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《絶対》と日本人
どう扱っているか? 早くうまく扱うようになって欲しいと思うのですが どうなのでしょう? 《相対・有限・可変性の経験世界》とそれを超える《絶対・無限・不可変性・非経験・非思考の場》とです。 ○ 司馬遼太郎が短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。 http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html (第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。 ○ すでに同じ趣旨で問うたことがあります。 【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3738300.html
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こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 わざわざ、さらに詳細にご調査いただきまして、厚くお礼申し上げます。 各種辞典を検索する意義・重要性を改めて再認識することができました。重ねてお礼申し上げます。 > 現行の意味のほとんどは ラテン語に見られる。語義の進展については "detached, disengaged," より起こり やがて "perfect, pure." の意に到る。1610年代に現われた"despotic" の意味は "absolute in position(《その位置において解き放たれた》?)" から来ている。 [前提とした訳語でございます] detached : 分離した、孤立した、離れた disengaged: 取り外された、遊離した 解放された 束縛のない despotic: 独裁的な、専制的な、 (訳は、http://www.alc.co.jp から調べさせていただきました。) 以上から、"absolute in position(《その位置において離れた or 束縛のない》 → 《一般的人民の場所・位置において、離れ、束縛のない位置》 )と解したのですがいかがでしょうか。 そして、これが "despotic(専制的な)"の意味につながっているのかと考えたのですが、いかがでしょうか。 > 1440頃 "to disperse, dissipate, loosen,"の意味で用いられるようになった。ラテン語の solvere "to loosen, dissolve, untie," より来る。 [前提とした訳語でございます] loosen: 緩む、解放する dissolve: 〔一体化されているものが要素に〕分解する, 〔契約・関係などが〕解消される untie:解放する、自由にする、関係を絶つ ”ラテン語の solvere” → 解放する、分離する、関係を絶つ(確かに、”わがまま”とも解せられるのですが.....) と解したのですが、いかがでしょうか。 > 科学用語に使われるのが 二十世紀からだとは意外なんですけれど? 何かの間違いでしょうか? 愚生の経験から申しますと、同義の”complete(ly)” or "perfect(ly)"が用いられ、少なくとも、形容詞として一般的な用い方での"absolute"はほとんど見かけたことはなかったような気がします(ただし、absolute alcohol(無水アルコール)等、慣用化してしまったものは除きますが.....)。 > blagelonne様の《絶対》の定義 「人間の経験合理性の及ぶか及ばないかが分からないところ これを 絶対というふうに定義」 でしょうか。確かに、こちらの方が明確なように思われます。 (ですが、全回答を拝見させていただいたのですが、”物理屋さん”の回答がとても多くなったのですね。驚きました。) 因に、カント(二律背反)では、「認識の限界を超えた思考は二律背反に陥る」として人間理性の範囲外としていた と思います。 たとえば、 ・世界は時間においては始まりを有し、空間に関しても限界の内に囲まれている(時間において始まりがあるというのなら、その始まりの前もあることになってしまう。さらにその前(の前)も存在することになってしまう)。一方、 ・世界は始めを持たず、空間においても限界を有せず、かつて時間に関しても無限である(空間という限界に囲まれているのなら、空間の外があることになってしまう。 さらにその空間の外(の外)も存在することになってしまう)。 この両命題とも、理性が思考できることですが、時間の前と空間の外、空間と時間においても無限であるということは、われわれの認識を飛び出し、限界を超えることになります。 以上から、”宇宙空間”についての確かな認識を否定します。 ですが、科学者が宇宙について考えるのは、考えてゆけばそのうち答えが出ると考えており、実際そうしております。愚生の知識が確かならば、「ポアンカレ予想」でございます。wikipoedia ポアンカレ予想 をご参照くださいませ。 「たとえて言えば、宇宙の中の任意の一点から長いロープを結んだロケットが宇宙を一周して戻ってきて、ロープの両端を引っ張ってロープを全て回収できた場合、宇宙の形は概ね球体(=ドーナツ型のような穴のある形、ではない)と言えるのか、という問題である。」これに関しまして、一つの示唆を与えた訳でございます。つまり、”概ね球体なのではないか”との見解を示唆したということでございます。 長々とした駄文をお読みいただきまして、厚くお礼申し上げます。
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- otherwind
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> 同じ土俵でコミュニケーションを図る必要はあるはずなのです。そのときに定義もあいまいなままでは話になりません。 おっしゃるとおりです。 であれば「日本人」ではないですね(^o^;)。 相手がインド人であろうが、ドイツ人であろうが、そのとき、そのとき、具体的、個別的な個人、個人との、「いま・ここ」の対話の中で、その具体的・個別的な対話の中でのみ(つまり、日本人一般に一般化して叩くのではなくて)、明確にしていく必要がありますね。 また、もちろん「絶対」という語に限りませんね。 たとえば、リアルという語、リアルGDPであれば、先ず、GDPデフレータを計算して、計算しないと出ない。実際に先ず目に触れるのはノミナルGDP。つまり、リアルGDPとは、実際にはない、架空の計算値であり、この場合のリアルは架空ではあるが、人間の頭脳で操作しないと得られない、いわば抽象的なものですが、いってみれば「本当の」といった意味ですよね。 けれども他の文脈では、リアルという語は、実際のという意味になる場合があり、 すなわち、リアルという語は、文脈によって、意味がいわば正反対になることがありますね。 仏教のお経では「実際」と言ったら、現実にはどこにも存在しない理想を指す場合がありますから、上記の私の一文も、そこまで思えば「あいまい」。 上記の一文に、「現実には」と書きましたが、「現実」という語の意味として、文脈によっては、架空(というか人間の直接的な認識の外部)を表しますからあいまい。 この場合の「あいまい」とは、文脈から切り離して、語の意味が実体として実在すると仮定してしまったら、そういう立場からはあいまい、という意味です。語の意味は文脈の中でのみ決まるという立場をとれば、あたりまえ。 なお、ご質問者の方のおっしゃっておられることが、ご質問者の意図、文脈で、既に「絶対」におかしいとか間違っているという意味は一切ありません。 何かご不満を与えてしまったのであれば、申し訳なかったです。 そういう意図があったつもりではありませんでした。
お礼
で 《絶対》という言葉は 概念としても どう扱うおつもりなのですか? どの国籍の人であっても いま日本語で《絶対》観を表わせるのならその人をここでは《日本人》と見なしますから 回答を寄せて欲しいという問いかけです。 あるいはまた 《 absolute 》の意味や語義の変遷についても いま日本語で《絶対》という語との兼ね合いにおいて 問い求めようとしています。ただそういう作業です。 で どうなんですか?
