• ベストアンサー

武士道!?

 内田樹が書いています。  ▲ (内田樹:日本辺境論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  けれども武士においては 名誉は実利につねに優先します。それゆえ新渡戸は     正直は引き合う( Honesty pays in the long run. )  という欧米流の商業道徳に対して 次のようなパセティックな宣言をなすことになります。    しからば 徳それ自身がこの徳の報酬ではないのか。もし正直は虚偽   よりも多くの現金を得るが故にこれを守るのだとすれば 私は恐れる    武士道はむしろ虚言に耽ったであろうことを!    武士道は 《或るものに対して或るもの》という報酬の主義を排斥する・・・。    (新渡戸稲造:武士道 矢内原忠雄訳)  ここには非常に重要なことが書かれています。・・・努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する そう言っているのです。これは日本文化の深層に届く洞見だと私は思います。    (II 辺境人の《学び》は効率がいい pp.134-135)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この文章におぎないたいと思うところをおしえてください。添削・補足・批判などをお寄せください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#135843
noname#135843
回答No.7

 こんばんは、Hidocchiです。  以下の文章は、考古学者のシュリーマンが幕末の日本を、1865年6月1日から7月4日までの約1ヶ月間、日本に滞在した際の旅行記でございます。 シュリーマン著(石井和子訳)「シュリーマン旅行記 清国・日本」からでござます。 p.116 「どしゃ降りのなか、私に付き添うはめになった五人の役人とともに、私は朝八時四十五分に出発した。この護衛の役人はわずかばかりの心付けを受け取ることも許されない。彼らは、どんな辛い運命からも、その苦しみのなかばを取り除いてくれるある哲学、毅然とした諦観をもって、人生の巡り合わせにただ従っている。」 p.146 「だからなおのこと、その精勤ぶりに驚かされるのだ。彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである」  新渡戸稲造とは全く無関係でございますが、シュリーマンの観察記録は上述のようでございました。  それから、約150経ちましたが、今の日本国をどのようにシュリーマンが想像していたのか と思い巡らしてみました。  誠に申し訳ないのですが、ご質問者様、そして愚生が今現在対話をしておりますこの国は、本当に日本国かどうかお教えいただけないでしょうか。”はい”、”いいえ”だけでも一行に構いません。愚生は少し、意識が朦朧としております。  お手数をおかけ致しますが、よろしくお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。『古代への情熱』は――ほとんど本などを読むことのなかったわたしにしては めづらしく小さなころに――読んだ記憶があります。将来の発掘調査のために 事業で資金を貯め 語学の学習を怠らなかったというようでしたね。  Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  内田樹は いちど軽いという印象を受けていたのですが この本はなかなかよさそうですよ。それに はづかしながら 『武士道』も読んでいないのです。  幕末・明治にかけての外国人の旅行記などは いくらか読んでいると思うのですが 今回引いていただいた内容に関することがらを ほとんどはっきりとは覚えていないというのも 犯罪行為のごとくであります。  先ほどドラマ坂の上の雲を見ました。今回は 秋山真之がアメリカへ留学する話でした。日露戦争の勝利までに得たものを その後のわれわれは喰い散らして生きてきたのだとか。  あとは No.3の littlekiss さんのお心意気に免じて お答えを勘弁してくださいませ。お応えできるように精進いたします。  ザビーヌ事件のほうはいかがですか?

その他の回答 (14)

回答No.4

 評論、おしゃべり、理論化ではありませんでね。  やはり、bragelonneさん、まったく的外れになっていますよ。  ご回答の方の事はいいません。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 的外れになっていますよ。  ☆ どこが どういうふうに なにゆえにでしょうか?  まさか こういうことを訊いてはいけないという的外れではないでしょうね?

回答No.3

こんにちは、bragelonneさん。 ●・・・努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する そう言っているのです。これは日本文化の深層に届く洞見だと私は思います。 ≪武士道に反する≫ ↑ うーん、“武士は食わねど高楊枝”――――“恥の文化” 「この場で、こんなこと、聞いちゃいけないんだろうな」 聞きたいけど、なぜだか聞きづらいってことないですか? いまは、それほどでもないけど、就職の面接に行った時 聞きたいんだけど、なかなか言い出せなかったこと…あった 給料のこと 就職難の中、職に“就く”ことが急務 働くにあたって面接される側から諸条件を提示するのは正直勇気がいる なにせ、エントリーをしても審査審査審査を経てやっとの一次面接 二次三次…と面接はまだまだ先がある 面接までに至らず、消えていった履歴書数知れず そんな状況下で、「労働条件は?」とまして金銭に絡むはなしを切り出せるだろうか? ≪金の話を口にすることは“恥ずかしいこと”≫と、おもいが先立ち口ごもってしまう とても大事な話なのだけれど…ききづらい

