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《絶対》と日本人
どう扱っているか? 早くうまく扱うようになって欲しいと思うのですが どうなのでしょう? 《相対・有限・可変性の経験世界》とそれを超える《絶対・無限・不可変性・非経験・非思考の場》とです。 ○ 司馬遼太郎が短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。 http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html (第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。 ○ すでに同じ趣旨で問うたことがあります。 【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3738300.html
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こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 わざわざ、さらに詳細にご調査いただきまして、厚くお礼申し上げます。 各種辞典を検索する意義・重要性を改めて再認識することができました。重ねてお礼申し上げます。 > 現行の意味のほとんどは ラテン語に見られる。語義の進展については "detached, disengaged," より起こり やがて "perfect, pure." の意に到る。1610年代に現われた"despotic" の意味は "absolute in position(《その位置において解き放たれた》?)" から来ている。 [前提とした訳語でございます] detached : 分離した、孤立した、離れた disengaged: 取り外された、遊離した 解放された 束縛のない despotic: 独裁的な、専制的な、 (訳は、http://www.alc.co.jp から調べさせていただきました。) 以上から、"absolute in position(《その位置において離れた or 束縛のない》 → 《一般的人民の場所・位置において、離れ、束縛のない位置》 )と解したのですがいかがでしょうか。 そして、これが "despotic(専制的な)"の意味につながっているのかと考えたのですが、いかがでしょうか。 > 1440頃 "to disperse, dissipate, loosen,"の意味で用いられるようになった。ラテン語の solvere "to loosen, dissolve, untie," より来る。 [前提とした訳語でございます] loosen: 緩む、解放する dissolve: 〔一体化されているものが要素に〕分解する, 〔契約・関係などが〕解消される untie:解放する、自由にする、関係を絶つ ”ラテン語の solvere” → 解放する、分離する、関係を絶つ(確かに、”わがまま”とも解せられるのですが.....) と解したのですが、いかがでしょうか。 > 科学用語に使われるのが 二十世紀からだとは意外なんですけれど? 何かの間違いでしょうか? 愚生の経験から申しますと、同義の”complete(ly)” or "perfect(ly)"が用いられ、少なくとも、形容詞として一般的な用い方での"absolute"はほとんど見かけたことはなかったような気がします(ただし、absolute alcohol(無水アルコール)等、慣用化してしまったものは除きますが.....)。 > blagelonne様の《絶対》の定義 「人間の経験合理性の及ぶか及ばないかが分からないところ これを 絶対というふうに定義」 でしょうか。確かに、こちらの方が明確なように思われます。 (ですが、全回答を拝見させていただいたのですが、”物理屋さん”の回答がとても多くなったのですね。驚きました。) 因に、カント(二律背反)では、「認識の限界を超えた思考は二律背反に陥る」として人間理性の範囲外としていた と思います。 たとえば、 ・世界は時間においては始まりを有し、空間に関しても限界の内に囲まれている(時間において始まりがあるというのなら、その始まりの前もあることになってしまう。さらにその前(の前)も存在することになってしまう)。一方、 ・世界は始めを持たず、空間においても限界を有せず、かつて時間に関しても無限である(空間という限界に囲まれているのなら、空間の外があることになってしまう。 さらにその空間の外(の外)も存在することになってしまう)。 この両命題とも、理性が思考できることですが、時間の前と空間の外、空間と時間においても無限であるということは、われわれの認識を飛び出し、限界を超えることになります。 以上から、”宇宙空間”についての確かな認識を否定します。 ですが、科学者が宇宙について考えるのは、考えてゆけばそのうち答えが出ると考えており、実際そうしております。愚生の知識が確かならば、「ポアンカレ予想」でございます。wikipoedia ポアンカレ予想 をご参照くださいませ。 「たとえて言えば、宇宙の中の任意の一点から長いロープを結んだロケットが宇宙を一周して戻ってきて、ロープの両端を引っ張ってロープを全て回収できた場合、宇宙の形は概ね球体(=ドーナツ型のような穴のある形、ではない)と言えるのか、という問題である。」これに関しまして、一つの示唆を与えた訳でございます。つまり、”概ね球体なのではないか”との見解を示唆したということでございます。 長々とした駄文をお読みいただきまして、厚くお礼申し上げます。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん、お教えをありがとうございました。 結論から率直に申し上げて、訪問申し上げた事を公開しております。 