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クリスチャンと中庸について
どうおもいますか? わたしとしては、合いそぐわない単語同士に思えます。
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キリスト教の教義と、中庸…儒教の中の書物の一つですよね?自分は中身を知りませんが、儒教から出た陽明学「王陽明の論理」、これなら、多少成りとも、近いものも有ると思います。あくまで、個人的見解…キリスト者ですが。間違いなら、失礼しました。
- SOLAR_RAY
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クリスチャン=キリスト教信者ですか、それならそぐわないでしょう。 しかしキリスト者と中庸はどうでしょうか。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
<右の頬を打たれたら左の頬を出せ> これは、クムラン宗団の規則に載っているものです。 クムラン宗団の規則が書いてあるスクロールは、20世紀になり死海のほとりの洞窟から発見されました。 そこの書いてあった団体の規則の一つがこれでした。 これはどういう意味かというと、煩わされるな ということです。 相手にするな という教えです。 右の頬を打つということは、相手は手の甲で打ったことになり、手の平よりも強い侮辱がこめられたものなのだそうです。 侮辱をする相手に対抗するな 相手にするな という教えです。 これがクムラン集団の規則で、教えで、法であったわけです。 何故侮辱をする者の相手をしないのか。 推測つきますよね。 「ばーか ばーか ばーか」と自分を見下す者の相手をすることに価値など無い。 そういう時はかっとなりそうな自分を制御して、相手の煽りに載らない。 これが中庸です。 逆に相手が間違えたことを神が言ったと公言した場合、ちょっと勇気を持って相手の過ちを正すのがよろしい。 もし正さなければいくじなしになる。 いくじの無いゆえに損をする者は、勇気を持てばいいわけです。 間違えていることに大して、間違えであると言う勇気を持つ。 これが中庸です。 ドンキホーテのように、、こいつに突撃する果敢なヒーローだと夢想し勇気あるものだと示すために風車を巨人として突撃するものは、勇気ある者ではなく無謀な者です。 勇気の反対は、いくじなし ではない。 いくじなしの反対は、勇気ではない。 ほどほども中庸ではない。 そこそこも中庸ではない。 無謀なものは自分を制御し、いくじなしなら少し勇気を持つ。 これが中庸の意味。 他の方も言っておられる文書(コヘレトの言葉)を私も想起しました。 しかし、中庸はそれとも違う。 例をあげてみましょう。 2000年ほど前、ユデアはローマの属州となりました。 派遣された提督は反ユデアで、ユデアの人々を煽って馬鹿にしていました。 その煽りに憤慨するユデアの人々をなだめていたのが神殿の祭祀たちでした。 彼らはローマに高額の税金を納めることで、ユデアがローマに守られる形となるようにはからっていた。 しかし熱血党は、ローマ皇帝を神と崇めるなんてとんでもないという考えで、自分達は自分達の神だけしか仰がないという考えで、市民達を煽動してローマ兵をユデアから追い出そうとしました。 何代目かの提督がローマ皇帝の贈呈するという名目で、神殿の財宝に手をつけたとき、ついにユデア市民は怒り、神殿が汚されたとして、熱血党に引きずられる形で、ローマ帝国に蜂起しました。 又、神殿跡地にユピテルの神殿を建てると知ったときも蜂起しました。 ユピテル。 キリスト教は神をデウスと言いますが、ユピテルのことです。 このユピテルの神殿をエルサレム神殿の跡地に建てる計画があると知り、ユデアの人々はもう我慢ならないとして、メシア バル コクバに率いられ、蜂起したわけです。 ローマに勝ちました。 しかし、ローマは体制を建て直しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%AF%E3%83%90%E3%81%AE%E4%B9%B1 『ハドリアヌス帝はユダヤの不安定要因はユダヤ教とその文化にあると考え、その根絶をはかった。』 エルサレムに彼らの神殿がある限り、ユデア人はローマに反逆するとして、エルサレム神殿を破壊しました。 その時、神殿を破壊していいかの打診に許可をキリスト教の創始者パウロが出したので、神殿は徹底的に破壊され、多くのユデア人は炎につつまれ死んだわけです。 私にはユデアの人々が勇気があったのか、無謀だったのかを決めることはできません。 あなたは決められますか? キリスト教徒は、この一連の史実を間違いだとか正しかったとか決められるでしょうか。 エルサレム神殿の祭司たちは中庸をもってローマと和を保とうとした。 右の頬を打たれ、蜂起した。 神を最大限の侮辱しようとしたので、彼らは神を守るために戦った。 神を守ろうとしなかった方がよかったのでしょうか。 いずれにせよ 負けて神殿は破壊されました。 キリスト教はそこにデウスの神殿をいまだつくれていません。 何度かエルサレム神殿の再建計画はありました。 しかし、それをなんとしてでもさせないとしたのは、キリスト教ではありませんか。 建ってしまったら、どうなると考え、建設を妨害しつづけているのでしょうね。 ロスチャイルドですら建設できなかったので、金では再建できないようです。 何が足らなくて再建できないんでしょうね。 勇気でしょうか 節制でしょうか。
- sisocho
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そうでもないと思います。 中庸について哲学的に詳しく論じた箇所はないはずですが、聖書にはこんな言葉もあります。 「あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない」─旧約聖書 申命記5章32節。新共同訳。 「あなたは彼らの示す指示と下す判決に従い、彼らが告げる言葉に背いて、右にも左にもそれてはならない」─旧約聖書 申命記17章11節。新共同訳。 「善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう」─旧約聖書 コヘレトの言葉7章16,17節。新共同訳。 中庸の精神は聖書の中にも含まれていると思います。
- ratesu
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同意。
補足
申命記5章32節 神様が民の前に現れたけれど民は、死を恐れたので、モーセにお願いし、それを聞かれた神様が、モーセに言われたことですね。 申命記17章11節 神様がモーセ言われた、レビ人による裁きについて定めですね。 コヘレトの言葉7章16,17節 続編付き聖書を人にあげてしまったので、誰が誰に対して言った事なのか、分からない。