bragelonne
質問者

お礼

 littlekiss さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ≪金の話を口にすることは“恥ずかしいこと”≫と、おもいが先立ち口ごもってしまう  とても大事な話なのだけれど…ききづらい  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ・・・だから それで損をしてしまう。取れる得でも のがしてしまう。《艱難汝を玉にす》。言うはやすく受け容れるには難いのですが 試練でしょうね。わが身わが心が練られて行きます。練って練って練られて行きます。まだ練るのか? これでもかこれでもか?と練られて行きます。あぁ ええ加減にせえよ!と言っても練られて行きます。いったい どんだけええええ? ってっても練られて行きます。  うん?  待てよ。  でもおれは日本人なんぢゃから。はづかしいことはできん!  石にかじりついてでも生きてやる。  ただわたしは この社会にとうとう《エントリー》が成らなかった人間であるかも分かりません。そういう位置にいるやからです。  えっ? 何の話だったっけ?

回答No.2

是は「禅」から来ています。道に至るという事の本当の真理から出ているという意味が有ります。道に至るという事は「好きと嫌い」という事の他に人間としての価値観を見出すところに在るからです。 それはやるべき事を、やるべき時に、やるべきようにやる。という意味になります。そうして只やるだけ、という事になります。やった事によって自分は偉いとか、出来なかったから自分はだめだとかは言わないという事になります。それが「無功徳」という事になります。 全てを期待をしない(計らいがない心的態度)がその前提に在ります。それが「無病息災」という事になります。 現代には心を病んでいる人が多くいますが、その心的態度の根本には「計らい」が潜んでいます。つまり「好きと嫌いで」世の中を見ている事、とその計らいが「多くを期待している事」が前提としてあります。 つまり期待して行っている事が「心の病を作っている」という事になります。その計らいが新しいストレスを作り出しているという事になります。そのストレスを避けるために、また新しい「好きと嫌いを」作っているという悪循環が有ります。 自分の行動が「好きと嫌い」ではなくて、又期待する事ではなくて、それ以外の目的や動機が有るなら、無病息災という事になると思います。人間は分別する処から二元論に落ちて悩みが始まるからです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。おっしゃる方向性において賛意を表わしたい気もなきにしもあらずですが なおまだはっきりしません。  はっきりしないところが ふたつあります。    ★ 全てを期待をしない(計らいがない心的態度)がその前提に在ります。  ☆ わたしが思うには 《計らいがない》というのは実際には 計らいが気持ちの上で顔を出したときに それを抑えるという計らいがあるように見えるのですが そういうわけでもないですか?  ★ 道に至るという事は「好きと嫌い」という事の他に人間としての価値観を見出すところに在るからです。  ☆ やはりわたしが思うには 《人間としての価値観》というのは ほかの誰れでもない・今ここにいるわたしの価値観のことであって ほかには用をなさないのではないか?  しかもこの《わたしの価値観》は 人生を生きる過程でやはり《好き嫌い》として取捨選択しつつ形づくってくるものだと思うのです。それが 純粋概念化を意図してその結果として持つに到るところの価値観や理念であるのならば おそらく実践においては長続きしないと考えるのです。  ですから むしろ  ▲ 武士道は 《或るものに対して或るもの》という報酬の主義を排斥する・・・。  ☆ のも 好き嫌いで実践したほうが 長続きしますし ほんものに近づくということではないですか? そういうふうに考えますが いかがでしょう?

noname#117439
noname#117439
回答No.1

オコリザルです。 武士の忠義とは献身であったのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ううーん。わたしが分かっていて質問しているわけではないのです。ただ この抜き書きした箇所については いい文章だと思ったものですから 全体――武士道の全体観――から見て どういうことが言えるだろう?という問いなのです。  ★ 武士の忠義とは献身であったのではないでしょうか。  ☆ ううーん。どうなのでしょうね。  こういうことは言えませんか? つまり   ★ 献身  ☆ というとき もし君主が間違った政策を打ち出したならば わが身 いやわが命を差し出してでも その政策をめぐって君主を諌めるという行為に出るのも 《忠義》であるのではないか。  どうなんでしょう。それなら  ▲ 武士においては 名誉は実利につねに優先します。  ☆ に矛盾しませんね。いや あれっ。名誉も実利も棄て去ってしまった捨て身の姿勢ですかね。  ともかく  ▲ 努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する   ☆ この命題を活かしたいと思っているのですが どうでしょう?

関連するQ&A