1. 君主が絶対であるという命題に対して 人間の存在が絶対であるなどということはあり得ないと明らかにすることができます。 ◇そうなんですか 2.ブッダは 絶対なる存在か? という問いを きちんとした定義にもとづき問うことができます。答えられないということは 思想として成っていないことを意味します。 ◇定義って、ブッダと絶対についてなんですかね 3. たとえば ∞÷2=∞ という想定での話ができます。三位一体も ∞÷3=∞ ですからそれぞれの位格が やはり無限であり絶対であることを物語ることが出来ます。 ◇そうですか 4. ブディズムの内 浄土系は 阿弥陀仏が《絶対》に相当するということが明らかになります。 ◇絶対ということばと観念なんですか?違うと存じておりますが 5. 仏性とは何ぞや? の問いに 絶対という概念で説き明かすことができるようになるでしょう。 ◇なんだか分りません。ブッディということでしょうかね。大体絶対という用語と観念が無用だと存じますが 6. シントウという信仰および思想についても 絶対という概念をあてはめて しっかりとした定義や説明ができるようになるでしょう。 ◇そうなんですか 神道でしたら、そんなことを要求していないと存じますが。 7. 集団・組織としての宗教は その教義において 絶対の神か相対の神々かを明らかにしていない場合 それを明らかにしてやって 勘違いや欺瞞があればそれをも明らかにしていけます。 ◇そうなんですか それぞれでしょうがね 8. ですから 世界中の宗教について――その集団としての宗教は 個人の信仰の自殺行為なのですから もう論外ですが―― その基礎にある個人の信仰について すべて類型において捉えることが出来るようになります。という意味は すべてほんとうの絶対を信仰する場合には 神の名をどのように呼ぼうが 互いにまったく――その類型としては――同じなのだと分かるようになります。それらの間のいざこざが無くなるでしょう。 ◇そうでしょうか いざこざは困りますね 9. 社会のお二階さんであるアマテラス公民について 何をやっても間違いは出ないのだという神話を崩壊にみちびくことができます。絶対ではないという経験事実が明らかになるからです。 ◇そうですか 10. かように《絶対》は なぞです。 ◇なぞですかね 11. ただし ★ 《万物が絶対であるのだから、それでいいではないか。》――☆ これについては きわめてあやふやな命題だと考えます。《万物》ともし言うのであれば ◇きわめて身近かでもっとも当たり前なんですが。 ○ 万物は 《絶対》に覆われ包まれている。想定からの・しかるべき想像のもとにならば 万物は絶対を 部分的に表わしていると言えるかも知れない。 ☆ といったところでしょうか。 ◇そういう意味とは知りませんでした。 12. 《絶対》という言葉の由来は如何に? ◇なんなのでしょうね 13. おのおのの民族ないし言語について その歴史を交えて どんなことが・どれだけ 分かるでしょうか? ◇分るって、誰がどんな能力と側面でわかるのでしょうね 14. 日本語では 《あはっ》とか《まこと》とか言ったのでしょうか。よくは分かりません。おしえてください。 ◇欧米ではどうして必要なんでしょうね、絶対に対してどんな機能をもたしているのでしょうね。 どんな効果があるのでしょうね。 私は訪問する人ではありませんでした。 申し訳ありませんでした。失礼します。
お礼
★ 私は訪問する人ではありませんでした。 ☆ うけたまわりました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.7 における補足の要請に対して、きちんとしたお教えとご回答を賜り厚くお礼申し上げます。 三読して仰せの事が充分に理解できませんが、あと何度か拝読すれば分るのでしょう。 何かご参考になることを投稿できればいいのでしょうが、もし見送り三振となったら、どうかお許しください。
お礼
そうですか。残念ですけれど うけたまわります。 なおわたくしの《絶対》についての定義は 次のわたしの投稿にあります。すでにお目を通されたことのある文章かとも思いますが 再度再再度かかげます。 【Q:哲学に感動はあるか】:その回答No.20です。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5532406.html
夜分恐れ入ります。Hidocchiでございます。 英和辞典からは、情報らしきものは得られませんでした。他の英英辞典でも同様でございました。そこで、”語源”から、調べてみました。(スペースアルク 語源辞典 からでございます) ab-solute ← ab + solvere (absolvere) [語源] ab-(=away) = 解き放された、制約されない [語根の基のラテン語(L.)] L.solvere = to loosen(解く、ゆるめる) なお、No.9の愚訳したものは"absolute"ではなく、"the Absolute(絶対者)"でございました。誠に申し訳ございませんでした。 それでは、深くお詫び申し上げます。
お礼
