前にお江以外の女に男子を産ませています。 この男子が自分の幼名を与えた長丸で母の詳しい記録が残っていない為、 身分の低い侍女かなにかで、長丸を産んだ後死んだか里に帰されたと思われます。 では、この長松の時にお江に咎められた苦い思い出があるので幸松については内密に 出産させたのでしょうか? 私は別の理由だと考えます。 秀忠がお江に咎められることを恐れて幸松を内密に生ませたと言う記録は 無いと思います。 探しても見つけられませんでした。 さまざまな記録を用いて1800年代に編纂された江戸幕府の公式 記録(逸話も書かれている)である徳川実紀の秀忠関連の文書である 台德院殿御實紀を読みましたが書かれていませんでした。 武家の記録にもないと思われます。 武家の記録に将軍に関する記録は存在します。 例えば細川家の記録に忠長の改易に関して江戸と駿府に二人将軍がいて云々と 記録が残っています。 秀忠の長男である長松は1歳になる前にお灸による火傷で死亡しています。(出展元不明) お灸を誰の指示で行ったか私はわかりませんが、長松がお江が男児を出産する前に 生まれたのでお江が殺害目的でお灸をさせたのかも知れません。 秀忠もそう考えたのならば、お江に内密にした理由はお江に咎められる恐れより 静と生まれてくる子を殺される危機感から内密に出産させた可能性は十分考えられます。 秀忠と静の間には幸松の前に身篭った子がいましたが中絶させています。 中絶させた後も、寵愛して再度身篭らせた女性ですからお静に振りかかるであろう虐め、 殺害を用心する事は不思議ではないと思います。 もし、秀忠が静と子がお江から危害を加えられると考えてお江に内密に出産させたのであれば 恐妻家でないと言えると思います。 秀忠がお静に危害を加えられる事を恐れて内密に出産させたと説明出来る事は記録として残っています。 武蔵国一ノ宮氷川神社の旧社家岩井家に静の書いた安産祈願の文書が残されており、 お江が嫉妬深く場内(営中)にいられない・・・・安産を願うと書かれているそうです。 http://homepage3.nifty.com/orimoto/newpage14.html お江が大変嫉妬深かった事がわかります。 ウイキペディアのお江が嫉妬深かったと言うのはこの記録を元にしているのかもしれません。 また、ウイキペディアの浄光院(お静)や他の歴史関係のHPでも、お静は懐妊すると 見性院(武田信玄次女、穴山梅雪正室)の元に預けられそこで幸松を生んだと書かれていますが 間違いで.千載之松と言う書物と徳川実紀の台德院殿御實紀に幸松が生まれたのは 神田白銀町の静の姉婿竹村助兵衛に家とあります。 その後、お江の詮索が始まったと噂が流れた為、竹村が土井利勝に相談したところ 見性院に母子共に預けられたのです。 見性院の元へ言ったのは出産後です。 見性院に預けられた後、お江に秀忠の子と母を預かっている事がわかってしまい、 母子引渡しを求められますが、見性院が幸松は預かりではなく自分の養子として貰った。 将来は武田を名乗らせると言い放ち、お江が引渡しを諦めたとの事です。 見性院の比企屋敷では武田幸松君と呼ばれていたそうです。 その後、家康が死んだ後、見性院は再度お江から追求がくると思ったのでしょう 念には念をおして幸松を秀忠の許可をもらい武田家家臣であった 保科正光に母子共に預けました。 保科家の養子とした事でお江は納得したのでしょう。 http://www.ikedakai.com/kodomo/yoshi.html http://www.j-texts.com/jikki/taitoku.html これら1歳未満の子供がお灸によって死んだと言う事と静母子の保護の念の入れ様から 判断すると秀忠が恐妻家であったのではなく、お江が異常なまでの嫉妬の持ち主であった と表現するほうが適切ではないかと思います。 恐妻家であるならば、家康が決めた事でもお江が恨んでいる斉藤利三の娘の福を竹千代の乳母にするのは 猛反対にあい実現出来ないと思われ、秀忠とお江の関係は他の大名同様であり大河ドラマの 葵 徳川三代の様にお江になにか言われておろおろしたりはなかったと思います。 その様な様子を表す記録がないですし。
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- Domenica
