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子どもがひとりでポツンと待つ時に芽生えるものはあるでしょうか。
よろしくお願いします。 子どもがひとりでその場で待たなくてはならない状況になった場合、 その子の中で今までになかった何かが芽生えるとしたらどんなものがあると思いますか? 例えば、 親子で二人 車で出かけてガス欠になり、電話も電池切れ。 山道の中、父親はちょっと近くの町まで行ってくると、子どもの体力を心配して自分一人でその場を後にする。 本や携帯ゲームもなく、ただひたすら待ち2時間経過。 景色を見たり、半径15m位をウロウロするだけ。 そんな状況です。(究極的過ぎかもしれませんが↑、街中でも携帯ゲームもなく2時間位待つ場合でも結構です。) 要するに、自分ひとりになる状況です。 子どもの頃、ひたすら待った状況は誰でも1つ2つ記憶に残っていると思います。 そういう状況で、子どもが何かを悟ったり、発見したり、芽生えたりするものがもしあれば、 それは、どのようなものだと思いますでしょうか? ご自分の考えでも結構です。
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レスありがとうございます。 箇条書きを拝見した限りでは、きっと自立心が養われた良い出来事だったのではないでしょうか。 「見捨てられ不安」とは、よくパーソナリティ障害の原因として云われることです。 「言うことを聞かないと見捨てるよ」という暗のメッセージが悪しき影響を及ぼすということです。 これにより子供は例えば「強迫的に無理をして良い子を演じる、完全主義的な人」になったりする。 他にも様々なカタチがありますが。 ですから普段どういう親子関係であったか、で回答が変ってきます。 普段から見捨てられ不安を感じていた子供なら、このエピソードも又心の傷の一つにもなり得ましょうが。 >人は砂漠に行くと、初めて自分自身に出会うそうですが、 なーるほど。良い例え話を教えていただきました。有難う御座います。砂漠には何もありませんからね。 私の知っているもので、よく似ていると思われるのは、森田療法の入院時に最初にやる 「絶対臥褥(ゼッタイガジョク)」です。 洗面とトイレ以外は寝たきりで1週間以上を送るのです。食事は看護師や他入院生が運びます。 読書もおしゃべりも禁止です。何も気を紛らわすものがありません。 この環境では、自分と向き合うしかありません。逃げ場がないのです。 これで急速に心が展開して、例えば何年も不眠や神経性胃アトニーや勉強不能で悩んでいた人が、 それらが吹っ飛んでしまったと。一遍に治ってしまったと。こういうことが実際に起きるのですよ。 これも広い意味では、「自立心」に含まれるものとも思います。 物理的に端的に考えてみても、人はどうしても、一人っきりになってしまう状況というのがあります。 例えば実家から遠い地で一人暮らしを始めたとか。最初は友達も恋人もいません。 或いは又、子供はとっくに自立し、連れ添ったご夫婦のどちらかが亡くなり、一人になった人。 とにかく一人きりは嫌だという人がいます。時には繁華街をふらつき、酷くなれば酒やドラッグに 溺れたりする。ひたすら孤独を紛らわすためだけに。悪しきロンリネスたる孤独に沈んでしまった人です。 それに対して「充実した沈黙の中の孤独~ソリチュード」と呼ばれる孤独もあります。 一人きりでも充実している。その間、例えば読書などして自分を育てることができる。 これこそまさしく「自立」でしょう。自分の力だけで自分を支えて生きていけるのが「自立」です。 この心の基礎は、幼い時にも養われるものでしょう。 しかしやはり、できれば人間は一人でない方がいいです。 又例えば「自由」という言葉は、「不自由」という状態が有るからこそ存在し得る言葉です。 孤独を知ることで、人と繋がっていることの喜びを再認識することもできるでしょう。 一人でも生きていける。でもだからこそ、出会いや触れ合い、愛、これは尊いものだと思えるのです。 感謝できる。孤独を紛らわすために利用するがごとく、人を求めるのとは違うのです。 寄りかかるのとは違うのです。 >自分の身の丈を知る、というニュアンスのことは大切だと思います。 自己愛の肥大化を防ぐことにも繋がるでしょう。現実の今の自分の力を知る。 幼児特有の「オレはウルトラマンだぞー、強いんだぞー、キーック!」から卒業する。 これを卒業しないと、誇大な理想にとりつかれてしまう自己愛性パーソナリティが強くなってしまいます。 >大人が子どもに仕掛ける独りぼっちにさせる意地悪。 これはあまり有効ではない気もします。子供が「自発的」に、遠くまで走って行くのです。それを見守る。 