変な定義を見つけました。どんなものでしょう? ▲ (絶対と相対absolute and relative) ~~~~~~~~~~ http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/absolute_relative.html 哲学事典(森 宏一編集、青木書店 1981増補版)から引用:括弧内は参照頁。 絶対とは、条件づけられることなく、独立的で、それ自体において完全であることを意味する。相対というのに対立する。 運動する物質そのものは、なんら条件づけられておらず、制約されず、なにものにも依存していないから、絶対ということができる。 しかし、物質の運動には具体的な無数の種類があり、それらはたえず変化し、一は他のものへと移りゆくので、これら具体的な物質のあらわれは絶対といえず、相対である。すなわち、条件づけられており、それだけで独立しておらず、他との関係のうちにある。それと同時に、この相対のなかには、物質の絶対的運動をふくむので、たんに相対ではなく、絶対をそのなかにもつ。絶対は相対と対立しながら、またこのような関連をもっている。 絶対のみ真実在として、相対を仮幻とするのは、形而上学的しくの産物であって、観念論者によって説かれたものである(たとえばプラトン)。また世界の根本的実在として、精神を絶対としてみとめると、これまた観念論を生みだす。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ google 検索の第一位に上がっていたので 問題にしてみました。
こんばんは、Hidocchiです。 > ☆ この英語が 十四世紀から現われたということでしょうか? その前には ラテン語にその用法があったのでしょうね。 これは、自信がないのですが、おそらくそのように思われます。ラテン語の”absolutus”の歴史がさらに分かればよいのですが。どうも申し訳ございません。 > 《無制約・無制限》 つまり《無限》ということなのでしょうか? 以下に愚訳を載せさせていただいております。各思想家により、微妙に内容が異なっているように見受けられました。 (1)Schelling(1775-1854) and Hegel(1770-1831)らのRomantic idealistsの定義 「全ての”実在(reality)”を構成する、唯一(solitary)かつ、 比類なく無条件で 、完全に独立し、究極的には無限の霊的・精神的存在のこと」 (2)British philosopher F.H. Bradley(1846 - 1924)の定義(F.H. Bradley:英国の経験主義的思想家だそうです) 「絶対(者)とは、日常経験のあらゆる矛盾する現象を超越すべきもの」 (3) 一方、American Josiah Royce(1855-1916) の定義(Josiah Royce: アメリカの哲学者。新ヘーゲル主義とプラグマティズムの影響を受け、主意主義的で一元論的な観念論を展開したそうです) 「絶対(者)とは、 (たとえ不完全であろうとも)、人間の思考の一体性おいて、自意識が映し出される、超自然的な(or 宗教的な)存在」 漢語につきましては、goo辞典では、以下の記載がございました。 (1)他に並ぶものがないこと。何物にも比較されないこと。比較や対立を絶した存在であること。また、そのさま。 「―の真理」 (2)一切他によって関与・制限されないこと。無条件。 「上官の命令は―だ」 「―の権力をもつ」 (3)〔哲〕「絶対者」に同じ。 「唯一―の神」 absolute の訳語。明治期には「絶待」とも書かれた さらに調査を続けたいと思っております。 それでは、ご参考になれば幸いに存じます。
補足
Hidocchi さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 辞典がどれも同じだというのは 間違いだと思いまして 当たってみました。 ▲ (Online Etymology Dictionary:absolute ) ~~~~~~~ http://www.etymonline.com/index.php?search=absolute&searchmode=none (私訳) 十四世紀後半に初出。中世仏語 absolut より。それはラテン語 absolutus( =動詞 absolvere "to set free, make separate" の過去分詞)から来ている。 現行の意味のほとんどは ラテン語に見られる。語義の進展については "detached, disengaged," より起こり やがて "perfect, pure." の意に到る。1610年代に現われた"despotic" の意味は "absolute in position(《その位置において解き放たれた》?)" から来ている。ゆえに absolutism(絶対主義・絶対王権)と言われるようになる。 “Absolute monarchy”の語法は 1735 年まで記録がさかのぼる。(ただし“absolute king”は1610年代の初出である)。 科学用語に用いられるようになったのは 二十世紀に入ってからである。“ absolute magnitude (1902), absolute value (1907) ”。 ○ (solve ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1440頃 "to disperse, dissipate, loosen,"の意味で用いられるようになった。ラテン語の solvere "to loosen, dissolve, untie," より来る。 これは インドヨーロッパ語の祖形としては *se-lu-, ( * の印は 推定を表わす)であり これは 再帰代名詞の *swe- (=《みづから》)および *leu- "to loosen, divide, cut apart"より成る。 ( bragelonne 註:だとすれば この solvere ⇒ solve という動詞 は 早く言えば《わがままである》を意味しているように感じます) 〔同形の語が たとえば ギリシャ語に lyein "to loosen, release, untie,"がある。( -ein は 不定詞の語尾ゆえ ly- が語幹です。 *leu- や lu- と同根だというようです)。 古英語にleosan "to lose," leas "loose" がある〕. この solve という動詞に "explain, answer" という語義が現われたのは 1533年以降だと見られている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 科学用語に使われるのが 二十世紀からだとは意外なんですけれど? 何かの間違いでしょうか? それにしても すっきりしませんね。 なお わたくしの《絶対》の定義は 次のわたしの投稿をごらんくださるようお願いいたします。 【Q:哲学に感動はあるか】:その回答No.20です。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5532406.html
