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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:徳川時代の貿易について)

徳川時代の貿易について

このQ&Aのポイント
  • 徳川時代の貿易について深く探求するための区分方法
  • 徳川時代の貿易について、江戸時代を細かく区分する方法を考える
  • 徳川時代の貿易についての深い理解に役立つ書籍の紹介

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

私の「つたない」解説をお読みいただき、ありがとうございます。 >>時期を分けるとすれば、「鎖国令」近辺では区切らないほうがよいと考えてよろしいのでしょうか。 私としては、「あえて」区切るとすれば、 (1)寛永18年(1641)、オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移転。 (2)新井白石の進言で、宝永7年(1710)の武家諸法度の改正、そして、正徳元年(1711)2月、白石による朝鮮通信使の待遇の改め、あるいは、正徳4年(1714)2月の「密貿易禁止令」の発布。 このあたりでしょうか・・・。 ただし、 著者の東大教授藤田覚氏によると、 「幕府は、最初から鎖国を意図したわけではない。その状態が、たまたま200年ほど続いたから『なんとなく鎖国』だった」 と、考えた方が自然ではないか・・・とコメントしている。 から考えると、「鎖国」そのものが、自然体で「自給自足」をするようになった・・・とも考えられます。

acane1211
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり、1641年というのは継起に値する年号なのですね。 新井白石も方向性が途中で変更されているので、前期の貿易統制強化の部分がポイントと確信しました。 「鎖国」の考え方が近年変化しているのは文献をあさるとたくさんでてきますね。掲載していただいた東大教授藤田覚氏の文献も探して参考にさせていただきたいと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • fumkum
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回答No.5

江戸時代の貿易というと関心が長崎に集中しすぎる嫌いがあり、他の薩摩、蝦夷、対馬口についての研究が薄いように思います。朝鮮の釜山には倭館が設けられ、江戸時代を通じて日本人が多数居留していたことや、通信使の往来があったことはもっと注目されてよいように思っています。資料的には長崎関係のものがまとまっているわけですが、他の対馬、薩摩、蝦夷口との比較を通じて(蝦夷口などは資料が極端に少なく比較は困難でしょうが)幕府の貿易政策にアプローチするのも卒論としては一つの方法と思います。 勝手な意見ですので、参考まで。

acane1211
質問者

お礼

ありがとうございます! 私も、実際のところ参考文献を読む前、つまり日本史のみの知識だけだった時は、ほとんど薩摩、蝦夷、対馬口については重要視しておらず、私が学んだ高校で学んだ時期の教材としては、通商関係はあまり取りざたされていなかったのだと思います。 でも、参考文献を読んだのち、それらのかかわりのある文献を読むと、かなり長崎以外の、特に薩摩口についての細かい役割が重要視されているようです。 近年の研究では、今までとはまた異なる視点で、あまり「鎖国」にこだわらない貿易関係が挙げられているようです。 卒論のテーマが少し見えてきた気がします。 ありがとうございます!

回答No.4

田沼時代で一区切り、つけられませんか? 確か、彼はロシアとの通商を目指していたんじゃありませんでしたっけ。 失脚と一緒に計画も流れちゃったけど、北海道に調査隊を派遣したり、国の活動として本格的にやっていたと思うのですが、ダメっすか(笑)。 ただ単にあの時代と最上徳内が好きってだけの中年の意見でした。 失礼しました~。

