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多少の摩擦を許容して 人とかかわる心構え

100%全てを分かち合える、何の秘密もない関係 そんな関係を、誰か一人とでも持てたら理想だと思いますが、現実はなかなかそうもいきません。 100%の信頼関係は、神に求めるとして、 現実的に、みなさんはどのぐらい、周りの人と心を分かち合っていますか? または、現実的な理想(へんな表現ですが)ではどのぐらいだと思いますか。 たとえば、夫婦、友人、家族、仕事仲間、趣味仲間など 一人一人の人と、別々部分のの心の分かち合いをして、人はバランスをとっていると思ったので、参考にしたくて質問しました。 いま現在、自分は心の深いところを分かち合える相手がほとんど居ません。 ちなみに独身、恋人もなしです。 教会に通うキリスト教徒ですが、すべて鵜呑みにはできず、 自分なりの信仰について分かち合える人を特に必要としてます。 自分が拒絶されることや、人をコロッと信じて裏切られるのが怖いこと、また相手の考えの押し付けに合うと、こちらは尊重しているだけなのに相手は図にのって自分を思い通りにしようとしてくることがあるからだと思います。 そうやって人との摩擦を起こすのを怖れるあまり、人との接触そのものを薄くしてしまう傾向にやっと気づきました。 おそらく、私は自分にきびしい(良心にしたがう)タイプなので、相手にもそれを求めて、それがダメなときにすごくガッカリして、もう期待しないためにそうするのだと思います。 対策をアドバイスいただけると助かります。 お願いします!!

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回答No.4

前提となる考え方が自分を縛ります。 人間関係は上手くいくことが普通のことだと思っていれば,上手くいか なければ自分を責めたくなる気持ちが強くなります。 人間関係は上手くいかないことが普通のこと,そう思えることで気持ちは 少しくらいは楽になるでしょう。 そしてそこから学べばいいのです。 そうすれば自分が少しは成長できるし,それを諦めずに学び続ければ 見えなかったことも見えるようになるはずです。 時間をかけてすぐに結果を求めない。 失敗や間違いが教えてくれることを大切にすることです。 摩擦を楽しめばいいのです。 摩擦からでも学べることがあり,その発見は自分を育ててくれます。 何かが自分を救い出してはくれません。 自分の成長が自分を救い出すのです。

kanakyu-
質問者

お礼

hamakkotarouさん深いアドバイスありがとうございます!! >人間関係は上手くいかないことが普通のこと, なるほど! 全然そうおもっていませんでした。 30すぎましたが、高校までは孤立してて、大学デビューです。 一人は、思い通りでしたので、ある意味楽でした。 その頃の潜在意識があるのだと思います。 >時間をかけてすぐに結果を求めない。 20そこそこの時は、短気で仕方ありませんでした。 肝にめいじて生きていきます! >摩擦を楽しめばいいのです。 これが苦手ですね・・それくらいなら一人で・・と弱腰ぎみです あと、自分は相手と近くなるほど、相手にあわせすぎでした。これも親との関係の投影かもしれません。 自分は疲れて、相手は居心地よい関係でした。 いまは意識して、自分を出すようにはしてますが、条件反射なので大変。もう不要の習慣ですので、地道に要矯正&訓練中です。 うちの父は、失敗を嫌い、チャレンジしない人でした。 友人ナシ、母親との関係もダメで、 わたしや母にも、友人と仲良くするな、信用するな、ひどい目にあうぞ、と言ってました。 父の無意識の影響もあるのかもしれません。 >自分の成長が自分を救い出すのです。 うむ~その通りです! 人間関係そのものに救いを求めていては、期待がはずれますね。 いろんなものに救いを求め、失敗してきました。 20前後まで、メチャメチャ飢えてたんだと思います。 おなかがすきすぎて、毒入りかどうか、確認なんかしてられない、 パクッ と食べちゃう、的なところがありました。 痛い目にあってきたので、学びは大きかったけど、 失敗には疲れてきて、チャレンジ自体に弱腰ぎみです。 失敗とかうまくいかない状況を楽しめるくらいになれたら、 それこそ人生楽々だと思います!! その点についてはまだよくわからないので、 具体的な考え方や、経験談など、 よろしければ再度教えていただけると助かります!! 感謝