こんばんは、ご参考になれば、と思い筆を取らせていただきました。 (1)絶対=absoluteにつきまして http://www.merriam-webster.com/ Main Entry: ab•so•lute Function: adjective Etymology: Middle English absolut, from Anglo-French, from Latin absolutus, from past participle of absolvere to set free, absolve Date: 14th century http://www.philosophypages.com/dy/a.htm#abso The solitary, uniquely unconditioned, utterly independent, and ultimately all-encompassing spiritual being that comprises all of reality according to such Romantic idealists as Schelling, and Hegel. British philosopher F.H. Bradley emphasized that the Absolute must transcend all of the contradictory appearances of ordinary experience, while American Josiah Royce took the Absolute to be a spiritual entity whose self-consciousness is reflected (though only imperfectly) in the totality of human thought. (哲学では、シェリング、ヘーゲル、ブラッドレー等、17―19世紀の哲学者がよく用いたようでございます。) (2)仏教について まず、“仏像”に関してなのですが、「仏像がさかんに造られるようになったのは紀元後1世紀頃からインドを支配したクシャーナ朝の時代であることはほぼ定説となってる。」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F からでございます) つまり、仏像が作られ始めたのは、入滅後500年以上経ってからのことでございます。その前までは、釈迦の象徴としてストゥーパ(卒塔婆、釈迦の遺骨を祀ったもの)等を礼拝していたそうです。つまり、「釈迦の姿は表されず、足跡、菩提樹、台座などによってその存在が暗示されるのみであった。」ということでございます。換言いたしますと、“偶像崇拝”的な要素はほとんどなかったと考えられます。 仏教は、インドにおいて、釈尊から始まり、いろいろな歴史を辿ります。そして、入滅後千年も経ちますと、有神教であるヒンドゥー教に、その勢力を押されるようになります。そして、両教えを融合した形で“密教”が生まれました(紀元後7世紀頃)。そして、最終的には、イスラム勢力の侵攻・破壊活動によって密教を含む仏教は途絶してしまうことになりました。 非常に、皮肉な話になってしまいますが、“諸法無我”、“空”等を説きはしましたが、最終的には、“偶像崇拝”的要素を含む日本”仏教”が最後まで、栄える(存続)ことになったわけでございます。 とてもとりとめのない回答となってしまい、心苦しいのですが、ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をいつもありがとうございます。 ★ 偶像 ☆ は 仮りのすがたであると知っていれば なんともないのだと思いますが ややもすると常にその偶像崇拝に落ち入るのでしょうね。 あとは 《絶対》が この相対世界に介入するという想像を及ぼそうとすると またまたややこしくなります。偶像とは微妙に違いますが 《絶対》の仮りのすがたが 肉眼にも見られるかたちで 現われたという見方が出て来ます。奇蹟とも言いますが。 ★ absolute: set free; absolved ☆ この英語が 十四世紀から現われたということでしょうか? その前には ラテン語にその用法があったのでしょうね。 《無制約・無制限》 つまり《無限》ということなのでしょうか? 昔からこの absolute がなぜ《絶対》を表わすのかよく分かりませんでした。 ヘーゲルが用いたというのは 分かりやすいですね。ただし 世界精神は やはり 想像の産物であるという条件のもとに捉える必要があると考えます。または 仮りの表現であるとなります。 アウグスティヌスが 《すべての表象を超えたところ》として説明していたとは思うのですが。また 聖書の表現は この《絶対》にかんするところはすべて 比喩であり 寓喩( allegory )であると言っています。 たとえば《創造主》が おとぎ話であるというたぐいです。(ただし 《絶対》にかんしては この経験世界への介入という問題が絡んでおり 《おとぎ話》即《うそ》だと言いきれない部分もあるかも知れないとなります。《なぞ》ですね)。 絶対という漢語は 相対を絶つと言っているのでしょうか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん。どうか教えてください。 《絶対》ってa complete 、 b absolute、 c perfect ということばが連想されますが、b absoluteの訳語、輸入言語なんでしょうね。 こういう言葉が使われる前は、日本人はどんな言葉でどんなことを観念していたのでしょうね。 回答が書けなくて、逆質問になってすみません。 b absoluteという言語とその観念はどのように発達してきたのでしょうね。所謂る欧米などでは。 インドや中国、東南アジアではどうなのでしょうね。 欧米では、どうしてabsoluteということを観念したり、使わなければならなかったのでしょうね。 何に対して、どんな場面で使われたのでしょうね。 私もかの国の言語で、一応思想の文章を勉強しますから、これがよく使われていることを存じております。 超越、不変、超言語認識でしょうか。 それは実在でしょうか、超実在でしょうか。実在をもたらすものでしょうか。 それとも思弁の中の概念的想定でしょうか? 【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】というご質問ですが、日本人もやはり、欧米人と同じように、absoluteという言語と観念を駆使する必要がどういうところであるのでしょうか? こういうことを使い慣れた方がいいのでしょうか? それはどういう場面でしょうか? どうかお教えください。お願いします。(つまり私には、日常や精進と思考ではあまり年中は無用でして。万物が絶対であるのだから、それでいいではないか。なんです。自分もその万物であればいい。そういう自覚であればいい。それだけなんですが。)
補足
ご投稿をありがとうございます。 分かっているところを記します。 1. 君主が絶対であるという命題に対して 人間の存在が絶対であるなどということはあり得ないと明らかにすることができます。 2.ブッダは 絶対なる存在か? という問いを きちんとした定義にもとづき問うことができます。答えられないということは 思想として成っていないことを意味します。 3. たとえば ∞÷2=∞ という想定での話ができます。三位一体も ∞÷3=∞ ですからそれぞれの位格が やはり無限であり絶対であることを物語ることが出来ます。 4. ブディズムの内 浄土系は 阿弥陀仏が《絶対》に相当するということが明らかになります。 5. 仏性とは何ぞや? の問いに 絶対という概念で説き明かすことができるようになるでしょう。 6. シントウという信仰および思想についても 絶対という概念をあてはめて しっかりとした定義や説明ができるようになるでしょう。 7. 集団・組織としての宗教は その教義において 絶対の神か相対の神々かを明らかにしていない場合 それを明らかにしてやって 勘違いや欺瞞があればそれをも明らかにしていけます。 8. ですから 世界中の宗教について――その集団としての宗教は 個人の信仰の自殺行為なのですから もう論外ですが―― その基礎にある個人の信仰について すべて類型において捉えることが出来るようになります。という意味は すべてほんとうの絶対を信仰する場合には 神の名をどのように呼ぼうが 互いにまったく――その類型としては――同じなのだと分かるようになります。それらの間のいざこざが無くなるでしょう。 9. 社会のお二階さんであるアマテラス公民について 何をやっても間違いは出ないのだという神話を崩壊にみちびくことができます。絶対ではないという経験事実が明らかになるからです。 10. かように《絶対》は なぞです。 11. ただし ★ 《万物が絶対であるのだから、それでいいではないか。》――☆ これについては きわめてあやふやな命題だと考えます。《万物》ともし言うのであれば ○ 万物は 《絶対》に覆われ包まれている。想定からの・しかるべき想像のもとにならば 万物は絶対を 部分的に表わしていると言えるかも知れない。 ☆ といったところでしょうか。 ☆ あとは みなさんに回答を寄せていただけるよう 質問者からもお願いしたいと思います。 12. 《絶対》という言葉の由来は如何に? 13. おのおのの民族ないし言語について その歴史を交えて どんなことが・どれだけ 分かるでしょうか? 14. 日本語では 《あはっ》とか《まこと》とか言ったのでしょうか。よくは分かりません。おしえてください。
- heartmind
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>いまだにその無神論さをどう扱っていいのか ぎくしゃくしていますし >世界共通の言葉で語り得ていないという現実の問題があります。 ぎくしゃくしているんですか?知らなかった。 >ですから 《絶対》のことを・または《絶対》のこととして今から言いますよという場合 >この《絶対》という概念が人びとのあいだに行きわたっているならば >きわめて容易にコミュニケーションが取れる。こう思うんですが どうでしょう? 曖昧さについての問題提起でしょうか。 そうであるならば、曖昧さというのは、永遠に人間においてのテーマであるが為の詩的表現や芸術のエネルギーであり、叡智への渇望とも言えるのではないでしょうか。 四角四面という言葉を嫌うように、何が何でも全てが計算どおり行かないところが冥利なわけです。
補足