子供は「こんなにお母さんと離れることができた」と、自分の力の発揮を喜んでいるはずなのです。 高いところから飛び降りる子供も同じです。こんなことが自分はできるのだと発見して、喜んでいるのです。 全ては自立心へ繋がるものです。 >でも、仰ったその親子の遊びの中で親が心配そうな顔をした時、 >相手を想う方への気持ちが芽生えないでしょうか。 まさしくそういうこともありますよね。そこが碎啄同時です。 微妙なところであり、絶対に何時もこれが正しいというものでもないです。 余りにも遠くに行き過ぎて、親の視界から消え、暫く帰ってこなかったとか。 或いは「あそこは危ないから行っちゃダメだよ」と約束している所に、子供が行ったとか(苦笑)。 そんな時こそは、心配そうな顔、否定的な顔をすべきでしょう。 でもその行為を、完全に否定することもいけないと思います。これも又微妙です。 約束を破ったとしたら、これはいけないです。しかし限界のところまでの冒険心というのは、 人間にとって時に必要なものです。ギリギリのところですよね。実に微妙です。 決して全てを否定してはいけないと思います。 何時かは既成のものを越えて欲しいという願いも又、親にはあるではありませんか。
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- tk1113
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みなさまの経験談を読んでいて感じたことを書かせてください。 待っている間に感じるものはやはり不安だと思います。 その中にプラスとなるものを得るとすれば いくつかの条件が必要ではないでしょうか。 まずは本当に待つことが自分にとっても 待たせる側(親)にも必要であるという事が理解できること。 これは言葉で説明できる年齢や状況もあるかもしれませんし、 説明などなくても本能的に感じる場合もあるでしょう。 もうひとつはお互いに信頼感があることでしょうか。 たとえば時計の針がここにくるまでに戻るよとか ここの数字が12・00になるまでには戻るよとか・・・。 大人が待てるのは先の見通しがつくとか 最悪自分で解決できるからでしょうから 今なら携帯でつながれるという安心感も信頼のひとつと なりうるのかもしれませんね。(まぁ子供の携帯所持についてはまた議論を呼ぶかもしれませんが、あくまでこういう状況の場合ということで)
お礼
だんだん、完全な孤独状態になりずらい世の中かもしれませんね。 そうですね。 例えば、ホームシックなんかも、空気みたいに当たり前に信頼していた親への絆を再認識させられる機会かもしれませんね。 確かに信じられるものが1つでもあれば、それを信じてプラスに作用する。 そんな気もしますね。 疎外感では、ダメなのか。。不安は。 ん? (見えてきたようなこないような。。) ありがとうございました。(笑)
- youchan37
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芽生えるもの… ネガティブなものなら、これはちょっとした心の傷となって残ってしまうかも知れないな、とか。 しかし「芽生える」という言葉は、ポジティブなものを指すことが多いですよね。 だとすれば「自立心」ではないでしょうか。 現場の状況、それまでの親子関係、子供の年齢、生まれ持った性格などによって違ってくるでしょうが、 うまく条件が整えば、「待つ」ということも自立心を育てることに繋がると思います。 碎啄同時(そったくどうじ)という言葉は、凄く良い言葉だと思うのです。 卵の中のヒナは、自分のくちばしで殻を破る。同時に、外から親鳥もくちばしで殻を破るのを手伝う。 親鳥の殻を破るスピードが速過ぎても遅過ぎても、ヒナは死んでしまうと。 よく「見捨てられ不安」を説明する時に云われることですが、 子供が公園を歩いていると。自分で行きたい方に向かって歩き、時々親を振り返って親の顔を見る。 この間行列に並んでいたら、まさしくこれをやっている親子がいました(笑)。 遠くまでだーっと走って行って、お母さんを見て手を振るのです。お母さんもニコニコして手を振る。 それで又だーっと戻ってきて、お母さんにしがみつくのです。それを延々と繰り返していました。 お母さんは辛抱強く、始終笑顔を絶やさず、それに付き合っていました。 もしこんな時「回りの人に迷惑がかかるから、止めなさい」とか「危ないからダメだよ」とか、 制限を加え過ぎてはいけないです。厳し過ぎても過保護にし過ぎてもいけないと云います。 子供が振り返って親の顔を見た時、もし親が心配そうな不満そうな顔をしていると、子供は、 「自立するのは悪いことなんだ。親を悲しませることなんだ」と思ってしまうと云います。 