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回答No.7

回答へのお礼ありがとうございます。 人はあまり気付いてはいませんが常に他人の気持ちをコントロール しようとします。 自分が他人からの支配を受けていると感じながら自分が他人の気持ちを コントロールしているのです。 他人に合わせるということは他人が気分を害することをさせないように することです。 他人は気分を害することであなたを支配下に置き,あなたは他人の気分を 良くしようとコントロールするのです。 つまり支配し合う関係ということができると思います。 それはお互いを監視し合い自由な関係にはならないということです。 誰かが間違ったことや失敗をしないか監視していれば常に自分のこと よりも他人の行動が気になります。 そのような状態では自分のために何かをするよりは他のための何かを したくなるでしょう。 そうすることでお互いの成長を止めることになるのだと思います。 成長をするには失敗や間違いをすることをお互いに認めあい監視し合う ことをやめることです。 勿論相手にその意思がなかったら放って置くしかありませんが。 自分を自由にして,他人も自由にする。 それは,自分や他人に失敗や間違いをさせてあげられるようになることです。 だからといって、何も考えずにやった方がいいということではありませんが。 一人でいることを楽しめることは、他人といることも楽しめることです。 上手くいかないから一人でいるのは楽しんでいるのではないと思います。 一人でいることを楽しめるように成長が出来れば,様々な問題は解決できて いるのではないかと思います。 他人の気分が悪いならそのままでいさせてあげる。 誰かの中で起きている感情を誰かがコントロールすることは出来ないのです。 本人の考え方や物事の捉え方を変えることでしか感情はコントロール できません。 それは自分でも同じことです。 自分の考え方や物事の捉え方を成長させることが唯一の解決策だと思います。

kanakyu-
質問者

お礼

おお~hamakkkotarouさん、また深いアドバイスをありがとうございます。 >成長をするには失敗や間違いをすることをお互いに認めあい監視し合うことをやめることです。 >自分を自由にして,他人も自由にする。 その通りですね 頭では自分もそうしようと考えています。 長年の習慣を変えるのには時間がかかり、 変えたつもりでも見落としがあったり、 別の形で出てきたりするのだと思いました。 >他人の気分が悪いならそのままでいさせてあげる。 そう自分を習慣づけていきます。 「私の機嫌が悪いのはあなたのせいよ!」と八つ当たりする人や 「私をなぐさめないなんてひどい人ね」というそぶりをする人 それが、自分の親でした。 昔子供だった自分は、生きるためにそれを受け入れて親に尽くしてました。 長い訓練の末、習慣・条件反射にまでなってしまったようです。 が、相手の問題だったのですよね。子供にとって、親の言葉は神の言葉も同然ですが、親も未熟な一人の人間だったということですね。 逆に考えたら、私はそんなことを言ったら自分が恥ずかしいです。 あきらかに本人の問題です。 そこで気づけたらよかったですが、気づきませんでした。 親に似た人に会うと、まだ胸が痛みます。 それは、相手をコントロールする気持ちが自分にあるのですね。 彼らが彼らの道を行き、私が私の道を行くには、 親に似たタイプの人は、多めに距離を置くしかないのかもしれません。 そうでないタイプの人に対しても、それなりの距離感をつかむことが大事だと思いました。 独り言のように語ってしまいましたが、気長に対応していこうと思います。 親身になって回答くださり、本当にありがとうございます。

