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ミトコンドリア イヴ
●およそ25万年前 人類共通の祖先 ミトコンドリアイヴは アフリカに誕生した・・・。 人類を他の類人猿と 分けた「もの」とは何でしょうか? みなさんのお考えをお聞かせください。 ◇わたしの考え。 人類を人類たらしめている「もの」は 最近つくづく感じているのですけれども 「やさしさ」なのではなかろうか?・・・と。
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優しさだけで十分? 気持ちはわかる。 それで、ほんとうに十分かもしれない。 だけれど、限定というものは無い。 すばらしさとは無限なのであり、 優しさのすばらしさも、無限に。 自然をあり方としてみた場合、そのあり方とは、それを常に越えるそれであることだ。 自然は何を超えるか?自然を、超え続けるというのが、自然というあり方だと、俺は考える。 超えたところが自然だ。 人が自然を超える? そんなことは無い。 というか、意味がよく分からない。 だれだ、そんなことを言った奴は?(笑。 越えるということを超える、そんなことは、できない、ことも無い(笑。 なんでもありだからな。 人を取り戻した後には、続きがある。 それが、宇宙の、世界のドラマだ。 幕を引くにはまだ早いぜ? お楽しみはまだまだだ。 >対象にこころが寄り添い その対象の存在により こころが癒されているような感覚を覚えることなのです。 雨宿りの猫だって、放心してるわけではないと思うぞ。どのことを放心状態といっているのかよく分からないが。優しさとは、対象を、大切なものと感じるということか? 失いたくないもの。 優しさというのは、明らかに、自己を一歩、踏み越えている。と、思う。 なぜなら、他の対象に、こころを重ねるというのは、自己をはみ出していると思うから。 ということは、自己というものの見方が、断定的な、「もの」分離しているような、孤立したようなものではないという見方になる。現に、人は、優しさによって、自己をはみ出してるんだから。 これが、自然というあり方とどう一致するかだが、 自然も、常に自然を越えているのであり、人間も、やさしさにより、自己を越えている。 そういう意味で、十分だ。 >いいえ 一歩進んで やさしさだけを残すために それ以外の余分なものを排除することができないだろうか? 問題はある。優しさと同じに発展し、しかし相反する能力が人にあるのなら、それを排除するのは無理だろう。 悪童のミームは排除できる。 だが、悪童たちの親玉はむしろこいつではないのか? もしな、もし、この存在がたしかなら、人は、優しさと、これを、さらに越えた能力を獲得しなければならないと思うわけだ。進化は、リアルタイムに起こるのでもありえ、今、まさに進化の最中という風に考えると、希望的観測も持てる。 危機は、一つじゃないから。 > ●「やさしさ」とは放心状態ではなく 明らかに 対象にこころが寄り添い その対象の存在により こころが癒されているような感覚を覚えることなのです。 叙情と、やさしさの関係はどうなの? >世の中を変えようとしてはいけません。 そんなつもりは無い(笑。 ただ、黙ってられない。忍耐が足りないな(笑。 >もうひとつの国をはじめてしまえばいいのです。 そうして輝くものが現実に存在するとき 人々は その光に初めて気付き 歩み寄ってくるのです。 国?たとえばだろ?UCMで二重構造の国をつくるのか? ダブりはそのうち解消され、輝く国だけが残ると。 俺の国土は、俺の足の裏だからな。 他の人が歩み寄ってきても、同じ国には住めない。 だが、あゆみとあゆみがこうさする。 それが快感。それが奇跡。 俺は、歩くだけ。 今はな。 躊躇なんて、あっても無くてもいいね(笑。 >気付いた人間は 生きるべき新しい道を 躊躇なく歩んでしまう方が早いのです。 ああ、純粋なるその一歩。
