「龍樹」(ナーガールジュナ)や「世親」(ヴァスバンドゥ)は、音訳ではなく、意訳です。
仏教学やサンスクリットを学んだのはもう随分前ですから記憶があやふやですが、「ナーガールジュナ」の「ナーガ」は「龍」「蛇」の意味です。
「ナーガールジュナ」は「龍樹」と言われることが多いのですが、他に「龍猛」や「龍勝」と訳されている場合もあります。この場合、「猛」とか「勝」というのはどちらも「すぐれている」という意味合いですから、「アルジュナ」はそういった意味を持っているはずです。ただ、「樹」の意味があるのかどうかは失念しました。「樹」は「じゅ」で「ジュナ」の音に近いので、「龍樹」は後半の「アルジュナ」の部分だけ音訳かもしれません(そういう例もたくさんあります)。
さらに、「ヴァスバンドゥ」の方も「世親」が一般的ですが、旧訳では「天親」です。
先に訳した者勝ちというなら、今も「天親」が主流であるはずですが、今の主流は「世親」です。
ということで、早い者勝ちというよりは、より“人口に膾炙した”経典に採用された訳が現在に流布しているという方がいいでしょう。
ちなみに、「龍樹」」(ナーガールジュナ)の音訳は「那伽閼剌樹那」「那伽阿順那」などがあり、「世親」(ヴァスバンドゥ)の音訳は「婆藪槃豆」「和修槃頭」などがあります。
さらに仏弟子の「富楼那」などはサンスクリット「Purna」の音そのままを漢字に直している音訳です。意訳すると「満慈子」や「満願子」などとなるようです。
仏さまで言えば、「阿弥陀仏」も、「Amitayus」あるいは「Amitabha」の音訳です。でも、こちらの場合、「無量寿仏」「無量光仏」という意訳も流布しています。
では何故、意訳で表記される人と音訳で表記される人がいるのかについては、謎です。
これまで連綿と伝えられてきた“伝統”というしかないと思います。
ただ、一つ、これは私の全くの推測ではありますが、宗派の中で重要視されている人物には「意訳」で表記される人が多いような気がします。
十大弟子は、一人一人、宗派の中で“教祖的”な位置付けをされている人はいないと思いますが、世親は唯識(法相宗)などでは“教祖的”な位置づけになっています。
また、意訳で表記される人は、総じてサンスクリット表記が長く、漢字にすると5文字以上になってしまう人が多いように思います。長ったらしいと書くのも言うのも面倒ですから、意訳されたのかもしれません。ただこの説ですと、音訳を短縮する場合(文殊菩薩=文殊師利〔manjusri〕菩薩の略)も多々ありますので、論拠としては弱いのですが。
と、長々と書いてすみません。
少しでも参考になりましたら幸いです。
お礼
ご回答有難うございます。 大変参考になります。 >「樹」は「じゅ」で「ジュナ」の音に近いので、「龍樹」は後半の「アルジュナ」の部分だけ音訳かもしれません(そういう例もたくさんあります)。 私も龍樹は「意訳かなあ、でも後半は音訳っぽいなあ」と思っていましたが、両者の混合があるのは知りませんでした。 >音訳を短縮する場合(文殊菩薩=文殊師利〔manjusri〕菩薩の略)も多々あります これも知りませんでしたが、音訳したつもりが思いのほか字面もハマってしまい、更に少しすっきりさせたくなるというのも分かる気がします。 おもしろいですね。