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ていねいにご説明をいただき、たいへんありがとうございます。 愚生こそ、お役に立つことができまして、光栄に存じます。 > ☆ なるほど。《何度も繰り返す》というのは 《世界中で同じ実験を同時にする》というのと 等価なのですね? 実際は、両方の実験がなされたそうです。もちろん、結果は全く同じでございます(“世界中での実験”の方が後で実施されたそうです)。 以降は、新たなスレッドの方に注力して参りたいと思っております。 それでは、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ありがとうございます。 特に変な理解はなかったようですので まづはひと安心です。 そうですね。ほかの訪問者の方がたが ふと考えを述べたいと思うようになるかも知れません。と思うと もう少しここは明けておこうかと思います。 * 《ブッダは神か?》といった切り口でのほうが 《絶対》については分かり易かったかなと思っております。 あぁ あとは 《無限》ででも進めていけるかとも思いますが。・・・
補足
この場をお借りします。 過去のわたしの文章に間違いがありました。訂正いたします。 No.19補足欄で ヘーゲル・法哲学の出典箇所がまちがっていました。 まちがい:§37追加 ただしい:§35追加 です。お詫びします。
- pupurr
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現実的に言えば、 絶対の物理法則の現実は、いろんな関係の作用で変わります。 絶対はありますが、条件や可能世界の変化を計算に入れる必要があります。 生命尊厳の思想は絶対ではないのでしょうか?
補足
ふうーむ。〔という意味は わたしの明るくない自然科学のことで あらすじで議論されているのに どう応じたものかという思案のことです〕。―― pupurr さん ご回答をありがとうございます。 ★ 生命尊厳の思想は絶対ではないのでしょうか? ☆ 初対面から 物言いをつけてはいけませんが こちらの扱いやすいほうから行きますが おそらく 次のように述べるとよいように思います。 1. われわれ人間は おのれの力を超えたところに確かに不可思議ななぞを見ている。大自然への畏れといったふうに表わしてこれを伝えて来ている。 2. 一方 それとは別に――と言いますか その同じ筋においてにもなるはずですが―― 《神》もしくは新しく《絶対》という言葉で その《なぞ》を概念としても持つようになった。 3. この神ないし絶対は とうぜんのごとく われわれ相対的で有限で可変的なる存在を 一人ひとりがそれでもおのおの掛け替えのないひととして 認め合い受け容れ合い この世界において共生をして行く――そのための概念装置である。 4. つまりこの《うそ》のもとにこそ むしろ《生命尊厳》という命題が現実味を帯び 互いにけんかをしつつもその存在に関してはとうとび合う。共生というDNAの現実性を物語るためにこそ 《絶対》が持たれる。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現実的に言えば、 絶対の物理法則の現実は、いろんな関係の作用で変わります。 絶対はありますが、条件や可能世界の変化を計算に入れる必要があります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしに分かっていることは――と言うよりも わたし個人の定義によればということですが―― 変化するもの・限りのあるもの・量としてあり程度問題に帰着する相対性によって成り立つもの あるいは全部ひっくるめて《表象しうるもの》 これは 《絶対》ではないということです。 言いかえると 《絶対》にかんしては非思考ということでないと それは経験思考でありその範囲内にあるものですから すべて認識および想像の産物だということになります。精神は 崇高な理念を帯びますが なお相対的なものであり 絶対ではありません。人間の精神は 神ではありません。 それと同じように 自然科学の知り得た原理や法則はすべて 思考の問題におさまります。思考は 精神の能力行為です。絶対ではありません。 この経験世界を超えた場 これがあるかどうかは分かりませんが 仮りに《絶対》として想定しておくと この《大いなるうそ》が 案外役に立つのではないでしょうか? 《われ考える ゆえにわれあり》と言いますが それは 人間の相対的な基礎であるに過ぎません。生命も朽ちるべきものです。それらを超えた場 これは おそらく絶対であるでしょう。この絶対のもとに 生命のとうとさが 普遍性を持って迎えられるものと思います。
こんばんは、ご返答賜りまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > 申し訳ないですが 或る程度は慣れていただかないと・・・。 たしかに、承りました。 > ○ もし誰か 《絶待》という語を知っていたひとが 明治期に《絶対》という新たな語を知ったときには そのひとの中では 概念としてつながりがあると言ってよさそうだと思ったことでしょうと。 このことは、ほぼ確実に言えるかと存じます。その結果、《絶待》が用いられていく機会が減少していったものと思われます。 > ★ 電子の存在場所(場所は確率的にしかわからない) ☆ についてですが 《確率的に分かる》ということは どういうことを意味しますか? 経験合理性が及ぶのでしょうか? 及ばないのでしょうか? 電子雲における”電子”の位置 お手数をおかけ致しますが、Wikipedia 電子雲 をご参照くださいませ。 ここにでてきます不確定性原理を見たアインシュタインは「神はサイコロをふらない」と言ったことは有名です。つまり、その当時では、未だわからない”隠れた変数理論”により、将来的には確定可能だと考えていたそうです。ですが、今日では、一般的には、この”隠れた変数理論”を疑問視されています。 2. 