>はじめて「静なるもの」にこころを向けた瞬間なのです。 はぁ。なるほどだな。 客体的なものを意識するようになったということかな? その能力が優しさで、そのうち客観視などに分化していくと。 静なるものに意識がいったのは、心優しきイヴには必然であったのか、たまたまそれに意識が向いたことをきっかけに、心優しきイヴになったのか。 静なるもののニーズが、イヴの構造によって生まれていたのか、静なるものに気付くことで、新たな地平を見ることになり、その新たな地平を求める意思が、イヴの構造を、優しさが特化するように進化させたのか。 雨の日、階段の下でたたずむ猫を見てると、きっと叙情を感じてると、思ったりする。 人が宇宙に出るようになったのも、優しいからか。 他人のことを思えるのも、優しい(客体に心をかさねる)から。 織り成し構造は、主体、客体という関係で、織れているわけではない。その関係を含んだ、さらなる構造か。 優しさが、客体的なもの(予定されたニーズ(食料など)、限定的な目的、目標じゃないもの)をもってはじめて成り立つとするなら、それは関係性、機構、のことであり、それ(やさしさ)が人類にあるというより、人類を含んで進化?分化?している地球や、宇宙といったようなものに内在する機構と、人類の機構にある種の一致があることや、もしくは、人の心が、宇宙を構成するいち機構として宇宙にあることで、客体がその人の機構に流入するような構造になってるかも、というふうな世界像を、俺は想像したな。 飛躍が少し埋まったかな? 優しさの力を掠め取り、利己的に利用するような性質も、当然人類にはあるわけか。けだもののこころだ。 それは、癒着だな。 けだものの心を栄養分とするような存在も、ありえる。それは、なんだろう?人に内在するものかな? それはあとにして。 なんで癒着するんだろうな? 優しさとともに発展してきた、相反する能力が、あるのかも知れない。 同じ客体意識でも、相反する性質。 卑屈で哀れな精神が、。
お礼
●「やさしさ」とは放心状態ではなく 明らかに 対象にこころが寄り添い その対象の存在により こころが癒されているような感覚を覚えることなのです。 チンパンジーに簡単な言葉があるように イヴに進化する前の母体にも 簡単な言葉は存在していたはずです。 しかし イヴはやさしさを備えたために 以前とは 比較にならないほど 多くの言葉を獲得します。 それがしだいにしっかりとした言語に発展していく ことになるのは容易に想像することができます。 どんなテクノロジーを持とうが どんな論理を 持とうが 人間は自然を超えることはできません。 微小なエネルギーで 長時間飛び続ける小さな トンボすら創れません・・・。 もし 人間を類人猿と分けたものがやさしさなら 人間が人間として 大いなる自然の人間存在それ自体を 具現するならば やさしさだけで十分なはずでは なかろうか? いいえ 一歩進んで やさしさだけを残すために それ以外の余分なものを排除することができないだろうか? ●世の中を変えようとしてはいけません。 変えるのではなく 気付いた人間は 生きるべき新しい道を 躊躇なく歩んでしまう方が早いのです。国を直そうとするから 直らない。もうひとつの国をはじめてしまえばいいのです。 そうして輝くものが現実に存在するとき 人々は その光に初めて気付き 歩み寄ってくるのです。 複雑に間違ったものを修正するより 新規に始める方が 簡単ですよということです・・・。
見てる? >最近つくづく感じているのですけれども 「やさしさ」なのではなかろうか?・・・と。 ほかの御礼も見たが、ああ、そうなら、やさしさを、ヒューマニティといえるな、というのが、感想だ。 心を寄せるということか。 俺の人間像をイメージしたり、もしくは思い出したりするとな、こう、ある種の同化があるな。風景にしろ、喧嘩にしろ、自然にしろ。 同化といっても、ようは織り成してるってことだ。互いに。一対一とか、そういうシンプルなものでもない。 複雑でとりとめがないようなわけでもない。 言葉では表せないが、言えば、 すばらしいということだ。 ヒューマニティは、すばらしいんだ。 なんか文意がずれて、ヒューマニティとはすばらしさってことになってしまったな。 言い直そう。 人間は、同化、共鳴、閃光、あらゆる輝き、流れ、空気、物質、そういうものが、ヒューマンスケールで起こりえるつくりを、しているということだ。 ヒューマン構造。 答えになってないな。 織れてすばらしい、解けてすばらしいという、構造。 おそらく、こっからは俺語だが、 世界と、織れるのは、人の構造が、世界のようであるからだ。解けるのは無だから。 なぜ猿人にはその構造がないのか? たぶん、あるんだろう。 猿人構造が。猿人構造が、よりすばらしくなって、ヒューマン構造になってるから、いま人間が生息してるんじゃないかと思うわけだ。 そのすばらしさを実現するのがヒューマンスケールで、そのスケールは、世界を織り成す、糸くず、点滅するつなぎ目の、緑赤藍、などの色々であり、こう、もう絶妙なわけだ。 何を言ってるのか分からんが、しかたない。 人間勝手な解釈だが、すばらしくなる以外に道は無い。 