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浅井三姉妹について
浅井三姉妹について調べているんですがあまり資料がなくて困っています。 ①なぜ浅井茶々は淀殿と呼ばれているのか ②なぜ浅井江が徳川秀忠の正室になり、絶対権力に近い存在であったのに三大将軍の座を自分の実子ではない徳川家光の後継を許したのか ③なぜ浅井茶々は秀吉の子供を産むことができたのか
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- notnot
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①なぜ浅井茶々は淀殿と呼ばれているのか 淀城が住まいだったから。 淀は京都の大坂寄りの地名です。今は競馬場で知られている。 ②なぜ浅井江が徳川秀忠の正室になり、絶対権力に近い存在であったのに三大将軍の座を自分の実子ではない徳川家光の後継を許したのか 実子ですけど?? ③なぜ浅井茶々は秀吉の子供を産むことができたのか 「正室や他の側室が産んでないのに何故?」という意味の質問なら、わからないとしか言い様がない。 秀吉の子で無いという説も有力でしょう。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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①実は当時は「淀殿」とは呼ばれていなかったようで、住む場所によって呼び方が変わっていったようです。 山城淀城にいた時は「淀の方」、二の丸にいた時は「二の丸殿」などと呼ばれており、出産後は「御袋様」「御上様」「御台様」などと呼ばれていたようです。 江戸時代になってから「淀殿」と呼ばれるようになったとか。 豊臣政権を「悪」とするために淀殿についてのスキャンダラスな作品が数多く出回りました。 そこで「淀殿」「淀君」と呼ばれるようになったようです。 ②についてのソースはどこですか? 浅井江というのは浅井三女(江)の本名ではありません。 間違った表記となります。 一般的には於江与、崇源院です。 幼名も「督」や「徳」と記されているので、「江」は使われていなかった説があります。 秀忠に嫁いだ際、江戸の「江」に改名させられたとも考えられているようです。 諱は幼名に「子」をつけるのが当時の慣例なので「浅井督子」「浅井徳子」もしくは「浅井江子」になるようです。 没後に従一位を追贈された際には「達子」を使われたようです。 多分徳川家光の生母が「崇源院」となっているので、江とは別人と思われたのでは? 徳川家光は徳川将軍のうち唯一父が将軍で、母が将軍の正室の子なのです。 ③については淀君の浮気説があります。 秀吉には子種が無く、間男を通わせて妊娠したとか。 当時からそういう噂があったようですが、当時はDNA鑑定などは無かったですからね。 他に秀吉の正室於寧が他の側室に毒を盛っていて、信長の姪である淀殿には毒を与えなかったとか、秀吉は幼い処女好みで他の側室は10代だったが、淀殿は20代になってから側室になったためだったとか様々な説などがありますが、タイムマシンでもない限り、真実は分かりません。
- f272
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wikiを読むだけでも、以下のようなことがわかります。 (1) 天正17年(1589年)、棄(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった。現在最も一般的に用いられる淀殿、過去に用いられた淀君の名は、同時代の史料には一切見られず、いずれも江戸時代以降の呼び名である。 (2) 秀忠との間には慶長2年(1597年)の千姫を頭に家光・忠長、和子など2男5女を儲けた。 (3) 淀殿と大野治長とは乳兄妹であり、二人の密通が噂されていたという記録も残る。そのため、秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子であるとする説が、当時からささやかれていた。
- eroero4649
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>浅井三姉妹について調べているんですがあまり資料がなくて困っています。 戦国時代の女性としては、トップクラスに資料が残ってる方だと思いますよ。戦国大名の娘なのに「女」と書いてあるだけで名前さえ残ってない人も珍しくないですから。 1 大阪城に住んでたからです。だから大阪城に住む前は「淀の方」とはいわれていません。 2 どこの何の資料をお読みになったのですか?家光は江さんの息子ですよ。 3 秀吉とセックスしたからです。他の秀吉に抱かれた女は、妊娠しませんでした。 今に伝わる成人した秀頼の特徴(デカくて太っていた)と秀吉の特徴(小さくて痩せていた)が合わないので、本当に秀吉の子なのかどうか、今でも議論の中でありますね。
- yuseijp
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②って実子ですよね?
- yuseijp
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