二重スリット実験 こちらも、Wikipedia 二重スリット実験 をご参照くださいませ。 実験方法:電子銃から、スクリーンに向けて”電子”を打ち込むという実験でございます。ただ、電子銃とスクリーンに二重スリットを置いております。 結果:もし、ニュートン力学でしたら、銃から打ち込まれたものは、スクリーンに決まった1点の位置に集中するはずです(有能なガンマンがほぼ同じ標的に打ち込めるのよ同じでございます)。 ですが、この電子銃を用いた実験では、ある1グループから打ち込まれたスクリーンでは、1個のみの位置に描画されます。それが、世界中のグループで同じ実験を同時にした場合、各々1個のみの位置に描画されたスクリーンを、世界中のものを全て重ね合わせますと、干渉縞が描かれた というものです。 > ここで一気に言ってしまいますが 《経験されるものごと》はすべて 相対の世界に属するというふうに定義したいのです。たとえ《手に負えない運動》をしていても それとして経験科学によって認識されることになると思います。経験合理性が及ぶその範囲に入るのではないか。こう考えるのですが 甘いですか? いいえ、それでよろしいかと考えております。 「《経験されるものごと》はすべて 相対の世界に属するというふうに定義したいのです。」 → 意見を等しく致します。 《手に負えない運動》、これには、”万有引力の法則”等も含まれているかと思われます。ですが、この古典的な”万有引力の法則”も、原理は未だに不明のままでございます。ですが、認識は可能と思えわれます。 確かに、量子論の解釈問題(例えば、光の粒子、波の2面性等です)等ございますが、これも正確な認識は困難かもしれませんが、事象と致しましては、認識可能でございます。 「たとえ《手に負えない運動》をしていても それとして経験科学によって認識されることになると思います。」 経験合理性が及ぶその範囲に入るのではないか。こう考えるのですが → 問題はないかと考えております。 ご参考になれば、幸甚に存じます。
補足
Hidocchi さん ていねいにご説明をいただきたいへんありがとうございます。個人教授ものでありありがたく学びました。 冷や汗ものですが ★ 「《経験されるものごと》はすべて 相対の世界に属するというふうに定義したいのです。」 → 意見を等しく致します。 ☆ とお聞きしてまづはほっとしています。 ▲ (ヰキぺ:二重スリット実験) ~~~~~~~~~~~~~~ この実験では、電子を一つずつ発射させても、同じ結果が得られる。つまり、電子を一度に一つずつ発射させることを何度も何度も繰り返してから その合計に当たるものを写真乾板で見ると、やはり同じような干渉縞が生じている。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この電子銃を用いた実験では、ある1グループから打ち込まれたスクリーンでは、1個のみの位置に描画されます。それが、世界中のグループで同じ実験を同時にした場合、各々1個のみの位置に描画されたスクリーンを、世界中のものを全て重ね合わせますと、干渉縞が描かれた というものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。《何度も繰り返す》というのは 《世界中で同じ実験を同時にする》というのと 等価なのですね? ★ 量子論の解釈問題(例えば、光の粒子、波の2面性等です) ☆ 光が粒子と波の二面性を持つということも すでに量子の問題なのですね? こういう基礎からしてしっかり覚えていかなきゃ。 ○ 重力 ☆ というのは おもしろそうですね。まるで人にとっては 意志の重さに対応するかに思えます。しかもふつうには きわめて軽いと言いますか 意志の重さは いちばん大切だと言えるほどなのに 軽視されがちであるように思えます。 関連した項目を見ていました。残念ながら読むというほどではありません。 ▲ (ヰキぺ:シュレーディンガーの猫) ~~~~~~~~~~~ ○ コペンハーゲン派の解釈 観測者が箱を開けて観測を行った瞬間、その猫の状態群が一つの状態に収束する(波動関数の収縮)、というもの。 ○ エヴェレット解釈(多世界解釈) ・・・観測によって、生きている猫を観測した観測者と死んでいる猫を観測した観測者の重ね合わせ状態に分岐する(宇宙全体が並行に分岐するわけではない点で、並行世界の概念とは大きく異なる)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしには その猫の状態が分かった時点を捉えれば 二つの解釈は 同じことであるように思えるのですが ちがうのでしょうね。というよりも 観測する前から 猫の状態は いづれかひとつであるとしか思えないというほど 単純に捉えてしまうのですが 困ったものです。 ということは 《「神はサイコロをふらない」》といった見方に傾いているということでしょうか? この問題は 《哲学への影響》があるのだそうですね。 ▲ (ヰキぺ:同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 哲学への影響 この思考実験は哲学の次の二つの分野でもしばしば議題に上る。 ひとつは量子力学の解釈問題の議論の前提となる科学的定義に関する科学哲学においてである。この場合は、量子力学の理論的枠組みが、従来の科学哲学に基づいた定義にそぐわないことを指摘する上で、この思考実験が引用される。 そしてもうひとつは心の哲学において心の因果作用(→物理領域の因果的閉鎖性の項を参照)を議論するにあたって、量子力学の確率過程が問題となってくる場合においてである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 追い追い学んでまいります。 どうもありがとうございました。
- otherwind