昔生きてた猿人は、人間の中で生きてるから、別に、人間が猿人より偉いとか、そんなんじゃない。 世界があって、よかったね。 ってことだ。 情けないな。おれも。いうことが変わらなくなってきた。 オリジナルの人類が消えることはない。 なぜなら、ミームといえど、それは自然から、おりじなるのヒューマンスケールから、逃れないからだ。 それを母体に、寄生するだけだ。 ミトコンドリアは無事に同化したな。 ミームはどうだろうな。 どうするよ?(笑。 新種の人類が人類のミームによって生まれても、ヒューマンスケールが変異しても、生命の輝きは止まらない。 世界は広い。 人の心配など、人だけのものだ。 本来的に(オリジナルの生命として)輝くこと、それが、何はともあれ大切なんだと思うな。 ミームすらも取り込んでな。 あり方で消化すりゃいいんだ。 人の、人に対する半径は、一人では決まらない。 だから、人をどうこうしようなどと思わない。 ただミームを飛ばすより、ミームを取り込みあり方やその他上位構造で消化した、生ける生き様というものが、結果的にはミームの悪童達を淘汰する存在になると思うわけだ。 分かる? ミームを喰った人の自然が、自然ミームでミームを淘汰するってこと。 ニュウミームだ。 遺伝子操作とかやりだしたら、今後、人間は、ヴァンパイアと分化するかもしれんな。もう、半分なってるけど。 マジの話(笑。 化け物を退治し、喰ってきたのが、人だった。 今回もだ。底なしのブラックホールの種が、輪廻とともに、今のヒューマン構造にはあるのかもしれないな。 遺伝子が発見されて、ちょっとびびるわ(笑。 だが、何があっても生命はくじけない。まだまだだ。 ミーム?経済?おやつにもならんね(笑。 何でもあるから、生命なのかもしれないな。 不思議にすばらしい。 どないなってんねん!(笑。 ありがとう。 ちょっとノリをかましすぎたかな?ありだろ、一応(笑。 ?????????????????????? 最近、猫を見てたら、宇宙生物に見えてきて、人を見たら、宇宙人に見えるようになってきた、。誰にもありそうだし。たまにはありだろ。そんな心境も。子供時代に帰った新鮮な気分だ。 俺の雨が降ってる。 トトロが、雨音にエクスタシーを感じていたのが、分からないでもない。 いい。 俺の雨かはどうでもいいが、煙が立つほどの雨は、珍しい。季節が、熱帯性に変わってきてる気がする。 夏も、半月ほど早い。 なんで?(笑。 前の方が、美しかった気もする。 ミームを季節に引きずり込もうかな。 季節型ミームも、もういるはずなんだけど。 飛躍したな。どうも、君と話すと楽しくってだめだ。
お礼
●まず この辺↓を踏まえてから・・・ http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0622.html ラスコー洞窟の壁画はおよそ一万五千年前 イヴは25万年前 原人はいろいろな化石が出てきていて とりあえず一番古いのは 400万年前 http://www.ushikunuma.com/taim/tim1.htm さて チンパンジーのアリ食い行動というものを ご存知ですか?アリの穴に小枝を差し込んで アリが枝に登ってきたところをみはからって 枝を引き抜いて 枝についているアリを 食べる行動です。このミーム(文化)は チンパンジーの子供が受け継いで習得するまで 三年かかるといわれております。 400万年前 猿人と呼ばれる チンパンジーより 人間に近い生物は もっと多様な文化を ミームとして持っていたことは 容易に想像できます。 さて チンパンジーでもそうですけれども 親がアリを食べる行動を 子供はただただ 傍でじっと見ていることで学習するわけです。 食べるとか 本能につながる動くものを 追う習性は あらゆる動物に共通している 行動です。人も類人猿もこの行動を持っているわけです。 しかし 人間はさらに「やさしさ」を手に入れた。 400万年前から イヴの登場する25万年もの 長い間に 今の人間になれなかった決定的なもの それを 考えているわけです。 「やさしさ」とは 動くものを追うのではなく はじめて「静なるもの」にこころを向けた瞬間なのです。 とりあえず ここまで・・・ ご回答ありがとうございました。
>わたしは 動物や植物・微生物に至るまで >あらゆる生物・物質にも「やさしさ」は存在すると >いう考えを一面ではもちあわせております。 此処のところよく理解できませんが、区別する為には差異を認識する必要があるのではないですか? >あらゆる生物・物質にも「やさしさ」は存在する ここで言う「やさしさ」について暇があれば教えてください、まさか自然の平等性の事を考えているわけではないですよね、回答になっていませんから無視した方がいいですね。 めんどくさいのでHNもそのままです。
