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文学部唯野教授
文学部唯野教授という筒井康隆の本を読みました。 なんだかエイズ差別みたいな表現がひどいところがあったり、えげつないという印象しか残りませんでした。 良心的なといわれる岩波書店からああいう本が出るのがまた不可解です。 そのあたりについて、まっとうな解説をお願いします。
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「文学部唯野教授」は小説、すなわち文学作品です。 文学作品の表現においては、作家が自身の思想をじかに語ることはほとんどありません。作家は虚構の登場人物や語り手を創造し、それらが発する言語によってあらわれてくる世界を、感じ、読み解き、味わっていくのが読者です。作者が何を表現しようとしたか、読者が何を読み取るべきかとかそういうことは、実に試験に出てきそうな問題ですし、試験の正解は一つとたいてい決まっているのが困ったことなのですが、何を読み取るかについては読者の観点次第であって、唯一の正解などはないはずです。ですから「不可解」「解説を求めたい」というのも批評のひとつです。 「文学部唯野教授」で教授が行う講義も、文学批評の理論を概括するものですし、T.イーグルトンの『文学とは何か』(岩波書店刊)という本(こちらは非常に評価が高い)では、講義とよく似た順序で話が進みます。おそらく唯野仁教授のネタ本でしょう。彼のことだから。……筒井康隆がネタに使ったのだろう、と言われるでしょうか。たしかにその次元もあるでしょうが、作者はイーグルトンになりかわって批評理論を解説したのではなく、唯野教授という人物が彼の授業であのように語るものとしてつくり出したのです。 ですから読者も、あのような唯野氏の授業を受けさせられてしまってばかばかしいなどと言うなら、種本でも読んで「唯野教授」を批評してみよ、というメッセージをどこかから聴くこともできるかもしれません。 えげつないという印象をお持ちになったのは、唯野教授や周辺の大学教員たちの世界のえげつなさだと思います。社会的には尊重される「大学教授」という肩書きと、学者の世界のイヤらしさの二重性をあんなドタバタギャグで書いたものが、岩波書店というお高くて堅い出版社から出たことも当時はある程度スキャンダラスでした。話が前後しますが、その頃、同社は「へるめす」という雑誌を出していました。学者や芸術家の真面目な論文が中心ですが、巻末小説としてこの「唯野教授」も連載されました。ここからすでに象牙の塔にこもった「ガクモン」を揶揄していたわけです。 簡単にまとめると、《小説をどう読むかの責任は読者にかなりある》という筒井氏の主張の一端ということで、パロディという表現を理解も享受もできない特定の評論家や学者の実態を書いて読者を笑わせることも一つの目的だったといえるのでしょう。
補足
すみません。文学論のところの理解はあきらめています。 私とはまったく門外漢で、間違って読んでしまったようなものでして。 そのせいで、えげつない物語だけ印象に残ってしまいました。 パロディはいいとしても、エイズ差別はいけないと思います。 小説をどう読むかの責任は読者にかなりあるというのは、ごもっともです。 私は責任をとらなければならないですね。 責任の取り方はじっくり考えてみます。