heartmind さん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔ブディズムは〕いまだにその無神論さをどう扱っていいのか・・・ ぎくしゃくしているんですか? 知らなかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 最近ようやく ブッダは 修行者の中の第一人者ではあるが すぐれて目覚めたひとたちの中のひとりであるに過ぎないという結論を Hidocchi さんと共有するに到りました。 ○ 【Q:ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5440380.html ☆ したがって ブッダは――ブディストらのあいだでは別格であるのですが―― 神ではない。つまり 絶対ないし絶対者ではないという結論にも達しました。でもまだまだ Hidocchi さんとわたしの二人くらいです。こう言いきるのは。ほかの人たちは このあとに出てくる《あいまいさ》を謳歌しています。 ですから 《絶対》の概念を理解して コミュニケーションをなめらかに進めるよう図ることは ★ 曖昧さについての問題提起でしょうか。 ☆ ではありません。《あいまいさ》とは 両義性ないし多義性のことです。相対世界における一つの意味ともうひとつの意味等々のあいだでの選択であるにしか過ぎません。(もしくは 選択をしないままに放っておくあそびです)。 ここでの問題は この相対世界を超える絶対の場を どのように捉え扱うか この問題なのです。 ここでも ヨコの関係とタテの関係とがあります。この場合には 経験世界におけるものごとすべてが――ひとをも含みつつ―― ヨコの関係です。アマテラス公民の問題は この経験世界における社会としての二階建て構造の一階と二階とのタテの関係ですが この《絶対》の場合には さらにそのお二階をも超えています。非経験・非思考と仮りに言ってみるところの絶対の場と ひととの タテの関係です。 つまり早く言えば 神とひととの関係のことです。これが 絶対という概念の問題です。 ところが この絶対の概念をわきまえていないと けっきょくのところ 経験世界の経験的存在としてのアマテラス公民こそが あたかも絶対者であるかのごとく 人びとは受けとめてしまう。そこにこそ アマテラス公民の《無謬性》という慣習が強固にはびこってしまう。 そういう問題にもなります。 ★ 四角四面という言葉を嫌うように、何が何でも全てが計算どおり行かないところが冥利なわけです。 ☆ 現実にどういう結果が出たにせよ アマテラス官僚の考えた政策は まちがいのないものであるというのが――つまりそのように《四角四面》の扱いになるというのが・つまり《全てが計算どおりに行く》というのが―― アマテラス公民の絶対化であり その無謬性の神話なのだと思いますよ。 絶対としての神を持ってきておけば この無謬性の神話は ただちに跡かたもなく 消えてしまいます。ふつうに戻ります。しかもその神は 仮りの想定なのですから 後遺症はいっさい出ません。こんな便利なものがあるのです。
- heartmind
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こんにちは。 一言で言うと、語るに落ちるからです。 何を言ってもそうじゃないですか。言った途端にそうじゃなくなる。でもそれは絶対なんです。絶対でない絶対ということです。
補足
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 一言で言うと、語るに落ちるからです。 ☆ ううーん。そういう性質のものなのですが でももしそういう論理であるなら ぎゃくに ○ 仮りの一言で言わないと 語るにのぼらない場合が出てくる。 ☆ となりませんか? 仮りの表現を想定しておくと ずいぶん話が楽にそして分かりやすくなる場合が少なくありません。 ▲ (司馬:《絶対》と日本人) ~~~~~~~~~~~~~~ ・・・山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての日本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。 いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうしてさらにぎゃくに言えば ブディズムは いまだにその無神論さをどう扱っていいのか ぎくしゃくしていますし世界共通の言葉で語り得ていないという現実の問題があります。 このことは 日本人のもう一方の特徴としての《〈空気〉の支配》という情況の論理(つまり めちゃくちゃ論理)がはびこることにつながります。 むろんおっしゃるように 一たん《絶対》ないし《神》を立てると その観念の支配に悩まされるという弊害も 他方で大きくあるのですが。あちらは二千年も悩まされて来たようですし こちらは 千五百年のあいだ 《のっぺらぼうの情況の中で 〈鶴のひと声〉が――〈空気〉をみちびくかのように――支配する》という・もう意識すらしないで《太平》の世の中で過ごすという《大いなる和》の社会が出来ているようです。 この後者は どうもそろそろその魔法が溶けて来だしたというところではないでしょうか? ★ 何を言ってもそうじゃないですか。言った途端にそうじゃなくなる。でもそれは絶対なんです。絶対でない絶対ということです。 ☆ ですから 《絶対》のことを・または《絶対》のこととして今から言いますよという場合 この《絶対》という概念が人びとのあいだに行きわたっているならば きわめて容易にコミュニケーションが取れる。こう思うんですが どうでしょう? もろもろの宗教の互いの差異が 難なく互いに受けとめられ得るようになるでしょうし あるいはそもそも集団としての宗教のもろもろの――絶対と相対のあいだの勘違いなどなど――欺瞞がただちに明らかになることでしょう。
- mmky
