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関東の古墳の被葬者
初めてこのコーナーに質問させていただきます。 古墳の被葬者はほとんどの場合、不明または当地の有力者としか記されていないのが現状だと思います。しかし、九州の岩戸山や畿内の天皇陵は「伝」としながらも被葬者の名前が特定されています(考古学的に定説であるかは別として) 関東にも100m超の大型古墳が多数あります。文献的にもあのヲワケの一族や毛野氏の系図等を見たことがありますが、関東の古墳で「伝」としながらも被葬者が特定できるものがあるのでしょうか。また、推定被葬者等が記載されているような書物や資料はあるのでしょうか。
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- yuji_m2
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推定被葬者が記載された資料として著名なものに群馬県高崎市に位置する山ノ上古墳があります。 山ノ上古墳は文献資料ではなく、山ノ上碑という石碑に誰が誰を葬るために築造したとまで記されています。 詳細はインターネットなどで調べてみてください。 他にも群馬県前橋市の総社古墳群などは、当時の上野最高クラスの一族の墓域と考えられており、上野君が埋葬されていた可能性の高い古墳群です。 100m超の前方後円墳では群馬県太田市の太田天神山古墳(210m)が、日本全国的にみてもトップクラスの古墳ですので、日本書紀などの5世紀代の記述に登場する上野の大豪族が被葬者として想定できるのではないでしょうか?
- oska
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>関東にも100m超の大型古墳が多数あります。 その通りですね。 続日本(書)紀?にも「東に日高見国あり。討って取るべし」との記載があります。 大和に勝るとも劣らない、文化的に裕福な王国があった様です。 >関東の古墳で「伝」としながらも被葬者が特定できるものがあるのでしょうか。 天皇中心の国家を樹立する為に、天皇家以外の対立する豪族は意図的に抹殺を受けています。 ですから、特定できるものは少ないでしようね。 神社の例でも理解する事が出来ます。 出雲王国は、大和朝廷軍に侵略されても「出雲大社」として名を残す事が可能でした。 質問者さまはご存知でしようか? 「氷川(河)神社」と名乗る神社が関東近辺に多くありますよね。 然しながら、多くの氷川神社は境内を「天照・神武系神々」の侵略を受けています。神社の名前も当然氷川神社と名乗っていません。 本来の神(豪族の先祖)は侵略された境内の隅に「客人(まろうど)神社」「客社」などと称した(平均ですが、縦横2メートル前後の木製の)小さな祠に祀られています。「氷川」という名前も捨てられたようです。 >推定被葬者等が記載されているような書物や資料はあるのでしょうか。 当然、由来を示した古文書も破棄されている事でしようから存在しないでしよう。 ただ、一般的に「偽書」とされている古文書類には「伝承・伝説を記載している個所」が多々あります。 日本書紀・続日本書紀・偽書と称される古文書類を調査すれば、何か見つける事が出来るかも知れませんね。 偽書とされる「東日流外三郡誌」の記載も、青森三内丸山遺跡の説明らしき記載があります。和田氏が伝承・伝説を記載したのでしようか?
お礼
興味深いお話ありがとうございました。 3世紀から始まる古墳時代に文字がなかったということはありえないので、やはり意図的な焚書なのかもしれませんが、焚書だとすると記紀が作られたころの日本はこれだけ完璧に地方の伝承を抹殺できるほどの見事な統制がとれていたということなのでしょうか。記紀自体が天皇家中心の伝承なので、皇室の忠実な家臣の埋葬地でさえ具体的なものはないようです。 氷川神社はよくある社ですね。これが国津神系(ということは出雲系ということなのでしょうか)であるということは何かで聞いたことがあります。古墳の近隣には古い寺社がよくあるので伝承などからその地方の氏族などを探ることもできるのかもしれませんね。今後は客社というものもよく見てみます。 東日流外三郡誌というのはアラハバキ族の歴史書ですね。古墳時代よりかなり古い時代のものなので直接古墳の被葬者の手ががりはないかも知りませんが、何かの機会に調べてみたいと思います。
お礼
ありがとうございます。 山ノ上碑というものがあるのですね。 古墳自体は7世紀だとすると全国的にも古墳の終焉期か小規模な円墳に移行した時期ですね。(関東ではまだ大型古墳が一部造られていたようですが)この時代になると首長層だけではなく、地場の有力者の墳墓もかなりはっきりした形で残っているものがでてきているのですね。 太田天神山古墳にしても5世紀のものでしょうし、群馬の大型古墳にしても上毛野氏やそこから別れた氏族の墳墓でしょうが、やはりどれが誰を(推定にしても)埋葬したものかはわからないのでしょうね。