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私が歴史を専攻するきっかけとなったのが、永井路子・著の『歴史をさわがせた女たち・日本篇』という本でした。 その中の1人に「お江」が挙げられています。 この本をきっかけに、私は「お江」という人物に非常に興味を持ちました。 中学2年生の時ですから、かれこれ30年前(汗)のことです。 『歴史をさわがせた女たち・日本篇』の中では、「秀忠夫人・お江―戦国の世のツヨイツヨイ女性」と紹介されています。 同じ永井路子・著で、『乱紋』という小説があるのですが、「お江」は「ツヨイツヨイ女性」という書き方はされていません。 豊臣秀吉は1598年に没していますし、幸松の誕生は1611年ですから、 > 江与が秀吉の養女として嫁いだので豊臣家を気使い もう、この必要はないでしょう。 > 当時どう思われていたか、特に大名家の記録などに残っているのか。 > 江戸時代であっても後世に言われていたのであれば現代で言う小説家の様な人の感覚で恐妻家と判断してそれが広まっただけのケースも考えられます。 どこにどのように記録されている…というものは、これまで、私には見つけられませんでした。 秀忠は、 ・幸松(保科正之)の生母・静を側室とした形跡がない ・「お江」の存命中には、「父として」保科正之に会ったことがない といったことから、「「お江」の目を恐れている=恐妻家」と「判断された」のではないかと私は考えます。 幸松を預けた先が、武田信玄の次女である見性院で、見性院が相手ならば「お江」が手を出すことができない(幸松に危害を加えることができない)から…というものも見かけたことがありますが、どういう理由で”「お江」が手を出すことができない”のかについては、何の根拠も記載されていませんでした。 > 数奇な運命をたどった江与に対する思いやり 「お江」のことを考えて=恐妻家ではなく愛妻家ゆえに…とも思いたいんですが、秀忠のエピソードして、「秀忠は鼓を打つことを好んだが、将軍となってからは一度も鼓に手を触れなかった。なぜならば、将軍である自分が鼓を打つことを好むと余人に知られれば、自分も同じ嗜好であるとして取り入ろうとする者が出てくるから。」というものがあります。 こういったことから、世間には「恐妻家と思わせて」おくことで、秀忠自身のメリットがいろいろとあったので、秀忠は「恐妻家を装っていた」フシもあるのではないか…と私は考えています。 愛妻家であったかどうかは分かりませんけれどね。 子供がたくさんいるからと言って、愛妻家とは限りませんし。 来年の大河ドラマの元となる、田渕久美子・著の『江(ごう)―姫たちの戦国』も刊行されていますが、こちらでは、「お江」は「伯父である織田信長に似ている」という設定になっていますね。 私は、若い頃(?)に読んだ『乱紋』の印象が強いため、「お江」の性格が「キツい」とは思えず、むしろ、順応性が高い、でもある意味ではしたたかな女性なのではないかと思っています。 現在の皇室は、女系ではあるものの「お江」を通して、織田家、浅井家、豊臣家の血がつながっています。 そういうことを考えていると、とても歴史を面白く感じます。 本題からそれてしまいましたが、私は、「秀忠は恐妻家であったというよりは、恐妻家であると思わせていた」とか「秀忠は恐妻家を装っていた」のではないかと考えています。 当時の文献等については、私は見つけていません。
お礼
詳しい回答ありがとうございます。 >こういったことから、世間には「恐妻家と思わせて」おくことで、秀>忠自身のメリットがいろいろとあったので、秀忠は「恐妻家を装って>いた」フシもあるのではないか…と私は考えています。 意図的と言うのはあるかもしれませんね。 貴重なご意見でした。 >来年の大河ドラマの元となる、田渕久美子・著の『江(ごう)―姫た>ちの戦国』も刊行されていますが、こちらでは、「お江」は「伯父で>ある織田信長に似ている」という設定になっていますね。 忠長が信長に似ていたと言う逸話が残っているようです。 勘違いしてお江が信長ににているとしてしまったのでしょうかね?
実際にどうであったかどうかは知りませんが、 保科正之(幸松)の話を読んでいると、 「ああ、秀忠は恐妻家だったのだなぁ。。」と 思わないでもありません。 http://sue34.hp.infoseek.co.jp/hosina.htm
お礼
回答ありがとうございます。 個人的には当時どう思われていたか知りたいところです。 特に大名家の記録などに残っているのか。 江戸時代であっても後世に言われていたのであれば現代で言う 小説家の様な人の感覚で恐妻家と判断してそれが広まっただけの ケースも考えられます。 徳川家光が家康が春日局に産ませた子であると言う説についても さまざまなサイトで紹介されていますが、調べてみると当時はおろか、 江戸時代に言われていた事ではなく明治時代の小説家が唱えた説で あることがわかりました。 もしかして秀忠の恐妻家もそのケースではないのかと疑っています。
お礼
調査頂きありがとうございました。 江与が嫉妬深かったと言う事は事実である可能性が強そうですね。 私の恐妻家のイメージは妻に怒られるのが怖いと言うイメージですが 江与が生まれてくる秀忠の子に危害を加える可能性があり保護目的の 為に匿ったのであれば恐妻家ではないですね。 自分で調べましたが恐妻家と言う言葉自体は明治時代に小説家が始めて 使用したと思われその際に秀忠を恐妻家と表現しています。 インターネットは怖いものですね。 間違ったサイトが多い事がわかりました。