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有難うございました。 ==================== > ★ 「日本人」とは何なのでしょうか? > ☆ これははっきりしています。《絶対》という言葉を日常生活に使っているひとです。 日本国籍を持っている人間のほとんどは、あまり、日常生活で「絶対」という言葉を使っていないように思います…。あくまでも私の感覚にすぎませんが…。私にははっきりしないように思いました。 もちろんこの場合の「絶対」というのは日本語なのですよね…。 トートロジーな気もします。「絶対」という日本語を使っている人を日本人と定義すると言われているような気がしてしまうのです。 なぜ、日本人なのか、なぜ「絶対」という単語なのか…。 「絶対」という単語が選択された特殊性が今ひとつ、私にはあいまいに思えました。 具体的な文脈が不明ということからくるのだと思います。理科の教師が「絶対零度」と言ったら、定義はあいまいなのか?算数の教師が「絶対値」と言ったら定義はあいまいなのか…。マイクロソフトエクセルのインストラクタが「絶対セル参照」と言ったら定義はあいまいなのか。 「絶対」という単語だけの問題なのか? > ★ なぜ「日本人」なのでしょうか……。 > ☆ 使っている割りには その意味内容 つまり定義ですね が明確ではない。それゆえです。ほかの言語を用いるほかの民族や国民にも 定義の明確でないまま使っている場合があるかも知れませんが いづれにせよ 日本人に焦点を当てるという意味です。単純にそうです。 私にはあいまいすぎて分かりませんでした。 ====================== 強いて言うと、「絶対」という語は、翻訳語、新漢語なのかもしれませんね…。 「社会」という日本語は、ソサエティの訳語として作られた。人と人とのかんけいを意味する。 よって、反義語はプロダクションである「生産」すなわち、人とものとのかんけいである。 これは、たとえば、経済学の教科書であれば、定義はきわめて明確も明確。クリアアンドディスティンクト。判明にして明晰。 経済学というのは、広~~~い意味では、一種翻訳であるような文脈と考えることができます。しかしながら、翻訳ではない文脈、それが、ご質問者の「日常生活」という意味ではなかろうかと取ったわけですが、翻訳ではない文脈では、たとえば「社会」というのは、翻訳語、新漢語ですから、やまとことばというか、最近(幕末~明治)、翻訳のために、そのような言葉が発明される前にはなかったことばであり、言葉の定義は他の言葉とのネットワークで定まるのですから、当然、定義、意味があいまいになる。意味があいまいであると、どんな文脈にでも、いつでもどこでも使えると言いますか、濫用が可能、なので、流行るといいますか、意味不明確なことによって、いろいろな場面で使えてしまうからこそ、よく使われる…ということがあるのではないかと思います。 「きもい」とか「うざい」とか、どこでもいつでも使える範囲が広い。 それは、「絶対」という語の独自性によるのではまるっきり、全く、全然、ないと思います。 「絶対」という語の意味から、あいまいさが来ているのでは全くなく、「絶対」という語の特殊性にあるのでもなく、単に、文字面、文字、音声として、「絶対」という文字が翻訳語だからであり、他に、「主義」ですとか「革命」ですとか、翻訳語であるかぎり、他にもいくらでも事例がある話な気がしました。
お礼
そうですか。 それは残念でした。 ただ 司馬遼太郎の文章を参照するかたちで出してもいます。 それには触れておられないのが 質問者にとっては不満ですね。 つまり 司馬がどうだこうだという問題ではなく あきらかに世界においては《絶対》という言葉を使う場合があるはずです。何もそれに倣えと言っているわけではありません。同じ土俵でコミュニケーションを図る必要はあるはずなのです。そのときに定義もあいまいなままでは 話になりません。 もし日本人から考えて世界にとって 《絶対》という概念が必要ないのではないかということでしたら そういうふうに世界に訴えることも肝心なのではないでしょうか? そういう意味は この哲学カテゴリでは ほとんど自明だと思ったのですし いまも思っています。でも通じないというのでしたら 仕方がありません。見解の相違ということになると考えます。 そうですね。日常に《絶対》は 《絶対に》という副詞としてよく使いますね。そして 哲学カテゴリを広く捉えて 経験科学を超えた領域では いわゆる神の取り扱い方として《絶対》は 定義が必要ですし 定義をしておくと うんと話がすんなりと行くと考えます。どうでしょうね。
補足
おぎないます。 あまりにもゆづるのもどうかと考えなおしました。 たとえば次のように 《絶対》の概念が有用であると思います。 ▲ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 無限なものと・・・ただ有限なものとの・・・一体性・・・この矛盾は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* ――もしくは《時間》ないし《世界観》――)の高さである。 (§37追加。藤野渉・赤沢正敏訳。括弧内は引用者) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここには 《無限》という言葉で 《絶対》という概念が想定されていると考えます。この境地は 人間にとって有効だと考えるので 《絶対》という概念はあってしかるべきだと考えます。
