NO3です。大事な事項を落としていましたので追記をいたします。
鎌倉期と江戸期では相続法がまるで違います。鎌倉武士は分割相続が原則でした。一門一家と呼ばれた宗家と分家の血縁的一族の集団の長を惣領(家督と言う場合も有ります。後世の跡継ぎ・長子の意味の惣領ではなく、宗家の当主の意味です)とし、それ以外を庶子と呼びますが、相続の時には惣領が所領を独占するのではなく、庶子にも所領を分ける分割相続でした。そのため所領が細分化されていく傾向がありました。しかし、一族は強い血縁的統制のの元にあり、惣領の命令・支配に従い、戦時は惣領が指揮官として庶子を率いて戦場に赴き、通常時には大番なども惣領が一門を率い、先祖や氏神の祭りなども惣領の指揮下に行われています。
幕府も命令を惣領を通じて下し、荘園・公領の年貢や公事の領主への納入も惣領が代表し、庶子に割り当て、惣領の元に一括して実施しています。
さらに、女子にも相続権があり、御家人・地頭となる事もできましたし、その例も多くあります。もっとも本人一代限りの相続である一期分(いちごぶん)とされるものも多く、また、軍役などの場合代人を出すことが普通でした。
このような分割相続も所領の細分化と困窮化を招いたために、鎌倉時代の後期から家督と財産を惣領が一括して相続する単独相続に移行し、庶子は嫡子に従属するようになります。南北朝の争いが長引いたのはこの時期に惣領制が解体し、宗家・分家共に独立し、それぞれの家で嫡子が全所領を相続し、庶子を従属させようとすることに庶子が反発し、嫡子の対立勢力に加担することにより自己の運を開こうとしたことも大きな原因の一つとされています。
余談になってしまいましたが、鎌倉の分割相続に対して江戸時代は原則として嫡子単独相続であり、女子の相続も原則的には認められていません。
またまた長くなってしまいましたが、参考程度に。