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《絶対》と日本人
どう扱っているか? 早くうまく扱うようになって欲しいと思うのですが どうなのでしょう? 《相対・有限・可変性の経験世界》とそれを超える《絶対・無限・不可変性・非経験・非思考の場》とです。 ○ 司馬遼太郎が短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。 http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html (第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。 ○ すでに同じ趣旨で問うたことがあります。 【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3738300.html
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こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 わざわざ、さらに詳細にご調査いただきまして、厚くお礼申し上げます。 各種辞典を検索する意義・重要性を改めて再認識することができました。重ねてお礼申し上げます。 > 現行の意味のほとんどは ラテン語に見られる。語義の進展については "detached, disengaged," より起こり やがて "perfect, pure." の意に到る。1610年代に現われた"despotic" の意味は "absolute in position(《その位置において解き放たれた》?)" から来ている。 [前提とした訳語でございます] detached : 分離した、孤立した、離れた disengaged: 取り外された、遊離した 解放された 束縛のない despotic: 独裁的な、専制的な、 (訳は、http://www.alc.co.jp から調べさせていただきました。) 以上から、"absolute in position(《その位置において離れた or 束縛のない》 → 《一般的人民の場所・位置において、離れ、束縛のない位置》 )と解したのですがいかがでしょうか。 そして、これが "despotic(専制的な)"の意味につながっているのかと考えたのですが、いかがでしょうか。 > 1440頃 "to disperse, dissipate, loosen,"の意味で用いられるようになった。ラテン語の solvere "to loosen, dissolve, untie," より来る。 [前提とした訳語でございます] loosen: 緩む、解放する dissolve: 〔一体化されているものが要素に〕分解する, 〔契約・関係などが〕解消される untie:解放する、自由にする、関係を絶つ ”ラテン語の solvere” → 解放する、分離する、関係を絶つ(確かに、”わがまま”とも解せられるのですが.....) と解したのですが、いかがでしょうか。 > 科学用語に使われるのが 二十世紀からだとは意外なんですけれど? 何かの間違いでしょうか? 愚生の経験から申しますと、同義の”complete(ly)” or "perfect(ly)"が用いられ、少なくとも、形容詞として一般的な用い方での"absolute"はほとんど見かけたことはなかったような気がします(ただし、absolute alcohol(無水アルコール)等、慣用化してしまったものは除きますが.....)。 > blagelonne様の《絶対》の定義 「人間の経験合理性の及ぶか及ばないかが分からないところ これを 絶対というふうに定義」 でしょうか。確かに、こちらの方が明確なように思われます。 (ですが、全回答を拝見させていただいたのですが、”物理屋さん”の回答がとても多くなったのですね。驚きました。) 因に、カント(二律背反)では、「認識の限界を超えた思考は二律背反に陥る」として人間理性の範囲外としていた と思います。 たとえば、 ・世界は時間においては始まりを有し、空間に関しても限界の内に囲まれている(時間において始まりがあるというのなら、その始まりの前もあることになってしまう。さらにその前(の前)も存在することになってしまう)。一方、 ・世界は始めを持たず、空間においても限界を有せず、かつて時間に関しても無限である(空間という限界に囲まれているのなら、空間の外があることになってしまう。 さらにその空間の外(の外)も存在することになってしまう)。 この両命題とも、理性が思考できることですが、時間の前と空間の外、空間と時間においても無限であるということは、われわれの認識を飛び出し、限界を超えることになります。 以上から、”宇宙空間”についての確かな認識を否定します。 ですが、科学者が宇宙について考えるのは、考えてゆけばそのうち答えが出ると考えており、実際そうしております。愚生の知識が確かならば、「ポアンカレ予想」でございます。wikipoedia ポアンカレ予想 をご参照くださいませ。 「たとえて言えば、宇宙の中の任意の一点から長いロープを結んだロケットが宇宙を一周して戻ってきて、ロープの両端を引っ張ってロープを全て回収できた場合、宇宙の形は概ね球体(=ドーナツ型のような穴のある形、ではない)と言えるのか、という問題である。」これに関しまして、一つの示唆を与えた訳でございます。つまり、”概ね球体なのではないか”との見解を示唆したということでございます。 長々とした駄文をお読みいただきまして、厚くお礼申し上げます。
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- mmky
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Bragelonne先生(「さん」と読みます)、お久しぶりです。 【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】 司馬遼太郎の開高健への弔辞の1節:抜粋 「ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。」 はあ?という感じですね。司馬遼太郎も論語ぐらい読んでいるはずですね。以下、有名なその1節ですが、「子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰其の所に居りて、衆星之に共うが如し。」 孔子も北辰(北極星)に例えて絶対はあるといってますね。それがないとまとまらないと明言していますね。この論語の深い意味を司馬遼太郎にして理解が出来ないぐらいですからもろもろの衆生に「絶対」が理解できるはずが無いということでしょうね。 ということで、単に勉強が足らない故におおくの日本人が《絶対》の概念を理解できないということかなと思います。
お礼
mmky 先輩を出し抜いて 大きな顔ででかいことを言い続けております。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰其の所に居りて、衆星之に共うが如し。」 孔子も北辰(北極星)に例えて絶対はあるといってますね。それがないとまとまらないと明言していますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。コンフュシアニズムは もう十何年もご無沙汰で来ています。そうですか。 その思想の全体として どうなんでしょうかねぇ。あまり絶対という問題として 受けとめた記憶がないのです。 この《北辰》にしても いわゆる倫理規範――《規矩》というふうに聞いていたおぼえがあります――であって その仁義などの徳の中味が たしかに移ろい行くものなんかではないのでしょうが それでも どう言いましょうか 人間の思考の上で精神の純粋領域のごとき理念として捉えられるものであるとも考えられます。 つまり 経験思考で把握しうる純粋理念のごときものであるなら それは ひとが表象し得ます。理念であり概念でありますね。としますと 司馬が言うところの ▲ 絶対の虚構 ☆ であるとも言い得ないようにも感じられてくるのです。 では そのような《この上なき徳》は もし表象し得るものだとすれば そもそもの《絶対》の仮りの表現であると言えるか? つまりその理念そのものは 絶対そのものではないが 絶対を仮りに表わしたものであるから たしかに東洋においても《絶対》を人びとが志向し つねに指し示していたと言い得るだろうと言えるか? もう少し情報が欲しいように思いますが いかがでしょう?