補足
●区別するには 差異を見つけることは必要なことです。 差異はあるなしだけではなく その「程度」に於いても 区別の手がかりとなるはずです。 やさしさが 人間と類人猿を分けたと考えるのは およそ次のような思考の末の感慨なのです。 イヴが人類の共通のたった一人の母だという ことがミトコンドリアDNAの解析により 分かったわけです。つまりジャワ原人やペキン原人の 子孫は現代には存在していません。 およそ25万年前 言葉も文化も文明もなかった 時代にイヴは誕生したのです。イヴの誕生から 15万年が経過したころの地層から 洞窟で生活した痕跡が見つかりました。 その地層には焚き火の跡があり かすかに赤い岩彩も見つかりました。 イヴの誕生した当時をシュミレーションしてみるのです。 野生のチンパンジーのような中で 人間として 存在してみるのです。言葉がありませんから 現代人のような思考はできません。 それでも わたしたちは イヴの子孫ですから イヴに備わっているものを受け継いでいるのです。 種が同じであれば 年月が経とうとも構造は同じ ものを受け継いでいるはずなのです。 シュミレーションの中で ふとこころがいろいろな 対象に寄り添うことがわかりました。 日差しに 風に 草花に 雲に 星に月に・・・ そのこころの動きを「やさしさ」と感じたわけです。 こころが寄り添うということは どういう現象でしょうか? それは 共鳴ではないでしょうか。 自分のなかにある何かと 対象にある何かが 同質の何かを含んでいて響きあっている感覚です。 ですから あらゆる生物・物質にもやさしさが あると言えるわけです。実際に感覚としてやさしさをも感じます。 キューブリックは 類人猿との差異を「こん棒」 で表現しました。こん棒は宇宙船と変わりない 存在であることを含ませながら・・・。 でも わたしのシュミレーションに於いては こん棒よりも まず 湖面に映った自分の姿に こころが寄り添います。そして いつもこころを 奪われている「綺麗な花」を髪に挿すのです。 そんな感じが 人類の人類たる存在の始まりでは ないでしょうか・・・。 こん棒ならチンパンジーでも使いますから チンパンジーは 石でくるみを割ったりもしますよ。 ご回答ありがとうございました。
- Keiko816
- ベストアンサー率42% (268/632)
>あなたは なぜ「創造性が人類と類人猿を分けた」と 考えられたのか その思考過程を教えてください 類人猿が住居を作ったり舟を作って魚を捕ったりしていたという話は聞いたことありません。人類と、類人猿及びその他の動物での決定的に違うものは創造性があるかないかです。そして「決定的に違うもの」が「分かれた原因」と考えられるからです。単純なことです。 少なくともやさしさが人類と類人猿を分けたとは思いません。 私の関心は「創造性」の「根源」であり、あなたの説明されようとしている「創造性」の「プロセスの一部」ではありません。 >創造性とは 知性・理性に含まれるもので知性・理性の高さが人間という種の要素であることになんの疑いもございません。 >創造性を発揮できる人間とは並の人間ではないということです。 高い知性・理性から創造性は発揮されると言われているようですが果たしてそうでしょうか。 私は創造性は知性・理性に含まれるものではなく、別物だと考えています。知性・理性は低くとも素晴らしい絵を描く人はいます。今までになかった新しい音楽を生み出す人もいます。 高い知性・理性を持つ人がそれに比例して新しいものを作り出す能力のある人とは決して言えません。 >あなたのように考えることは、なにも新しいものを創り出せない人間は類人猿か?ということにもなりかねません。 今、窓の外をツバメが忙しそうに飛んでいます。ツバメは生まれて数週間もすれば完全なツバメになりますが、人間は生まれて20年生きさえすれば人間になれるかというとそうはいきません。何も教育されなければ動物といっしょです。人間としての教育を受け、自分も努力して人間として自分を創造していくことが必要となります。 あなたは新しいものを創り出すことを発明、発見、技術革新のようなことだけを考えておられるのではないですか? あなたにとっては「哲学すること」そのものが人生なのでしょうが私の人生は「行動すること」ですのでこの議論は私の人生とっては何の意味も無い事ですから不毛の議論は終わりにしたいと思います。 お付き合いくださいましてありがとうございました。