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☆ という見方も中国人の思想の一端を表わすでしょうね。どうですか? ○その通りですね。例えば、福沢諭吉の学問の薦め。「天は人の上に人を作らず。」ですから同じように孟子の論理も正しいですね。でもこの思想には「天」が存在するという思想が内在しているわけですね。君主は「天」にあらずということでしょうか。 ただ日本人にとって「天」が漠然ととしてか考えられないということだけでしょうね。西洋的に突き詰めて考えることを放棄していると捉えても良いと思います。これは精神的にまだまだ後進(浅学)という意味でもあるのでしょうね。 ☆ブディストらは そういうふうには思っていないでしょうね。つまり そこのところの食い違いがどうなっているのだろうという問いになっています。 これは殆どといってそのようには思ってないでしょうね。その理由は上記に同じですね。親鸞などは仏教はわからないけど「絶対仏」は存在するのだからそれにすがるという考えですが、むしろ西洋的で論理的ですよね。論語の「天」の解釈と同じように仏教でも浅学が蔓延してるのですね。頭はアミニズムでいくら論語を読んでも仏教経典を読んでもだめということでしょうかね。これは私見ですよ。
補足
そうですねぇ。まづはご回答をありがとうございます。 そうですねぇ。 まづ 孟子もスサノヲ市民を貶めて見ているところもあるかに思えます。 ▲ (孟子:出典?) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 恒産なくして恒心あるはただ士のみよくするをなす 民のごときはすなわち恒産なくんば因(よ)って恒心なく いやしくも恒心なくんば放僻邪侈(ほうへきじゃし) ますます道に遠ざかるを免れざるに至る。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし 先に引いた箇所を和訳でふたたび掲げます。 ▲ (孟子:尽心章句) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人民がもっとも重要で 土地の神と穀物の神である社稷はこれに次ぎ 君主はもっとも軽い。 だから衆民の人望を得ると天子になり 天子のお気に入ると諸侯になり 諸侯のお気に入ると太夫になる。 諸侯が社稷つまり国家を危機に陥れると 退位させられる。肥え太った獣を犠牲とし 清浄なお供えをささげ決まった時期に祭祀しているのに 干害・水害がおこったならば 社稷の神自体を新しい神に変える。 (尽心章句 下 貝塚茂樹訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《社稷の神》のさらに奥に《絶対》を捉えようとしている。のかどうか? まだあいまいなようにも見えます。 日本人もあいまいなようだとのお説ですが ぎゃくに日本人は 《表わさない(言挙げせず)》という基本線があるかも知れません。 朝 日向かしの空より昇る真っ赤なおてんとさまを見て あるいは西の山の端に沈みゆく夕焼けをながめて ――あはっ。(ああ!) と口をついて出た。そこに 絶対の神を見たかも知れません。見なかったかも知れません。これが 《もののあはれ》であり《随神(かんながら)の道》なのだと思います。 ◆ (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番) ~~~~~ おほきみは 神にしませば 天雲の いかづちの上に 廬(いほ)らせるかも ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という歌には 思想もしくは信仰が現われていると考えます。わたしの解釈では こうです。《世の中の通念は 大君が神であると言っている。なるほど それゆえ 雲の上・雷の丘の上にお住まいである。そうかもね》と。 作者の人麻呂には神について 絶対の概念があったからではないですか。《通念は 絶対の神と 相対の神々の世界とを混同している》と述べていませんか。人麻呂にとっては 神が《目に見えない。しかも心の目にも見えない》ことは当然のことだったのでは? (もっとも 外(と)つ国へ出かける友に向けては 別れのあいさつを言挙げぞすると言っていますが)。 要するに おっしゃるように ★ 君主は「天」にあらずということでしょうか。 ☆ でしょうし その《天》も 《絶対》にあらずということなのでしょうね。 ブディズムにかんしては 当事者や専門の方がたからも もっとどしどしことの内実を明らかにする見解を示してほしいと思います。 いまここでは ★ 絶対他力 ☆ は 《絶対》の概念に辿り着いているとわたしは思うとだけお応えしてお茶を濁しますが。
- mmky
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☆その思想の全体として どうなんでしょうかねぇ。あまり絶対という問題として 受けとめた記憶がないのです。 〇 そうなんですよね。孔子から始まる儒学(儒教)の本質を単なる道徳と勘違いしてしまうんですよね。儒教は上下の関係が明確ですから下の者は上を敬い、尊敬し従うという教えですね、これは考えればおのずとピラミッド構造になるのですね。なぜなら上に行くほど頭数が減ってきますからとどのつまり残った一人が必ず絶対的存在になってしまうのですね。例えば、上に10人残ったとしても民主的な合議制にはならないのですね。年の差なり徳の差なりで必ず上下関係が出来るという思想ですからね。そういうピラミッド型階層構造は北極星を頂点とする星ぼしの構造と同じですね。星がいくつあっても、つまり人類が何十億いても必ず頂点(北辰)たる者、存在あるいは教えがいる(ある)という思想ですから、儒教には「絶対」思想が含まれているのですね。孔子はそれを天や北辰に例えてはいますが、絶対神のようなものですね。 仏教では釈尊が「天上天下唯我独尊」といってますので、文字通り素直に取れば「絶対」なんですね。儒教も仏教も徳か悟りの違いはあれどピラミッド構造ですから必ず頂点が存在する教えですね。という意味でどちらも学んでいる学者が「絶対」を外すことはないはずなんですけどね。ちなみに神道でも創造神(トップ)と呼ばれるほどの神様はいるのですね。神道であれば天の御中主がトップでしょうか。これも神道では絶対の存在ですね。神道はやおろずの神で絶対神がいないという思想はほとんど素人の発想ですからね。素人の発想が蔓延しているということでしょうかね。