  • mintarou1
  • ベストアンサー率30% (22/73)
回答No.6

. 質問者のkanakyu-さん 回答者とのやり取りを読んで、あなたが悩んでいるのは、宗教的な問題ではなく、「対人恐怖」ではないかという気がしています。 対人恐怖をご存知ですか? 詳細は、以下のwikiを見て頂くとして、概略は、人前で緊張が強く、人間関係を築けなくて苦しむ症状です。 原因は、本人が人間関係の形を頭の中で作り出し、「ねばならない。」の気持ちで人と接するからだと言われています。 具体的には、「人前では、堂々としなくてはいけない。」「恥ずかしがっては、いけない。」「人に笑われてはいけない。」「人から、劣っていると思われてはいけない。」等の頭の中の(理想の?)形に現実を持っていこうとするが、例えば「恥ずかしい」という気持ち(自然の心の働きなのに)、それを抑えようとして抑えきれず、苦悩する症状です。 心の自然に逆らっている為の障害とも言えます。 対策としては、心の自然に従い、恥ずかしい時は恥ずかしいという気持ちを抑えず、そのまま恥ずかしがる。ということなのですが、長い間染み付いている、心の条件反射なので、どうしても、やりくりしてしまい、心の自然に従えず、葛藤してしまうんですよね。 (人を楽しませるために、自分の馬鹿さ加減を話して、笑いをとる。という事ができれば治るんですけどね) 対人恐怖は、自分も長いこと悩んできたので、言いたいことは山ほどあるのですが、外れているといけないので、このぐらいにしておきます。 対人恐怖の治し方は、下のwikiの中にあるように、森田正馬博士が、そのからくりを解明し、精神療法の道を開きました。 興味があれば、「対人恐怖の治し方・森田正馬・白揚社」を見たらいいと思います。 wikiの対人恐怖を貼っておきます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E4%BA%BA%E6%81%90%E6%80%96%E7%97%87 .

kanakyu-
質問者

お礼

おお、するどいご指摘ありがとうございます。 ドキッとしました。 自分は20そこそこの頃、かなり対人恐怖で悩んでましたから。 ずいぶん癒されたとは思っていましたが、 昔とは違う形で出てくる潜在的な部分があるのだと思いました。 対人摩擦への恐れ ですからね 今の状態は。 自分の親から、なんでもないことにイチャモンつけらる日々だったので、他人から適当なイチャモン(批判)つけられると、それだけで自分が生存の危機を覚える条件反射だと思います。 いやはや本当に、摩擦をたのしめるくらいになろうと思います。 コツは少しばかり見えてきましたので、希望はあります。 うちの親みたいにイチャモンつける人は、自分に合わせて欲しいと主張しながらも、ホントは自分に合わせてくれない方がありがたいんです。 感謝したり尊敬したりすると、ずいぶん喜んで丸くなりましたから。 怖れても、自分が疲れるだけですからね。 自分の脳内では、批判される→生命の危機 という思考回路ができてるので、これを忍耐強く新しく組みなおして行こうと思います。 ただの古くなった不要の習慣ですからね。実体はありませんから。 抵抗するだけ苦しむ、というのは、もっともだと思います。 そこんとこ、肝に銘じておきます。 お知恵をお貸しくださり、ありがとうございました。

回答No.5

 http://okwave.jp/qa5415809.htmlでは長文になりました。  あまり無批判、大雑把もいけませんがまぁ人とは食い違いあり、自分の意図や思い、或いは期待や画きは外されるのだと思っています。  それが自分のせいか、他人のせいか、しょうがないですね。    でも私たちは誰しも人の中で生活するしかないではありませんか?  中国や日本の隠者でも、“鳥獣が生活の仲間になるとはいえない”ともいっていますが。  そしてまた別に、“大聖は市井に隠る(偉大な隠者は町の中で、そ知らぬ顔で生活しているものだ)”というのもあります。  そして人に対して言ってはいけないのでしょうが。  〔大河は細流を拒まず、大海は塵を択ばず〕というのもありますよ。  細い川をたくさん受け入れられる、深い川は自己意識を掘削して、ごみを取り、川を深くするのだそうです。  これはSelf-Realization Fellowshipで教えていますが。  http://okwave.jp/qa5415740.html、で私も関連の質問を出しています。  まぁ人間ってみんなそうなんですよ。  いえ“どうなんです?”って。  はい、こちらで外から見ているのと、その人として内部で生きているのとちょいと違う事があるんでしょうね。  だから、受ける事から開始するのでしょうか?  でも“水清ければ魚棲まず”っていう忠告に対して、“そんな忠告は要らない。人間は清いということが大事だ。魚なんか棲んでもらわないで結構だ。いや魚なんか棲んでもらっては困る”と、私たちの恩師はお祝いの会で上機嫌でスピーチされました。禅の僧侶で大学の教授でした。  しかし非常に暖かく、多くの人に慕われ、受け入れておられました。  巧まないユーモアが思い出に残っています。偉大な隠者でした。  孔子とは誰の事かとおもいきや。  おらが隣の丘のことか。 (孔子=仲尼=孔丘)