お礼
●住居を作ったり 船を作ったり それはずいぶん イヴから後で最近の話です。イヴの頃を勉強してください。 たぶんイヴの頃には創造性は あまり発揮されて いなかったと推測します。 単純なことですと思うから単純な思考しかできないのです。 創造性があるから家や船がつくれる・・・ 現実はそんな簡単なものではありませんよ。 芸術性の高さと創造性の高さを混同しては けません。商業芸術をクリエイティヴと呼びますが それは需要創造に関連しているのからです。 哲学することと行動することは 基本的になんらかわりありません。 いろいろ参考になりました。 よろしかったら お暇なときにまたどうそ・・・。 ご回答ありがとうございました。
補足
●不毛の議論とまで 言われてしまいましたので もう あなたの発言は無いでしょうから あなたのかわりに「創造性」をネズミの考察とは べつの角度から考察してみましょう。 住居を作ったり舟を作って魚を捕ったりすることが 創造性をともなった行為であるとなぜ言えるのか? まず そこを考察しなければなりません。 ハチは人間が作るより正確な住居を造りますし カワセミは 空中から魚を獲ります。 ハチやカワセミのそれは DNAの遺伝子に書かれた 情報です。人間のそれは ミームに書かれた情報です。 住居を造ると 一言で言っても 道具が要ります。 造るための時間に食料を調達したりする分業のような 人と人の関係が成立している必要もあります。 柱を運ぶのは 共同作業が必要かもしれません。 住居を組み立てるのにも順序が必要ですし その順序を理解させるためのメソッドも必要です。 いったいこのような複雑な作業のどこに 創造性を見出せばいいのでしょうか? それを特定するためには 住居を造るという 文化の始まりと それを可能にした文明の 成り立ちを考察する必要があるわけです。 住居文化の始まりを考察すれば それは 快適と感じる場所に こころが動くことから 始まるでしょう。次に石器です。シャープな石に こころを奪われた人が たまたま遊んでいて 手を切ったのかもしれません。もしくは 草を切ったの かもしれません。そんなところが始まりでしょう。 その延長線上に見よう見まねで ミームが蓄積されて いった結果が 住居になるわけです。 いったいどこに「創造性」があるのですか? ハチのDNAに書かれたことをミームでやっている だけだと思いませんか? ですから 申し上げたように 創造性が発揮されるのは ずっと後からなのです。そしてそれは 言語という 概念を使って立ち現れる現象ですから まゆつばものですけれども・・・。 ネズミの考察でも分かるとおり 創造性とは 相対的な感覚的 形容ですから あらゆることを 熟知した超越的存在から見れば 人間がやっていることなど 創造どころか 自然のまねごとにもなっていないことなのかもしれません。
- netcatme
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>●わたしは 類人猿と人間を分けたものは > 言語でも 文化や文明でもないと考えます。 > なぜなら イヴがいきなり言語や文化文明を > 獲得できていたとは 考えにくいからです。 補足です。そうですね、言語が類人猿と人類を分けたとすれば、イブの時代にはイブは類人猿と区別はなっかたということですね。イブの時代に類人猿と区別できたという根拠もないですし、イブはやさしく、他の類人猿はやさしくはなかったという根拠もないでしょうから、どの時点で、どのような原因で分かれたかは諸説あるでしょう。 ただまあ、このような考えも簡単には否定できないよという程度の補足です。
お礼
●言語がなくともコミュニケーションは存在しておりますし イヴの時代にもお化粧の痕跡が発見されて おります。つまり文化や文明が存在していた 可能性もあるわけです。動物にやさしさが無いとは 言い切れません。物事を考えるときには さまざまな 考察を経た考えの方が 説得力があるというだけです。 ご回答ありがとうございました。
- Keiko816
- ベストアンサー率42% (268/632)
私は「創造性」について説明しております。 あなたのお好きな長い言葉で説明していないだけです。 膨大なデータベースと顕在意識とひらめきで「人格の形成」ができますか? このことに対してお答えしておられませんが。 >言葉以前の顕在意識にはイメージと感覚が 潜在意識には イメージと感覚と本能に書き込まれた データーが存在していたと考えられます。 このことは迷路を出る事が出来たねずみにも言えることです 。ではねずみと人間を分けたものとはなんでしょうか。