- Y Y(@yy8yy8az)
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《絶対》と日本人。 これを、西洋の一神教と日本の多神教と受け止めて。 日本人の多くは、一神教よりも多神教を好んでいるようです。 宗教を巻き込んだ争いは一神教なるが故、という考えの日本人は結構いるのではないでしょうか。 それに対して多神教は、他者の立場も受け入れる姿勢を持っているので争いがないのだ、という知識人の意見に接する事が良くあります。 はたして、八百万の神が日本人の心に宿っていたからといって、《絶対》という観念が日本人にはないのだと言えるのでしょうか。 法然上人は、「我はただ佛(ほとけ)にいつかあふい草、心のつま(妻)にかけぬ日ぞなき」 「あみだ佛(ぶ)と心は西にうつせみの、もぬけはてたる声ぞすゞしき」 「月かげのいたらぬ里はなけれども、ながむる人の心にぞすむ」 と阿弥陀仏を歌に詠みました。 法然上人はこの阿弥陀様を《絶対》と見ていたのではないでしょうか。 そして、この法然上人に帰依するお坊さん、明治から大正にかけて活動された山崎弁栄上人は、《絶対》の事を“宇宙の本体は絶対の大心霊体である”と言っています。 そしてキリスト教の言うところの「神」と同体であるとも。 いずれはキリスト教と仏教との融合も、あるのではないかと思えるのですが。 司馬遼太郎氏の意見は、心の世界に階段をつけるなら、絶対の世界の一段下を見ての事のように思います。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 以上から、”宇宙空間”についての確かな認識を否定します。 ★ ポアンカレ予想〔では〕 宇宙の形は概ね球体(=ドーナツ型のような穴のある形、ではない)と言えるのか・・・。”概ね球体なのではないか”との見解を示唆したということでございます。 ☆ ふうーう。やはり残念ながらついて行けませんでした。無念ですが 無理のようです。 わたしの関心は はっきりしています。経験世界であるなら 有限で相対的・可変的だということです。それについて経験科学は知ろうとするということです。それ以外は 《絶対》の世界としておくということです。 以前に ri_rong さんから 《無限》における濃度(アレフ)について 序数で考えると分かりやすいとおそわったのですが ただ 《無限》において 序数なら序数というふうに順序を特定しうるごとく なぜ表象することが出来るのかという疑いがなお残っていました。これについては 尋ね損ねたままでいます。 ですから 私にとっては 《表象しうる》と《表象し得ない》とで相対と絶対を区分するかたちが分かりやすいです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《一般的人民の場所・位置において、離れ、束縛のない位置》と解したのですがいかがでしょうか。 そして、これが "despotic(専制的な)"の意味につながっているのかと考えたのですが、いかがでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。《一般人民から》というところがミソでしたね。 ★ (確かに、”わがまま”とも解せられるのですが.....) ☆ これは solve < * se-lu =《みづからを‐解き放つ》というような類推から 《わがまま》を出してみました。《社会的に人びと一般から》という意味づけをすれば 分かりやすいと思いました。《わがまま》は あってもそのあとの状態でしかないと分かりました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔科学用語として〕愚生の経験から申しますと、同義の”complete(ly)” or "perfect(ly)"が用いられ、少なくとも、形容詞として一般的な用い方での"absolute"はほとんど見かけたことはなかったような気がします(ただし、absolute alcohol(無水アルコール)等、慣用化してしまったものは除きますが.....)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも 分かりました。新しい用法なのですね。ありがとうございます。 そうしますと ☆☆ 現行の意味のほとんどは ラテン語に見られる。:Most of the current senses were in L. ☆ この意味が不明になるのですが どうなのかなぁ。《絶対》という意味はなかったのですかねぇ。 ありがとうございました。やはり一歩一歩ですね。