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これも「武士道」でしょうか?
前九年の役(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9 で、源義家(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6 は、安倍氏との「厨川の戦い」の後、安倍頼時(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E9%A0%BC%E6%99%82 の次男・安倍貞任(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%B2%9E%E4%BB%BB を斬首しますが、三男・安倍宗任(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AE%97%E4%BB%BB は、最初伊予に、後に筑前に流し、また、五男・安倍正任も肥後に流し、命を助けます。なぜ貞任は殺され、宗任、正任らは助けられたのでしょうか? これはあくまでも推測ですが、平清盛と源頼朝、義経の関係を思い出します。清盛は頼朝、義経を幼いから殺さなかったのだと思いますが、これと同じでしょうか?武士道には、たとえ敗者であっても幼少の者は殺さない、という掟があったのでしょうか? ただ、各自の年齢は分かりませんが、宗任は前九年の役で貞任と共に義家と戦っています。なので単純に幼いからというのでもなさそうです。 その後、宗任の三男・安倍季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗り、その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったとも言われています。 松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、山口県長門市油谷に流罪となったそうで、その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗ったそうです。 結局こちらも助けたばかりに子孫が源氏に刃を向けることになったわけですね。だったら生かしておかずに殺しておいた方がよかったのでは、と思うのは武士道を知らぬ人間の浅はかな考えなのでしょうか?
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- onbase koubou(@onbase)
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お礼
武士道に関するご説明、大変分かり易く勉強になりました。「葉隠」や、新渡戸稲造の著書に「敗れし者と言えども、女、幼き子を殺すは武士道に悖ることなり」などと書かれているのでは、と思っていたのですが、現実は違うことがとてもよく分かりました。ご回答有難うございました。