acane1211
質問者

お礼

歴史好きの方の意見は大変貴重です。 ありがとうございます。 前期から始まる、琉球、朝鮮への進出から久しく、北方へ進出したのは田沼意次でしたね。 確かに、開国直前の大きな事件ではありますよね。 細かく区分するとすれば、そうかもしれません。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>もし、より細かく区分するとすれば ・初期、朱印船貿易興隆から鎖国の完成まで ・鎖国開始から新井白石の手前まで ・新井白石から海禁まで ・海禁から開国まで ・開国から幕末まで の5つくらいになるものでしょうか。 あなたの期待に沿えるかどうか分かりませんが、私なりの考えを記述してみます。参考になれば幸いですが・・・。 これまでの考え方:(通説) (1)「神の下では、万民が平等」という教えが、徳川幕府を頂点とした「封建社会の秩序」を乱しかねない。などの理由が挙げられていますが、戦国時代あたりから日本に「布教活動」を活発に行い始めたのは、主に、イギリスやポルトガル、スペインを中心としたキリスト教の中でも、カトリック系の宣教師たちであった。 (2)そして、確かに、私たちは、学校教育などの現場で「キリスト教徒」の進出に恐れて、日本が植民地化されるのではないか、と言う「懸念」から「鎖国」をした・・・と、習ってきましたね。 (3)しかし、長崎の出島においてはオランダとの交易は「許可」をした。 これには、オランダも植民地化を推進する国ではありましたが、一言で言うと、日本から「輸入」する「産物」が乏しかった。つまり、東インド会社などのように、当時、ヨーロッパが欲しがるような「香辛料」などは、日本の風土の中では、全くなかった。 さらに、金銀などにしても、当時は「銀」が主な流通貨幣でしたが、メキシコにおいて銀山の開発が本格化して、大量に輸出されたため、「黄金の国ジパング」とは言われても、その産出量は比較にならないほど少なかったためにスペインはいち早くメキシコとの交易に転じた。 そして、オランダはキリスト教の中でもプロテスタント系が多く、東インド会社を巡っては、オランダはイギリスに勝利をしイギリスは排除され、日本からも撤退せざるを得なかった。しかし、すでに、日本が戦国時代頃から布教がされていたカトリック系をプロテスタント系に改宗せよ、と言っても、すでに根付いてしまったものを覆すことは、非常に困難であり、無理だと考え、布教活動に対する「魅力」は何もなかった。 (4)そこで、布教活動をするよりも、交易による利権に目を向けた。 もう一つの考え方:(日本側) (1)どのような国の支配者たちも、自らの権力の「維持」「強化」を目指すものであり、海外との交渉で諸問題が発生するよりも、「閉ざされた社会」の方が「管理」をしやすい。 (2)当時の諸外国と言えども、中国や朝鮮でも同様に「閉ざされた社会」であり、例えば、明にしても、朝貢以外を排除し、中国人の海外渡航を禁止している。 (3)幕府としては、「開国」することにより、日本の諸藩が貿易による「財力」や「兵力」の拡大を強く恐れた。 (4)ただし、こうなると、諸外国の「情勢」が何も見えなくなって、いわゆる、「独裁国家」になるため、幕府権力だけでは日本を「独裁的」に統治する力は、まだ「完全」とは言えず、とは言っても、幕府権力という独裁的立場を確立するために、「布教活動をしない」という約束のもとで、長崎の出島のみでのオランダとの交易を許可した。 そこには、日本の諸藩を介入させず、幕府だけが「富」と「情報」を独占するためであった。 しかし、幕府の力が、まだまだ弱いことを印象付けたのは、寛永14年(1637)10月25日より発生した「島原の乱」では、幕府軍は苦戦をし、オランダに依頼をして、海上から原城への砲撃をさせています。 (5)「鎖国」をする・・・と、言うことは、とりもなおさず、国家の中だけで「自給自足」をすることになるわけですが、秀吉の頃からは、日本国内でも「灌漑」「治水」事業が発達して「新田開発」なども盛んになった、また、「農業技術」や「農機具の発明」などで徳川幕府としては、「国内生産」「国内消費」だけでも統治できる・・・と、考え「鎖国」に踏み切った。 (6)やがて、幕府権力も充実してくると、海外との戦いでも、必ずしも「最新の兵器」だけで勝てるわけもなく、「兵力数」や「食料の補給路」で、さらには、戦国時代としう戦いにおいての「戦略」や「戦闘技術」では、幕府は諸外国に対抗できる・・・と、考えた。 これには、秀吉が朝鮮出兵で「補給路」を絶たれて敗北した経験が、そうした考えとなった。 従って、徳川幕府としては、「鎖国」をすると同時に「海外進出」には一切目を向けていない。 寛永12年(1672)6月25日、幕府評定所の話し合いで酒井忠勝は、 「我々は、他の人の奉仕を受けることができるかぎり、日本の船を国外に渡航させる必要はない」 との諮問を出している。 (7)幕府は、一気に「鎖国」をしたわけではなく、徐々に発令していった。 *慶長17年(1612)、キリスト教禁止令を出す。 *寛永10年(1633)、奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止。 *寛永12年(1635)、日本人の海外渡航と帰国を禁止。 *寛永14年(1637)、島原の乱。 *寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航を禁止。 *寛永18年(1641)、オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移転。 (8)また、「鎖国」とは言っても、「四口(よつのくち」と呼ばれて、 *中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。 *中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。 *中国やオランダから長崎へ、そして、幕府への路。 *蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。 が、開かれていました。 しかし、薩摩藩や対馬、松前藩には「過大な」「輸入税」を課した。 例えば、松前藩には40%位の「関税」を課した、と言われています。 「鎖国」という言葉について: (1)ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが江戸旅行をして、帰国後に書いた「日本史」(1712刊)の中にある、 「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、また、此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」 と、いう一文を、蘭学者である志筑忠雄(しづきただお)が享和元年(1801)「鎖国論」において初めて使用した「造語」である。 (2)しかし、嘉永2年(1849)に成立した「徳川実記」では、寛永12年(1635)の措置を「海禁」と書かれている。 (3)近年、「鎖国」という言葉は、研究者の間でも使われなくなってきており、学校の教科書などでも、山川出版「新日本史」では、本文中には一切「鎖国」という文字は出てきていない。 (4)著者の東大教授藤田覚氏によると、 「幕府は、最初から鎖国を意図したわけではない。その状態が、たまたま200年ほど続いたから『なんとなく鎖国』だった」 と、考えた方が自然ではないか・・・とコメントしている。

acane1211
質問者

お礼

ありがとうございます。 確かに「鎖国令」は家光のころ、5回にわたって出されていますよね。 また、同時に糸割符制なども時期によって出されたり出されなかったり その後、18世紀になり新井白石による貿易港の改定(貿易制限強化)による国内輸入代替化の推進までの間、「鎖国」といえど密貿易は行われていました。 時期を分けるとすれば、「鎖国令」近辺では区切らないほうがよいと考えてよろしいのでしょうか。

回答No.1

貿易視点でいくとするならば、17世紀に於ける英蘭の貿易戦争を調べる必要があると思います。 何故、日本とヨーロッパの貿易はオランダだけだったのか?

acane1211
質問者

お礼

ありがとうございます。 私の認識によれば、開国するまでは日本は基本的にオランダに対する貿易もそうなのですが、中国の絹織物、こちらに重点を置いていたように思いますが、それに関しても、英蘭戦争をみていくべきでしょうか。

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