坐禅 仏教でいう悟り
数年前から神経症(対人恐怖症)になってから仏教に関心をもちました。今では坐禅が一番近道であり、むしろ神経症の解決だけではなく全ての迷いの解決策ではないのかと思っております。だから神経症になったのはむしろ幸運なのかもしれない。
悟りなどというとなにを寝言をと言われる方もいるかもわかりませんが、私は古来から先人が証明してしてますので(先ずはお釈迦さん)あると思います。
それは全く神々しいものではなく、輝かしい世界が現前するのでもなく、ああそうかなるほど!という気づきのようなものだと思います。いくら理屈で説明しても理解できるものではなく坐禅によって悟れるものだと思います。お釈迦さんだってただの歴史上の人間です。2,500年ぐらい前のインドらへんに住んでいたただの人です。達磨さんだってただの人。道元さんだって良寛さんだってただの何年か前にいた日本人ですね。だからね、誰でもできると思うんですよ。悟りなんて言葉がちょっと日本人には胡散臭く感じることもあるんでしょう。私もそうでした。そして今は曹洞宗では坐禅しても何もならない、坐禅が悟りだといってますね。そんなことあるわけないですよ。そんなことお釈迦さんや先人たちが命がけで伝えてきたと思いますか?私はそういう人はただの言い訳としか思えません。または精神安定の為になどと。。そんなものは医者が処方してくれる薬のほうがよっぽど簡単でいい。お経を意味も解らずありがたがったって何にもならないと思うし、先人に笑われます(号泣されます)悟った人は現代にも少なからずいます。坐っている姿が悟りである。などと曹洞宗本部が言ってるから、永平寺の一番偉い坊主が言ってるから正法だなどあまりにも安易だと思います。曹洞宗は改めたくとも、本当のことを説ける人が少なすぎる。世襲坊主の集団でしょうか。それでもまだ坐禅が悟りだというなら、仏教を名乗るのはやめて、坐っている姿が悟り宗に改宗にしたほうが良いと思う。これじゃあ折角苦労されて伝えてこられたお釈迦さんや先人達に。
私のように思われている方いらっしゃいますか?
お礼
さっそくのご回答をありがとうございました。
補足
アンベドカル氏の側近の息子さん、サンガラトナ・マナケ氏だったかもしれません。 9歳のとき比叡山に留学。15年間修行した後、1985年帰国、日本仏教の普及をしています。 留学については、佐々井秀嶺氏の推薦であったようですが、アンベドカルの運動50周年以降でしょうか、ピタリと、お互いの記事にお互いのお名前がでなくなっているようです。 http://www.amazon.co.jp/%E6%B3%A2%E7%80%BE%E4%B8%87%E4%B8%88-%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E3%81%AB%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%BE%A9%E8%88%88%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A4%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BA%BA%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%83%A7%E3%83%BB%E5%A5%AE%E9%97%98%E8%A8%98-%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%8A%E6%B3%95%E5%A4%A9-%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%82%B1/dp/4393133536/ref=sr_1_1/503-7466826-2480701?ie=UTF8&s=books&qid=1173007453&sr=8-1