こんばんは、ご返答賜り、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。 > ★★ (回答No.15) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・「絶待」:〔仏〕 他の事物との対比からかけはなれ、それだけで存在すること。ぜったい。 ----- (西洋の)哲学用語とほとんど同じ意味? ・「 相待」(「絶待」の対義語のようでございます):〔仏〕 他の事物との対比や関連によって存在すること。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という絶待・相待という用語があったことは事実なのですよね? そしてその意味が同じようですから これらに絶対・相対という言葉が取って代わったという――結果的にせよ――かたちには見えますが どうでしょう? という問いでした。 もし、 「”絶対”:absolute の訳語。明治期には「絶待」と書かれた」でしたら、問題なく、取って代わったと断じていたのですが、 「”絶対”:absolute の訳語。明治期には「絶待」と”も”書かれた」でしたので、「 絶待」と書いた人が全てとは言えないかもしれない という懸念がございました。このため、断定するのを避けさせていただいた次第でございます。 もし、ご心証を害するところがございましたら、深くお詫び申し上げます。 > ○ ☆ もしこのようでしたら このときの《絶対》という言葉は 哲学の用語とは別だと受け取ります。概念が違っていると考えます。 質料の運動が 人間の手に負えないという意味で他のものによっては遮られることのない自己運動であるとしても この質料(物質)は それでも移ろい行くものであって可変的だと考えられるのではないですか? それは 哲学として絶対とは言わないと思うのです。どうでしょう。 ”電子”の場合でしたら、電圧を変化させることにより、”速度”も変わりますので、確かに”可変的”かと考えられます。従いまして、”束縛のない”といったものとは異なると考えられます。そこで、各定義に照らしてみたいと思います。 ”絶対”(哲学の定義)についてです (1)blagelonne様の《絶対》の定義 「人間の経験合理性の及ぶか及ばないかが分からないところ これを 絶対と定義」 上記”電子”は、人間の経験合理性の及ぶところもございますが、”量子論”的解釈が入りますと、経験合理性が及ばないところもございます(電子の存在場所(場所は確率的にしかわからない)等でございます)。 これらの点から、及ぶところと及ばないところがある程度わかりますので、確かに、”絶対”の定義には含まれないと解せられます。 (2)哲学事典(森 宏一編集、青木書店 1981増補版)からの定義です 絶対とは、条件づけられることなく、独立的で、それ自体において完全であることを意味する。相対というのに対立する。 運動する物質そのものは、なんら条件づけられておらず、制約されず、なにものにも依存していないから、絶対ということができる。 しかし、物質の運動には具体的な無数の種類があり、それらはたえず変化し、一は他のものへと移りゆくので、これら具体的な物質のあらわれは絶対といえず、相対である。 すなわち、条件づけられており、それだけで独立しておらず、他との関係のうちにある。 それと同時に、この相対のなかには、物質の絶対的運動をふくむので、たんに相対ではなく、絶対をそのなかにもつ。絶対は相対と対立しながら、またこのような関連をもっている。 1. では、” 条件づけられることなく”には、抵触するかと考えられます。 2. では、” 制約されず”ですが、人為的には制約を受けます。「人的なものが介入されなければ」、この条件はクリアーされるかと考えております。 3. では、例えば、”原子A”と”原子B”が結合し、”分子(共有結合による)”が形成された場合ですと、電子は他のものへと移りますので、これもクリアーされるかと考えられます。 4. では、特に問題はないかと考えております。 一応、考えてみたのですが、いかがでしょうか? 愚生の判断のみでは、断じる自信は残念ながらございません。 ご意見の程、賜れば幸甚に存じます。
お礼
★ もし、ご心証を・・・ ☆ めっそうもありません。わたしの言い回しは もともと けんか腰がふつうなのですというくらいです。(たとえば 聖徳太子を批判するのは その昔 大変だったというような事情も 引きずっているかも知れません。戦争のような議論にさえなりかねません)。申し訳ないですが 或る程度は慣れていただかないと・・・。と言っても わたしも気をつけてまいります。 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 つぎのようにでも捉えておけばよいでしょうか。 ○ もし誰か 《絶待》という語を知っていたひとが 明治期に《絶対》という新たな語を知ったときには そのひとの中では 概念としてつながりがあると言ってよさそうだと思ったことでしょうと。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ”絶対”(哲学の定義)についてです ”電子”は、人間の経験合理性の及ぶところもございますが、”量子論”的解釈が入りますと、経験合理性が及ばないところもございます(電子の存在場所(場所は確率的にしかわからない)等でございます)。 これらの点から、及ぶところと及ばないところがある程度わかりますので、確かに、”絶対”の定義には含まれないと解せられます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 質問でーす。 ★ 電子の存在場所(場所は確率的にしかわからない) ☆ についてですが 《確率的に分かる》ということは どういうことを意味しますか? 経験合理性が及ぶのでしょうか? 及ばないのでしょうか? ――澄みません。単刀直入ですが。 ★ 電子の運動 ☆ なるほど。それとしての性質や特徴があると分かりました。量子ともなると また さらに特徴があるということのようですね。 ここで一気に言ってしまいますが 《経験されるものごと》はすべて 相対の世界に属するというふうに定義したいのです。たとえ《手に負えない運動》をしていても それとして経験科学によって認識されることになると思います。経験合理性が及ぶその範囲に入るのではないか。こう考えるのですが 甘いですか? 単純至極の文章にて よろしくお願い申し上げます。
こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。Hidocchiです。 > 《解き放たれた・かけ離れた》は 《人びと一般から》という補助線が有効のようですね。 ”王権神授説”なるものも現れたことから、この解釈も成り立つのではないかと思った次第でございます。”王権が神授される” → 一般人とは別格の存在に変化? > 仏教用語の《絶待・相待》は 一般に普及しなかったということのようですね。 確かに、今日、かような漢語は一般的には使用していないため、普及には至らなかったと考えられます。 > でも 同じ意味だから 《絶対・相対》に席をゆづったと考えられるのでしょうか? goo辞典では、”「絶対」とはabsoluteの訳語” と記載されています。従いまして、この日本語訳化が何時頃起こったのかは、詳細には分からないのですが、日本人が”絶対”という言葉を日常的に用いたのは、明治期以降からと推察しております(歴史的には浅いと思われます)。 > ★ 一般の日本人には、無縁な言葉だったと思われます。従いまして、一昔前までは、”絶対”は日本人には認められない言葉であったかと考えられます。 ☆ でも概念の問題ですから 《普及しない》からと言って 《認めない・認めたくない》というのも おかしな話であるように思われるのですが。そういう意味の言葉をわざわざ使いたくなかったということなのですかねぇ。 これは、愚生の”日本語”の不備でございます。 間違い:”絶対”は日本人には認められない言葉であったかと考えられます。 正しい:”絶対”は日本人には”存在しなかった”言葉であったかと考えられます。 これは、愚見でございますが、明治時代頃までは、”絶対”は”唯一無二”、”至上”等で代用されていたのかもしれません。これはあくまで推測の域をでておりませんが..... > ☆ (β)の《物質の”絶対”的運動》というのが分かりづらいのです。質料は その自然の運動として 人間の手に負えないということでしょうか? 同じく(β)において ▲ たんに”相対”ではなく、”絶対”をそのなかにもつ。 ☆ つまり 経験世界は《相対》であるが その相対の中に絶対〔としての質料の運動〕を持つ。ということなのでしょうか? ただその運動について ひとは認識することができ 表象し得ると思うのです。そういう意味では 有限・可変的であり 相対の世界に属していると捉えると分かりやすいと思うのですが そうはならないでしょうか? (γ)においても 絶対が《相対と対立する》と言っていますが 何かと関係したり対立したりするなら それは 絶対とは言わない〔=つまり (α)の命題〕と考えるのですが いかがでしょう? 自然科学の分野では、”物質の絶対的運動”には、”電子”の運動等がこれに該当するかと考えられます。 > 質料は その自然の運動として 人間の手に負えないということでしょうか? 質量に関しましては、自信がございません。申し訳ございません。 > つまり 経験世界は《相対》であるが その相対の中に絶対〔としての質料の運動〕を持つ。ということなのでしょうか? 仰る通り、このように解せられるはずでございます。 > ただその運動について ひとは認識することができ 表象し得ると思うのです。そういう意味では 有限・可変的であり 相対の世界に属していると捉えると分かりやすいと思うのですが そうはならないでしょうか? 装置等を用いることにより、ひとにも認識はある程度可能と思っています。ただ、量子論的概念も含まれてくるため、人間には、完全には認識できれるものではないとも考えております。 > (γ)においても 絶対が《相対と対立する》と言っていますが 何かと関係したり対立したりするなら それは 絶対とは言わない〔=つまり (α)の命題〕と考えるのですが いかがでしょう? 一般に、相対論と”量子”は矛盾していないことが判明しております。実際には、電子顕微鏡では、「相対論補正」がなされています(1000kV-条件下では、電子の速度も光の速度近くまで速度が上昇してしまうからでございます。そこで、シュレーディンガー方程式の静止質量m0を相対論的質量mに、波数を相対論的波数に置き換えています)。つまり、あらゆる条件下において、常に普遍の”絶対”とはいえないと考えております。 なお、日本人には、この語彙(絶対)の歴史が浅いため、原意のまま、理解しようとして来なかったと考えております。 ご参考になれば幸いでございます。
お礼
Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。 今回は すべて――と言っても二点ですが――細かいことになりますが いちおうお尋ねしておきます。 ○ 絶対・相対 ★★ (回答No.15) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・「絶待」:〔仏〕 他の事物との対比からかけはなれ、それだけで存在すること。ぜったい。 ----- (西洋の)哲学用語とほとんど同じ意味? ・「 相待」(「絶待」の対義語のようでございます):〔仏〕 他の事物との対比や関連によって存在すること。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という絶待・相待という用語があったことは事実なのですよね? そしてその意味が同じようですから これらに絶対・相対という言葉が取って代わったという――結果的にせよ――かたちには見えますが どうでしょう? という問いでした。 ○ 物質の運動についての《絶対》 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > つまり 経験世界は《相対》であるが その相対の中に絶対〔としての質料の運動〕を持つ。ということなのでしょうか? 仰る通り、このように解せられるはずでございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もしこのようでしたら このときの《絶対》という言葉は 哲学の用語とは別だと受け取ります。概念が違っていると考えます。 質料の運動が 人間の手に負えないという意味で他のものによっては遮られることのない自己運動であるとしても この質料(物質)は それでも移ろい行くものであって可変的だと考えられるのではないですか? それは 哲学として絶対とは言わないと思うのです。どうでしょう。
- otherwind
