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日本教について
○ 神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論 第五章 多神教は その一まとめとして一神教である § 5‐b 日本教について この項目では ヰキぺもまだ 書きかけである。短いので まづ ぜんぶをかかげます。 ▲ (ヰキぺ:日本教) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99 (あ) 日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。 (い) 奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。 (う) 山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。 (え) 山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。 (お) 奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。 (か) 奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この質問は 初めに還って 日本教をめぐるいろんな議論や実態をまづはあらためて集めてみたいというところから出発するものです。 その一端を たたき台にしてもらってもよいかたちで 提出します。 (き) まづ(あ)にかんして 次のように思われる。 おそらくオシエのない《宗教として われわれの意識下に潜んでいる》ということですが たぶんそれに対してただし これも同じく山本七平の言葉ですが 《空気》というかたちでなら そのクウキについて人びとはすでに意識するようになっており 自覚をもともなって来ていると考えられる。 KY はむしろ未来志向であるとすら考えられる。 (く) 《宗教として》というのは むろん 市民レベルのシントウか または国家レベルのシントウイズムかとしてだと考えられる。 【Q:§ 5 多神教は その一まとめとして一神教である】 【Q:男系による万世一系は 神武天皇以前は別となるのか】 (け) 奥山実の(い)や(お)に言う議論にくわしい方は おしえてください。 (こ) 芥川のほかにひとり思い浮かぶとすれば 遠藤周作の次のようなくだりです。 ▼ (遠藤周作:日本の精神的な土壌について) ~~~~~~~ ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本 と申す泥沼に敗れたのだ。 ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。 ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。 ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申 したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言 葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。 ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。 司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。 ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言 った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではな く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲 げてしまったのであろう。 基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。 ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支 丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では もう捕える気もない。 ――なぜでございます――と通辞が聞くと ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。 根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百 姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても 似つかぬものになっておる。 頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。 ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知 れぬものとなっていこう。 そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。 ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。 奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。 菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。 (遠藤週作:『沈黙』 IX) cf. 【Q:日本人は生ぬるいですか】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (さ) (え)でその《和の思想》は分かるのですが それが《神ではなく人間を中心とする》というのは 具体的にどういうことだと考えられますか? (し) (か)の《相対化》は けっきょく《貌がなく・のっぺらぼう》だという意味に受け取りますが さらにはどうお考えになりますか? (す) その事例になると思うのですが (お)の《日本は外来のすべてを日本化してしまう》については 宗教ということで けっきょく次のように《多神教のかたちを採った一神教》であると考えられまいか? 日本教・総本山 =シントウならびにシントウイズム 日本教・ブッダ派 日本教・キリスト派 日本教・マルクス派 日本教・新興宗教派(遺憾ながら) ・・・・ (せ) 民衆レベルのシントウであるなら それはむしろ集団としての宗教ではなく 個人にとっての信仰としてあって その神は いづれの党派の個別の人間にとっても同じひとつの普遍的な神であると考えられる。という見方を提出して来ていますが どうか? (そ) そのほか 自由にご見解をしめしてください。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 比丘達よ。の呼びかけだけがブッダのことばというのもどうなんですかね。 ☆ 呼格として古形が残ったというのは ふたつの可能性があります。 1. 全体として古形の何々語でしゃべっていた。けれども 呼格の活用形だけが文章に残っているという場合。 2. 古形の呼格を使ってしゃべっていたが あとは 古形は使わず すでにあたらしい口語で全体としてしゃべっていた。という場合。 ★ 坐禅とかやる人たちは、別にブッダのことばなんかわからなくても / 修行していればいいという結論になりそう。 ☆ これにもふたつの場合がありそうです。 1. ゴータマ・ブッダの思想に出来るだけ従おうとする立ち場。けれども 宗派として不本意にも違った道をあゆんでいるという場合。オシエとしては 原義に従おうとはしている。 2. すでにブディズムの主流からは自発的に確信犯として離脱したと自覚している場合。