こんな時はこのお母さんのようにニコニコして、子供の自立の芽生えを喜ぶ表情をしていないといけないと。 但し、もし親の目の届かない場所だとか、危ない場所に行ってしまったら、そしたら止めないといけません。 もしそこで怖い目に遭えば、子供は見守られていなかった、と不安になり、 又、自立を恐れるようになってしまいます。勿論常に完璧にとはいかないでしょう。できる限りです。 そしてその程度問題こそが微妙なのであり、それがまさしく碎啄同時だと思うのです。 まぁ「待つ」という場合は、自分でこっちに歩いて行きたいとか、自分がやりたい方向に進む というのとはチョット違いますから、こんなことがぴったり当てはまるか分かりませんが、 待っている間に自発的に何かすることを見つけ出して、それに集中するとか、 或いは親が帰ってくることを信じることで「人を信じる気持ち」が育つとか、様々考えられると思います。 それで、そういうことは総じれば「自立心」に繋がるものだ、と言っても差し支えないと思うのです。
お礼
大変参考になりました! ありがとうございます。 幼児の時期の子どもとの付き合いは、重要なんだなと思いました。何気ない遊びの中にも。。 大人が子どもに仕掛ける独りぼっちにさせる意地悪。 時には、有効なのでしょうか。 でも、仰ったその親子の遊びの中で親が心配そうな顔をした時、 相手を想う方への気持ちが芽生えないでしょうか。 微笑を向けると、自立心が度を過ぎたイケイケドンドン方向へ行かないでしょうか。 (さらに疑問が。) 「高い高ーい」と同じ理屈なんでしょうかね。
補足
みなさま貴重なお話をありがとうございます。 私が子どもの頃にひたすら待った状況の記憶は、、 ・時間を意識すること。 ・他人と自分との本当の距離。 ・道の石ころや草や風景をよーく観察したこと。 などです。 人は砂漠に行くと、初めて自分自身に出会うそうですが、 頼りにしているものが無くなって、自分の身の丈を知るのでしょうか。 不安や恐怖が伴うとしても。 以後、リミッターとかストッパーみたいなものを作るうえで有意義なんだろうか。 不安→安心→不安→安心 そんな経験が、、○○を○○し、○○が○○となる。 ※ すみませんブツブツと独り言です。〈考え中〉
私自身はじっと待っていられない子供だったようです。 3、4才の頃の話だと思います。 そのときの状況を自分では よく覚えていないのですが、新幹線で祖母の家に行くときだったか何かで、親に一人で、もしくはきょうだいと一緒にホームで待つように言われた様なのですが、待ちくたびれて親を探しに行ってしまった様なのです。 その結果、迷子になり、駅員に保護されたことがあります。 母が心配して駆け付けたときは、駅員と仲良く遊んでいたそうです。 あと、これも3,4才の頃の話だと記憶しているのですが、母と二人で出かけた時のことで、そのときもどこかで待っているように言われたのだと思いますが、何を思ったのか、母が気が付くと私はその場所にはいなくて、探しあぐねた母が諦めて家に戻ると、私は先にすまして家の前で待っていたとのことです。 私は一人でバスに乗って、家に帰っていたのです。 どちらも母から聞いたことなので、詳しくは解りません。 バスで帰ってしまった出来事の方は、うっすら覚えているのですが、じっと待っているのが嫌いな子供だったんだと思います。 しょっちゅう迷子になっていたという話ですから。 山中に置いていかれたら、間違いなく後追いをして遭難するか、崖から落ちるようなタイプの子供だったと思います。 恐らく私の場合、5才以下だと最悪遭難か死亡です。 その場で待ち続けることは先ず無かったと思います。 8才前後であれば山中ならその辺の花を摘んだり、地面に絵を描いたり、空の雲を観察したりでやりすごし、町中であれば道行く人を観察したり、ショーウインドーを眺めたり、敷石の模様を眺めたり、同じ色だけ踏んで遊んだり、高くなった縁石を平均台のようにして遊んだり、鳩が歩く様子を見ていたりで、ついにやることがなくなれば、ベンチに座って寝たふりでもしていたと思います。でも、いよいよ不安になると、やはり探しに行ってしまったのではないかと思います。 私にとって、待っていると言うことは、子供の頃は凄く不安なことでした。 下の子がまだ幼い頃、急に入院が決まり、そのことで説明を夫婦で受けていて、上の子が一人で誰もいなくなった待合室に残されたままでいたことがあります。 病状が深刻だったので、長く話し込むことになり、結果的に上の子を独りぼっちにさせてしまいました。途中で退席して、様子を見に行けば良かったのですが、いつの間にか日が暮れていたことに気が付き、そこまで気が廻らなかったことを後悔しました。 照明が殆ど消されて薄暗くなった中、一人で病院のソファーの背もたれの上を飛び移りながら遊んでいた上の子の姿を見つけたときは、いじらしく思いました。 