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奥州藤原氏討伐のときに落ち延びた藤原一族はいますか?
奥州藤原氏のことを調べ始めたばかりなのですが、 鎌倉勢が攻めてきてた時や泰衡が討たれた後、 一族はどこかへ(酒田湊以外)落ち延びていったと言うことはあるのでしょうか。
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津軽藩の藩祖・津軽為信は 奥州藤原氏の末裔と称しているので、いたかも(^-^)/ ・落ち延びたのではなく、鎌倉勢に臣従し、本領安堵された 藤原一族には、 藤原秀衡の四男・本吉四郎高(隆)衡 が、います。 現在の宮城県と岩手県の県境の「本吉郡」が、その領地です。 義経の首を鎌倉に運んだ人としても、有名です。 (梶原景時が、頼朝の時のように義侠心で 助命嘆願してくれたので、 景時死後、その一族を奥州に 招いたそうです。) ・藤原秀衡の従兄弟(2代、藤原基衡の子)で、 紫波の比爪に住んだ藤原俊衡の一族は、老齢のため不戦につき、 その後、源頼朝によって宇都宮の宮司に補され、現在も、栃木県に御子孫が在住である
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- ?橋 昌也(@fudousin)
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裏世界の噂ですが^^、、、泰衡は夷荻島(北海道)に逃げたという話ですよ。 金色堂には藤原三代のミイラが安置されているのは有名ですが、実は泰衡の首も置かれています。 楠木誠一郎氏の説によれば、これら四代の頭蓋骨を学術調査したときの眼孔の中心から顎の先までの長さが、初代清衡118mm、二代基衡129mm、三代秀衡137mm、四代(?)泰衡116mmだったそうです。清衡は東北人の経清と安倍頼良の娘(東北人)の子。基衡は清衡と北方平氏(京都人)の子。秀衡は基衡と安倍宗任の娘(東北人)の子。泰衡は秀衡と藤原基成の娘(京都人)の子という血縁事情を考えれば、泰衡の長さが、初代清衡よりも短い(=より東北人の血が濃い)ということはありえないそうです。 結論としては、泰衡の首は偽物であるということのようです。そもそも、比内郡に逃げ込み、頼朝に命乞いしていた泰衡を殺し、首を持参した比内郡の実力者河田次郎は泰衡(奥州藤原氏)の家臣ですし、泰衡の顔を頼朝軍のものはしらず、首実検を行ったのは、これまた泰衡の家臣で捕虜となっていた赤田次郎です。偽首だった可能性は十分にあります。 また、頼朝も偽首だと思っていた形跡があります。 まず、当時の死者に対する感覚として、首おけにいれたまま首を安置するのは不自然である。もうすこし、丁重に供養しそうなものです。そして、首実検後すぐに京に泰衡追悼の報告をしますが、それから二十日の間、平泉周辺を巡回しますが、その目的が明らかではありません。 まあ、あとは推測ですが。北海道に渡った泰衡は、それ以前に北海道に逃げていた義経一行に合流し、さらに渡海してシベリアを経由してモンゴルへとたどり着き、モンゴル帝国をつくりましたとさ。めでたし、めでたし^^
お礼
奥州藤原三代のミイラのことは知っていましたが、 泰衡の首があると言うのは知りませんでしたので驚きです。 で、科学的に調査されていたとは・・・。 わかりやすく興味深い御回答、ありがとうございました。
- kusirosi
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補足回答です(^^♪ はい、 梶原景實が鎌倉を 離れ流浪の途中、本吉郡に立ち寄った際 自領を与え、それを機に 梶原一族の生き残りを、領地に招き 住まわせました。 現在も、気仙沼市には 景時の兄である梶原景實が建立した 早馬神社の、現在の宮司さんを初め、 梶原一族が多数、住んでおられます。 http://hayama.jinja.jp/index.html
お礼
再度のご回答、ありがとうございます。 早馬神社のことは調べてありましたので、 本吉氏と梶原景實との関係もよく理解することが出来ました。 ありがとうございました。
お礼
大変わかりやすい回答、ありがとうございました。 実は、梶原一族のことを調べている最中でしたので、 名前が出てきて驚いています。 追って質問してしまってもよろしいでしょうか。 「景時死後、その一族を・・」とありますが、 景時の一族を奥州に招いたと理解してよろしいのでしょうか。 お手数ですが、再度お答えいただけたら幸いです。