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回答ではなく、疑問になってしまうのですが、なぜ「日本人」なのでしょうか……。 「日本人」とは何なのでしょうか? 日本国籍を持っている人と考えることはもちろん可能と思いますが、おそらく、ご質問の趣旨とは違いますよね…。 (例:アメリカ合衆国生まれのアメリカ合衆国育ち、読める、話せる、聞ける言語は米語だけ、数ヶ月前に来日し、本日、日本国に帰化の手続きが法的に完了した…のは国籍なら明らかに日本人でしょうが、多分、ご質問者の意図はそうではないのではなかろうかと。) 「私はなぜ絶対の概念が分からないのか」というご質問であって、且つ、具体的にどういうことか…詳しく書いてあったとすると、回答のレスがつくのは、理解できるのですが、「日本人」というのは、なんだか、現実にはどこにも存在しないような気がして…。 レスがつくのがむしろ不思議な気がしてしまいます。 お気を悪くされたらすみません。
お礼
otherwind さん ご回答をありがとうございます そうですね。同じ趣旨の質問を――なお明確になっていないと思ったので――設けたのですが じつは三度目なので 安易に捉えていたというのは ほんとうのところです。つまり 《どう扱うのか》 これだけで考えを寄せてもらえると踏んだという意味になります。 ★ 「日本人」とは何なのでしょうか? ☆ これははっきりしています。《絶対》という言葉を日常生活に使っているひとです。 ★ なぜ「日本人」なのでしょうか……。 ☆ 使っている割りには その意味内容 つまり定義ですね が明確ではない。それゆえです。ほかの言語を用いるほかの民族や国民にも 定義の明確でないまま使っている場合があるかも知れませんが いづれにせよ 日本人に焦点を当てるという意味です。単純にそうです。 こんなところですが どうでしょう? これまでの回答をも参照していただき ご見解をよかったら寄せてください。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocciです。 > ▲ (絶対と相対absolute and relative) ~~~~~~~~~~ http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/absolute_relative.html 哲学事典(森 宏一編集、青木書店 1981増補版)から引用:括弧内は参照頁。 ・”絶対”とは、条件づけられることなく、独立的で、それ自体において完全であることを意味する。”相対”というのに対立する。 ・この”相対”のなかには、物質の”絶対”的運動をふくむので、たんに”相対”ではなく、”絶対”をそのなかにもつ。 ・”絶対”は”相対”と対立しながら、またこのような関連をもっている。 なお、goo辞典では、 ”絶対”:absolute の訳語。明治期には「絶待」とも書かれた ・「絶待」:〔仏〕 他の事物との対比からかけはなれ、それだけで存在すること。ぜったい。 ----- (西洋の)哲学用語とほとんど同じ意味? ・「 相待」(「絶待」の対義語のようでございます):〔仏〕 他の事物との対比や関連によって存在すること。 もともと、”絶対”という単語は、昔の日本にはなかったように見受けられます。そして、「絶待」なのですが、これは、元来、仏教用語のようでございます。このことからも、一般の日本人には、無縁な言葉だったと思われます。従いまして、一昔前までは、”絶対”は日本人には認められない言葉であったかと考えられます。 以前の愚見と、これらを考えますと、”絶対”(かけ離れたもの)とは、”相対”(一般の市民社会)との関係性で、生じた言葉に思われました。 ご参考になれば、幸いに存じます。
お礼
そうですね。 《解き放たれた・かけ離れた》は 《人びと一般から》という補助線が有効のようですね。 仏教用語の《絶待・相待》は 一般に普及しなかったということのようですね。でも 同じ意味だから 《絶対・相対》に席をゆづったと考えられるのでしょうか? ★ 一般の日本人には、無縁な言葉だったと思われます。従いまして、一昔前までは、”絶対”は日本人には認められない言葉であったかと考えられます。 ☆ でも概念の問題ですから 《普及しない》からと言って 《認めない・認めたくない》というのも おかしな話であるように思われるのですが。そういう意味の言葉をわざわざ使いたくなかったということなのですかねぇ。 すみません。次の内容を解説していただきたいのですが どうでしょう? ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (α) ”絶対”とは、条件づけられることなく、独立的で、それ自体において完全であることを意味する。”相対”というのに対立する。 (β) この”相対”のなかには、物質の”絶対”的運動をふくむので、たんに”相対”ではなく、”絶対”をそのなかにもつ。 (γ) ”絶対”は”相対”と対立しながら、またこのような関連をもっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (β)の《物質の”絶対”的運動》というのが分かりづらいのです。質料は その自然の運動として 人間の手に負えないということでしょうか? 同じく(β)において ▲ たんに”相対”ではなく、”絶対”をそのなかにもつ。 ☆ つまり 経験世界は《相対》であるが その相対の中に絶対〔としての質料の運動〕を持つ。ということなのでしょうか? ただその運動について ひとは認識することができ 表象し得ると思うのです。そういう意味では 有限・可変的であり 相対の世界に属していると捉えると分かりやすいと思うのですが そうはならないでしょうか? (γ)においても 絶対が《相対と対立する》と言っていますが 何かと関係したり対立したりするなら それは 絶対とは言わない〔=つまり (α)の命題〕と考えるのですが いかがでしょう? 自然科学の考え方は 違っているのでしょうか。
- heartmind