補足
mmky さん ご回答をありがとうございます。 でも どうですかねぇ。 ★ 星がいくつあっても、つまり人類が何十億いても必ず頂点(北辰)たる者、存在あるいは教えがいる(ある)という思想ですから、儒教には「絶対」思想が含まれているのですね。孔子はそれを天や北辰に例えてはいますが、絶対神のようなものですね。 ☆ そうですね。中国の思想として一貫しているとは言えないように思いますねぇ。孟子を出します。 ▲ (ヰキぺ:孟子) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90 ○ 民本 孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いた。王道によって自国の人民だけでなく、他国の人民からも王者と仰がれるようになれば諸侯もこれを侵略することはできないという。 ・・・ しかし、これは当時としては非常に急進的な主張であり、当時の君主たちに孟子の思想が受け容れられない原因となった。孟子は 「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」 (盡心章句下) つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。 これは晩年弟子に語った言葉であると考えられているが、各国君主との問答でも、「君を軽しと為す」とは言わないまでも人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分達の地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という見方も中国人の思想の一端を表わすでしょうね。どうですか? あるいはシントウは あれですよ。言挙げせずをむねとするでしょうから 神社のやしろには 何の神の偶像もないようですよ。奥の森や山が 神なのですから。はじめの三柱の神々も 独り神と成りて隠れたまひきとか言っていませんでしたか? 日本人の神々は つつましやかぢゃなかったですか? その《ゆづる》ところに その奥の奥に 《絶対》の神を見とおそうとしているのぢゃないですか? そんなふうに思いますよ。どうかなぁ。 ブディズムは 浄土系のほかは 無神論だと思いますよ。もっとも有神論も無神論も けっきょくは互いに同じであり そこには《絶対》を想定しているし 見ようとしているとは思います。でも ブディストらは そういうふうには思っていないでしょうね。つまり そこのところの食い違いがどうなっているのだろうという問いになっています。
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Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 以上から、”宇宙空間”についての確かな認識を否定します。 ★ ポアンカレ予想〔では〕 宇宙の形は概ね球体(=ドーナツ型のような穴のある形、ではない)と言えるのか・・・。”概ね球体なのではないか”との見解を示唆したということでございます。 ☆ ふうーう。やはり残念ながらついて行けませんでした。無念ですが 無理のようです。 わたしの関心は はっきりしています。経験世界であるなら 有限で相対的・可変的だということです。それについて経験科学は知ろうとするということです。それ以外は 《絶対》の世界としておくということです。 以前に ri_rong さんから 《無限》における濃度(アレフ)について 序数で考えると分かりやすいとおそわったのですが ただ 《無限》において 序数なら序数というふうに順序を特定しうるごとく なぜ表象することが出来るのかという疑いがなお残っていました。これについては 尋ね損ねたままでいます。 ですから 私にとっては 《表象しうる》と《表象し得ない》とで相対と絶対を区分するかたちが分かりやすいです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《一般的人民の場所・位置において、離れ、束縛のない位置》と解したのですがいかがでしょうか。 そして、これが "despotic(専制的な)"の意味につながっているのかと考えたのですが、いかがでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。《一般人民から》というところがミソでしたね。 ★ (確かに、”わがまま”とも解せられるのですが.....) ☆ これは solve < * se-lu =《みづからを‐解き放つ》というような類推から 《わがまま》を出してみました。《社会的に人びと一般から》という意味づけをすれば 分かりやすいと思いました。《わがまま》は あってもそのあとの状態でしかないと分かりました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔科学用語として〕愚生の経験から申しますと、同義の”complete(ly)” or "perfect(ly)"が用いられ、少なくとも、形容詞として一般的な用い方での"absolute"はほとんど見かけたことはなかったような気がします(ただし、absolute alcohol(無水アルコール)等、慣用化してしまったものは除きますが.....)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも 分かりました。新しい用法なのですね。ありがとうございます。 そうしますと ☆☆ 現行の意味のほとんどは ラテン語に見られる。:Most of the current senses were in L. ☆ この意味が不明になるのですが どうなのかなぁ。《絶対》という意味はなかったのですかねぇ。 ありがとうございました。やはり一歩一歩ですね。