まだ小学校の低学年で、新しい学校にも慣れようと頑張っていた頃の話です。 迎えに行くなり、怒られるのも覚悟していたのに、上の子は何も言わず、私たちの顔を見ていつもと変わらない笑顔でいました。 精一杯、平常心を装ってくれていたのだと思います。 年よりも大人びたところのある子でした。 下の子の入院が決まった帰りの車の中でも、上の子は一生懸命、自分がやっているゲームの話で盛り上げようとしていました。 私が泣きそうになると、頑張って明るくするのです。 その頃の上の子の中には、ある種の悟りがあったと思います。 不安そうにしてはいけないだとか、自分はしっかりしていなくてはいけないだとか、そんなことを考えていたのではないかと思います。 上の子は高校生になった今よりも、小さい頃の方が大人びていたので、無理をさせていたのだなと思います。 下の子は下の子で、面会時間が終わりに近づくと、いつも目に涙を溜めていました。すんすん鼻を鳴らしながらも泣くのを堪えていましたね。 二人とも、少しでもしっかりしようと頑張っていたのだと思います。 子供がそんな風に頑張ると、自分が不甲斐なくて、すまなく思いました。 子供達に比べると、私は悟りのない子だったと思います。 何しろ待てずに迷子でしたから。
お礼
ありがとうございます。 いいお話をお聞かせいただき、大変うれしいです。 たぶん、私は、言われるとおりにその場から離れない子どもだったと思います。 臆病だったのでしょうか。その場から1歩2歩と歩き出してしまう子とは随分と違いますね。 お話から、しみじみ感じるものありますが、 子どもは子どもなりに家庭を支えているのかもしれませんね。 子どもから教わるものありますね。
- iia_aii
- ベストアンサー率47% (171/358)
芽生えるもの・・・・ 私には負のことばかり残りました。 父親が結構勝手な人だったので、プールで父親がいるはずのところからいなくなっていました。幼稚園のころです。 ひとりポツンと・・・今思い出しても心細かったことが思い出されます。結局近くの人に助けられました。 そのときに芽生えたのは、自分がひとりにならないように気をつけることでした。本当は大人の側が、子どもがどこかに行ってしまわないように気をつけるところを、私は大人が(父親)どこかにいかないよう気をつけていました(笑)。私は今でもとってもビビリで怖がりなのですが、もしかしたらこのような恐怖心が残っているのかも・・・ 質問者さんの文章の中には子どもの年齢などわからないので、予期せぬことが起こったことや、状況をきちんと親から説明されていれば、納得して待っていられる場合もあるかもしれません。しかし、よくわからない状況であったり、それをまだ理解できない年齢だと、恐怖の気持ちが芽生える・・・というか残ると思いました。 なにはともあれ、孤独感や不安感はいなめませんので、そういう状況ははあまり好きではありません。
お礼
ありがとうございます。 基本的に不安のないよう子どもを常に守るべきでしょうが、 不安から得る収穫みたいなものは無いのでしょうか。
補足
ご回答ありがとうございます。 最近、野外で行う子どもの"肝試し"という行事は、すっかり聞かなくなりました。 (全国的には、「怖い」と子どもに思わせる行事は、まだまだ健在ですが。) 子どもにとって、「怖い」「心細い」「不安」そんな状況を意図的に作るのはいかがなものか。そう思いました。 そもそも、意図せず、そんな状況になった時、何かを得たのか。 それはプラスな芽生えなのか、敢えて感じなくても良かった気持ちなのか。 ホンワカと知りたく思いました。
お礼
ありがとうございます。 私の質問は、正直、(結局、何が訊きたいの?)と思われませんでしたでしょうか?(笑) すみません。モヤモヤした中、質問をしてしまいました。 否定せず、意図を追求せず、強く結論せず受け答えしてくださった回答者さまの回答スタイルにも、勉強させていただいた感あり、 まったく参りました。 私は、よそ様の子どもを預かる機会が多い立場の者ですが、子どもは大変興味深く、子どもから教わるものはたくさんあります。 色々と、ご存知のようでお礼文を使い、さらにお訊きしたい気持ちもありますが、、惜しいけど我慢します。(議論調の流れはマズイらしいので。) また、ご縁がありましたら、よろしくお願いします。
補足
子どもに、わざわざ怖い思いをさせる行事は世界中にたくさんあると思います。 でも、たいてい「こんなプラスにつながる。だから行うのです。」と説明せず、実施する理由をただ”伝統”としている場合が多いと思います。 子どもへ何かを願って行っているとは思いますが。 それは説明しにくいのでしょうか。 それとも、確かに敢えてやらなくても良い危険な部分(賭けみたいな。)なため、堂々正当性を主張できないのでしょうか。