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新羅は倭人(日本人)が建国したという説をネットで見たんですけど
新羅は倭人(日本人)が建国したという説をネットで見たんですけど 本当にそんな説に信憑性があるのでしょうか? 詳しい方ご意見お待ちしています
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>新羅は倭人(日本人)が建国したという説をネットで見たんですけど 「三国史記」の中に新羅の建国神話が載っており、その中で朴・金・昔の3王家の内の昔家の始祖、昔脱解が倭国の出生であることを思わせる記述があります。三国史記は高麗朝期の編纂ですが、古い資料を用いていると言われているものです。この昔脱解の話しが、倭人建国説の元ではないかと思います。 また、倭人については朝鮮海峡をはさんで九州北岸と朝鮮半島南岸一帯に居住したとの説もあり、倭人=日本人、倭人は日本にのみ居住していたとの考えも検討しないといけないとも思います。 どちらにしろ国家が形成される以前は人間の移動は自由であったわけで、百済も王家は現在の中国東北三省にある扶余族出身とされており(高句麗王統と同じ)、住民とは民族(当時そのような意識があったかどうかは分かりませんが)が違うとされていますので、倭人が建国者であってもおかしくはないと思います。 以上、参考まで。 ウィキペディア 新羅(建国神話の概説あり) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 三国史記 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98
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- tanuki4u
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弥生時代の日本列島の人口は60万人 http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g1110030.html 現在の日本の人口は12000万人。 つまり人口密度で言えば、1/200です。 336人(現在)→1.5人(弥生時代) 現代のモンゴルと同様の人口密度です。 植生や、稲作が始まったということで、朝鮮半島も同様に考えると、人口密度は同様でしょう。 つまり、まばらに人間がいた。 山の向こうの谷合に誰がいようと、お互い知ったことじゃないわけです。 白村江の戦いのあと日本に来た唐の使節は「漢語話者」の村落があることを報告しています。唐に渡った円仁の記録では山東半島に多くの新羅人部落のあることを記述しています。 現代人が思うより、もっと雑居していた。 現代では日本人とか朝鮮人とか区分けされていますが、その前なんだかわからない、半島から列島に住んでいる中で、あっちいったり、こっちいったりしている部族がいてもおかしくないと考えます。 国境警備隊がいるわけではありませんし、そもそも国家意識がありませんので。
- 469437
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高句麗・百済からは前方後円墳の遺跡が発掘されていますし、遺体から日本人と共通のDNAが発見されています。百済の支配民族は日本人であり、百済は日本の属国であったと思います。 広開土王碑 百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。 而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。 百済と新羅は高句麗の属国だったが、391年に日本が海を渡って攻めてきて百済を打ち破り、さらに新羅も打ち破って属国にした。 隋書 巻八十一 東夷伝 倭国 隋書 原文 「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」 「新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している 」 宋書 巻九十七 夷蛮伝 倭国 興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王(中略)…詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王 倭王武の時代に宋から使持節郡督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王の称号を受ける。 三国史記 新羅本紀 倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣を人質とした。 均貞に大阿滄を授け、仮に王子として倭国に人質として送ろうとした。 三国史記 百済本紀 (阿宰)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支を人質とした。 太子であった扶余豊は、かつて倭国に人質となっていた。 弥生人=朝鮮からの渡来説は現在否定されています。 理由として稲のDNAが日本は1種類しかなく、朝鮮では2種類確認されており、片方のみ伝播することは考えられません。 稲作の形跡も、日本の方が朝鮮より古く、矛盾が生じます。 これらから稲作の伝播は日本→朝鮮が有力で、同時に弥生人=朝鮮人説も否定されます。
- Leonardo_A
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知識の本を読むのが好きな者です。趣味的知識ですので参考までに。 生物としてのニンゲンを遺伝的に追跡すると、日本人はアジアの各地からやってきた混血です。数万年前から、たびたび日本列島へやって来ています。 このため、縄文人と弥生人という身体的形質の違う人間が、同じ地域の歴史の中に存在しうるのです。 こうした面では、倭人がシルラ(新羅)の人間とは限定されません。 歴史として一般に知られているのは、天皇家とペクチェ(百済)の王室が親戚であろうということです。 これは、可能性として、弥生人が朝鮮半島からの流入であることを示唆しています。 この面では、政治や国家としての体制を作ったのは、朝鮮半島から来た人たちで、縄文時代の社会を一変させた人たちです。 百済と新羅の関係ははっきりしません。 古代の朝鮮としてみた場合、朝鮮半島内での部族として、別々の血統がいます。(すいませんが、これを私はよく知らない。これを言っちゃうと、他の知識もよく知らないのですが) 満州や後の清朝など、北方系の民族も古くから居ますし、渤海を作った民族や、漢人の流入など、朝鮮半島内にも、複数の部族が居ました。 百済と新羅を、どのように分けて考えるか、あるいは、どの程度同じ民族か、難しい問題です。ただ、歴史的に見ても、つい最近まで、韓国人の中には、百済の家系か、新羅の家系かという意識がハッキリありました。 また、百済以前の朝鮮半島南部には、倭人と同じ種類の人間が居たらしいとも考えられています。 現在のナクトンガン(洛東河)河口や、キメ(金海)、釜山あたりに、中国人が言うところの魏志倭人伝の倭人の仲間が住んでいたようです。 (伽耶がこれに相当するかは難しい問題です。残念ながら、これもよく知りません) こうしたことを考えると、どちらかと言えば、百済の方が、倭人の政治的形成に深く関与しています。 しかし、長期的に見ると、百済が滅んで日本へ大量に亡命した後、こんどは、新羅がコリオ(高麗)に滅ぼされ、やはり大量に日本へ逃れましたから、新羅も日本の政治に関与しています。 新羅が倭人の成立に深く関与したと限定するよりも、「長い日本の歴史の中で、複数回、朝鮮半島の影響が強く働いたことがある」と考えた方が、自然だと思います。