お礼
●創造性についてこれ以上説明できないということは 「説明できないという[あなた]のレベル」を説明しているのでございまして 創造性それ自体の説明ではないのです(要勉強)。 >膨大なデータベースと顕在意識とひらめきで「人格の形成」ができますか? わたしは そんなこを質問されるような事を申しておりません。 人間という種の誕生と人格との因果関係は わたしが ここで問うていることとは 別の問題です。 ねずみと人間は 分かれた母体がちがいます。 また わたしは類人猿と人間を分けたのは 創造性だとは 申しておりません。 創造性の説明の一つを披露したまでなのです。 では あなたが 創造性と思い込んでるそのものが 人間をどのように類人猿とわけたのですか? 考えてみてください あなたなりに・・・。 「人類を人類たらしめているものは「創造性」です。」 ↑このように どこにでもある言葉とは 刷りこまれて いる可能性があるものなのです。説明できないことが 自分で考えていない証拠である可能性もございます。 自分で考えること それが哲学というものです。 創造性とは 知性・理性に含まれるもので 知性・理性の高さが 人間という種の要素であることには なんの疑いもございません。 創造性とは それまでに無かったものを創りだす 能力を指すものであって 知性・理性の中に於いても 高度な能力なのです。ネズミの例で分かるように その認識は相対的なものであり ある意味では あなたのように考えることは なにも新しいものを 創り出せない人間は類人猿か?ということにも なりかねません。創造性を発揮できる人間とは 並の人間ではないということです。 ご回答ありがとうございました。
補足
●このほうが わかりやすいですね。↓ あなたは なぜ「創造性が人類と類人猿を分けた」と 考えられたのか その思考過程を教えてください。
- Keiko816
- ベストアンサー率42% (268/632)
#5、#6のKeiko816です。 >膨大なデータベースをつかって要求を満たすようなさまざまな整合性が 無意識のうちに模索されているのです。 そのうち 確度のたかいものが顕在意識にあがってくるわけです。それが創造性です。 おっしゃっている事がまったくわかりません。むりに長い言葉で説明する必要はないと思いますが・・・。 本質的な事柄は短い言葉で表現できるものです。ムリに言葉を多くして説明するほど本質から離れて枝葉末節にむかっております。 膨大なデータベースと顕在意識とひらめきで「人格の形成」ができますか? 膨大なデータベースと顕在意識とひらめきで「言葉」ができたのでしょうか?「言葉」以前にデーターベースがあったのでしょうか? おっしゃっている事にムリがあると思いませんか? 私はやはり短い言葉で回答したいと思います。 人類を人類たらしめているものは「創造性」です。
お礼
●わたしの申し上げることがわからないようでしたら 機能主義・構造主義を勉強なさってから 哲学なさってください。 短い言葉でも説明できるのなら それでいいですけれども あなたは これ以上は説明できないとおっしゃるわけですから それは そこで思考がとまっている証拠でしか ありませんよ・・・。 言葉以前の顕在意識にはイメージと感覚が 潜在意識には イメージと感覚と本能に書き込まれた データーが存在していたと考えられます。 ですから あなたにとって創造性とはなんですか? それが説明できないようなら 哲学しているとは 言えません。説明することから逃げるようなら それであなたは お終いです。 お安い宗教を信じるやからと同じです。 ご回答ありがとうございました。
補足
●「イメージ」とは ビジュアルデータ・脳内データを 指して 発言しております・・・。
補足要求をした以上、ご回答しないと気になって読書にも集中できません。ルソーは「原注」の途中ですが。 >人類を他の類人猿と分けた「もの」とは何でしょうか? このように問うことは、人間とは何かと問うことと同じだと考えます。 ルソーは人類と動物の区別する知性や理性の前に、自然人には、「自己保存」と同類・同種に対する「憐れみ」の情に関心を持っているようですが、これがH-hokoさんの言う「やさしさ」かもしれませんが、動物に「やさしさ」がないと結論づけることは問題があるような気がします。 問題は、イブを他の類人猿と分けた「もの」ではなく、その方向性のような気がします。 私は、今のところ、群れや共同体を作ることによって、食物連鎖の頂点に立つと共に、単独で生きるための能力をなくしているような気がしますが。 このような難問に、白黒つける愚かなことは避けるのが「社会人」の「愚かな知恵」でしょうか。