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>ここでの問題は この相対世界を超える絶対の場を どのように捉え扱うか この問題なのです。 絶対は歴史の流れによる精神です。人間は歴史を作ってきました。ただ自然の時間の流れのみなら歴史とは言えません。そこに何らかの人間の解釈があって歴史となるのです。言語の発達による、精神の歴史、世界が絶対であるわけです。どんなに気の遠くなる宇宙を思っても歴史の一部なのです。それに懐疑しようとする姿勢があったとしても、懐疑するところの歴史がなければ懐疑しようがない。それが相対的なものだといっても、絶対的なものだといっても、今ある世界人類の言語による精神が在るだけで、相対的に絶対あるといっても、絶対的に絶対あるといってもどっちでもいいわけです。
お礼
そうですね。ご回答をありがとうございます。 この世――つまり経験世界――では ブディズムが諸行無常と言う前から 移ろい行かないものごとはありません。時空間ですから とうぜん歴史をも含むものです。これを 有限・可変・相対の世界と呼んでいます。 では世界は この経験世界のみであるのか? このすべてのものごとが相対性のもとに捉えられるという・つまりすべては程度問題であるという時空間が 自己完結していると言うべきか? ちょっと遊び心を出してみて その経験世界を超える領域を想定してみる。そして これを 絶対の場と呼んでみる。 それだけのことですよ。 たしかにそこに尾ひれもつきました。 《絶対》を擬人化して《絶対者》と呼び変えてしまい これを《神》として《創造主》とさえ呼んでしまいました。この神が 人間に成ったとさえ おとぎ話は展開しています。イスラームでは 人間ムハンマドの口を借りて 神じしんが話をしたとなっています。クルアーン(コーラン)ですね。イタコではありませんで アッラーフなる神が直接に語ったと言います。 ですからぎゃくに言えば 相対世界を超える場を《絶対》としてその呼ぶ言葉があると 世の中の宗教や思想について 交通整理がうんとなめらかに行くこと請け合いなのです。 そしてそれだけのことですよ。 (なぜなら 信教・良心の自由は 公理ですから。それはそれとして まったく自由に持ち得る領域です。そういう意味でも《神》とわれわれ人間との関係は――つまりそういう架空の物語に過ぎない話ですが―― 《絶対》にかかわっているとも言えたりします)。 《絶対》という用語は要らないと言うならまだしも 次のように言ってしまえば かえって逆効果なのではないでしょうか? ★ 懐疑するところの歴史がなければ懐疑しようがない。それが相対的なものだといっても、絶対的なものだといっても、今ある世界人類の言語による精神が在るだけで、相対的に絶対あるといっても、絶対的に絶対あるといってもどっちでもいいわけです。 ☆ これだから 《のっぺらぼうの世界》が 日本人には馴染んでしまっているのですよ。そうぢゃないですか?
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 以上から、”宇宙空間”についての確かな認識を否定します。 ★ ポアンカレ予想〔では〕 宇宙の形は概ね球体(=ドーナツ型のような穴のある形、ではない)と言えるのか・・・。”概ね球体なのではないか”との見解を示唆したということでございます。 ☆ ふうーう。やはり残念ながらついて行けませんでした。無念ですが 無理のようです。 わたしの関心は はっきりしています。経験世界であるなら 有限で相対的・可変的だということです。それについて経験科学は知ろうとするということです。それ以外は 《絶対》の世界としておくということです。 以前に ri_rong さんから 《無限》における濃度(アレフ)について 序数で考えると分かりやすいとおそわったのですが ただ 《無限》において 序数なら序数というふうに順序を特定しうるごとく なぜ表象することが出来るのかという疑いがなお残っていました。これについては 尋ね損ねたままでいます。 ですから 私にとっては 《表象しうる》と《表象し得ない》とで相対と絶対を区分するかたちが分かりやすいです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《一般的人民の場所・位置において、離れ、束縛のない位置》と解したのですがいかがでしょうか。 そして、これが "despotic(専制的な)"の意味につながっているのかと考えたのですが、いかがでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。《一般人民から》というところがミソでしたね。 ★ (確かに、”わがまま”とも解せられるのですが.....) ☆ これは solve < * se-lu =《みづからを‐解き放つ》というような類推から 《わがまま》を出してみました。《社会的に人びと一般から》という意味づけをすれば 分かりやすいと思いました。《わがまま》は あってもそのあとの状態でしかないと分かりました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔科学用語として〕愚生の経験から申しますと、同義の”complete(ly)” or "perfect(ly)"が用いられ、少なくとも、形容詞として一般的な用い方での"absolute"はほとんど見かけたことはなかったような気がします(ただし、absolute alcohol(無水アルコール)等、慣用化してしまったものは除きますが.....)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも 分かりました。新しい用法なのですね。ありがとうございます。 そうしますと ☆☆ 現行の意味のほとんどは ラテン語に見られる。:Most of the current senses were in L. ☆ この意味が不明になるのですが どうなのかなぁ。《絶対》という意味はなかったのですかねぇ。 ありがとうございました。やはり一歩一歩ですね。