kanakyu-
質問者

お礼

krya1998さん、ありがとうございます! さっきはホント、すみませんでした!! ○大海は塵を択ばず 海は塵のようなつまらないものでも、これを嫌うことなく受け入れて飲み込んでしまう。度量の大きな大人物が、よく人を受け入れることをたとえていう。 すばらしい格言ですね。今の私に有用なものだったと思います。 人間関係だけでなく、 都合の良いことがあっても、悪いことがあっても、 超然としていられる、そうあるべく意志を強く持ち、 この世に夢中になり過ぎない、 そういう心構えで、よいのでしょうか? 私は31歳ですが、20前後のころは、木の葉のように風にふかれる、頼りない心の持ち主で、その分小さなことで余計に苦しみもしました。 最近では、出来事には前よりも随分動じなくなってきました。 ですが、人間が絡むと、私は動揺します。 先の質問の件も、やはり人間が絡んでいるから、心が乱れてしまったのでしょうね・・ 目をそらさずに、私の動揺の正体を見ることが出来たとき、どちらの 質問も本当に解決する気がします。 今の私には、そこに至るまで段階をふむのがふさわしいように思えます。 また、人様の力をお借りするのが下手な私は、いまこそそのことを学ぶ時だ、とも感じてます。 直観にしたがって生きるって、ホントに気持ちいいです!!

回答No.3

 kanakyu- さん No.1です。  具体的な  ★ 対策  ☆ ではありませんが 人間と社会についての基本的な考え方(理論と言ってもいいと思います)をお伝えしてみます。これをご自分の中でしっかりとつかまれるなら 対策は臨機応変に自由に打って行かれると考えたからです。  【Q:悪は 存在しない】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  ☆☆ (その趣旨説明から) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。   ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。   ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。   なお    ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。   ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。   ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。    ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【Q:究極の悪とは――存在について――】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html  ☆☆ (その趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。   ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。   悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。   ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。   つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。   さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。   これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。   言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。   ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。   ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。   これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。   果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。   * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 具体的にどうしたらいいのかわかりません。  ☆ にお応えしようとこころみました。まだ筋違いだったかも知れません。  (これらの質問者は 筆名がなくなっていますが わたしです)。

kanakyu-
質問者

お礼

自分なりにがんばってみましたが、頭パンクしそうです。 余裕ないので、せっかく出してくださった前の質問もまだ読んでません。すみません。 なんとなくわかったのは、 存在=善 善の欠如=悪 悪=存在しない 死=悪 死が死ぬ=善=不死?  死が死なない=究極の悪=死=存在の欠如がある  なので、もどって 存在=善=自分が存在する=善 ということでしょうか? 自分も、ウソは善の欠如=悪だと思います 虚言といいますもんね 結論としては、これですよね。 >《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば  >初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。 ムムー 難しかったですが~ ある意味究極の救いだということですね 自分にはかなり遠いみたいです。 一度にそこへ行くのは無理だとわかりました。 ですが、ずっと念頭においておこうと思います。 自分には、究極の救いを求めるまえに、中間目標的に、たとえ回り道になってしまっても、それをこなさないと究極のところへ到達できない何かが、まだあるようです。

kanakyu-
質問者

補足

bragelonneさん、再度感謝です!! ためになりそうなことがイッパイ書いてありそうなので、 しっかり読んでからお礼を書きますね そのぶん前後すると思いますが 取り急ぎ感謝!!

  • mintarou1
  • ベストアンサー率30% (22/73)
回答No.2

現在、同じような、悩みで質問を出している人がいます。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5415809.html そこを参考にしたり、質問者に意見を述べたりしては、いかがでしょうか? .

kanakyu-
質問者

お礼

mintarou1さん、ありがとうございます! あけてみたら・・私の質問でした!! あちゃー 同じように見えましたか。 マルチポストみたいに見えたらすみません。 あちらは信仰のことで、 こちらは別の切り口で質問してみたつもりだったんですが。 でも、とにかく、ありがとうございます!!

回答No.1

 こんにちは。  ずばりひとこと。  ○ へびのようにかしこく はとのようにおとなしく。  おまけです。  ○ 悪事に対しては子どものようでいていいですが 考え方においてはおとなになってください。

kanakyu-
質問者

お礼

bragelonneさん、ご回答感謝です!! どこかで聞いた聖書の一節ですね! 自分は幼稚なもので、具体的にどうしたらいいのかわかりません。 けど、困ったときには、それを思い出すようにしますね。