お礼
●わたしは 動物や植物・微生物に至るまで あらゆる生物・物質にも「やさしさ」は存在すると いう考えを一面ではもちあわせております。 けれども ここで申し上げておりますのは 人間に進化させた要因となったものは 「やさしさ」で それが特化した存在が 人類ではなかろうか?と申し上げているわけなのです。 誤解のなきよう お願いいたします。 ルソーの「憐れみの情」は 確かに人間に存在する 情のひとつだとおもいます。 ただ その「憐れみの情」が 人類の営みに どのようにかかわってきたのかその具体的な 考察をみてみないことには まだ?の域を出ません。 ニュートンもアルキメデスも文明の礎を築いた 先人の偉業に共通して存在するのは 「やさしさ」なのです。 星空の美しさに心を奪われる感覚にも似た感覚が 真理に向かう クリエイター達のこころには 確かに存在すると思いませんか? その感覚を勘違いした世界に作動させているのが宗教家。 その感覚を利己的に またミームの内々に ごく狭い ワクで作動させているのが 経済や規範や社会に 毒された人々だと感じております。 方向性とは 方向ではありません。 方向付ける能力もしくは方向付ける物のことを指します。 それを「もの」と言うのです。 物は総称(名詞)。 「もの」は指示語です。 ご回答ありがとうございました。
- O_Denwa
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ミトコンドリアイブが存在していたと仮定し、 人類の祖としての彼女と、類人猿の違いはなにか。 ということならば、精神的な違いはほとんどなく、 身体的、もしくは体質的な違いがあっただけじゃないでしょうかね。 精神的な違いがないとする理由は、 ・彼女は、類人猿から生まれている。 ・彼女は、類人猿と群れで暮らしていた。 という二つの仮定と、H-hokoさんもおっしゃっていた、 >人間は狼に育てられれば 狼になるわけです。 という事柄から、 類人猿に育てられたであろう彼女も、やはり類人猿と同じ。 もしくはそれに近い精神構造をもっていた。 と考えるのが妥当だと思えるからです。
お礼
●構造主義的には O_Denwaさんのおっしゃるように 知性・理性の違いはほとんど無かったであろうと 言われております。 でも ではなぜいつまでも類人猿のままで 居なかったのでしょうか? そこには なにか違いがあったはずなのです。 もしそれが 身体的・体質的違いから由来すると すれば どんな過程を経て 人類になったと かんがえられますでしょうか? O_Denwaさんにはもうすこし深い考察を期待いたします。 ぜひオリジナリティの高いご考察を お聞かせください。 ご回答ありがとうございます。
お礼
●もし話が噛み合っていないと感じられても お気になさらないでください。深い哲学があればこそ その形態は ちぐはぐであり それぞれに思う深みを 吐露するのが普通であり わたしの経験では かみ合わない話題が それぞれに延々と続くのが いちばんナチュラルな会話の形態だと感じております。 叙情とは 例えば楽しい・悲しい・嬉しいといったような人間の 機微を深く考察し あらゆる具現を含み「そこ」に見出される 人間の自然な反応と表現です。 やさしさとは 人間が人間であることを示す こころの動きです。 やさしさが対象を捉え その対象の存在に 生きることが含むさまざまな機微が重なる時 その系が 叙情となります。 UCMが稼動するということは 同時に国の管理から離脱することを意味します。 UCMは個人でも法人でも国家でもひとつ銀行の口座が 増えたような感覚ではじまります。UCMという口座です。 次第にUCMの口座の稼動率が上がり 最終的には UCMの口座だけで 全てが充足してしまうようになります。 UCMで傭兵を組織して 国家を攻撃することも 可能ですが 既存の国家もUCMを使用せざるおえない 状況になるでしょうから 世界はゆるやかに理念の 示す方向に動いて行く事になります。 血は決して流しません。これは約束します。 一滴の血も流しません。 UCMの理念 それを「やさしさ」として提唱しようと 考えているところです・・・。