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ミトコンドリア イヴ
●およそ25万年前 人類共通の祖先 ミトコンドリアイヴは アフリカに誕生した・・・。 人類を他の類人猿と 分けた「もの」とは何でしょうか? みなさんのお考えをお聞かせください。 ◇わたしの考え。 人類を人類たらしめている「もの」は 最近つくづく感じているのですけれども 「やさしさ」なのではなかろうか?・・・と。
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自分の体を発見したことではないかと思います。同時に自分が体の中に閉じ込められている存在ということも分かり、この孤独性を解消するという強い欲求が生じ仲間を大切にするようになったというようなことはなかったかなと思います。
その優しさの根源は何だと思いますか? その優しさは元々在ったと思われますか? 人類を人類たらしめているのは 思いやりなのではなかろうか?...と...
ちょっと休憩が長いが。 どうも、確度のあるものをはじき出すのに時間がかかる。 それが優しさと言うのはようやった、俺には思いつかない、びっくり+なっとく回答だと思っているのですが、。 狼が人間の子供を育てたり、水で暮らしていたトンボの幼生が、陸に上がって成虫になること(生息環境が激変している。環境の多様性、を上手く利用して生きているとも見れる。パーソナリティを、ライフステージによって使い分けている。いくつかのパーソナリティでもって、ライフステージを実現している。と。)とか、オランウータンとか、燕もそうだけど、人間に、彼らの持つ能力?が、どれもあるような気がする。 人間は飛べません。飛べないんだけれど、ツバメとの共通点があるのではないのか?渡りなどは周遊性であり、いろんな生き物がそういう方法を取っている。ツバメや人間だけじゃない。 ツバメの個性は侵害できないが、人間に見るツバメっぽさが、ありえる。 それは、ツバメとこうもりの間には無いものかもしれない。植物もおなじ。 人間と共生できない生物はいないのではないか?という話の延長になるかもしれないが、人間という生命システムが、他の、「かなり多く」の生命システムを継承しているのではないのか?ということです。 現世代に生きる生物は、どれも進化の最先端であり、どの生物も、過去の様々な生命システムを継承しているのだと言えばそうなのだし、人間に限ったことではないのだが、。 人間は、あらゆる地球生物の、生命に関われる可能性を秘めて生まれてきているのではないのか?と言うことを考えます。 猿と人間を分けたものというのは、その可能性ではないのか? 自然界と言うのは、年を経るにしたがって、進化の余地と言うものを減らしながら、分化して行き、形をつくってきているように見える。 可能性(余地)が、減っていっているように見える。 しかし、実には、生の可能性というものは、自然が年を経るにしたがって、増しているように感じる。 つまり、自然は、年をとるほど、その将来の可能性、生命の可能性を、確かに増やしていっている。 人間は、その顕著な現れであるかもしれないのです。 それが、以前から言っていた、ある種の宇宙性ではないのか? その片鱗を、すでに人類は持っている。 歪になるが出してしまおう。 宇宙性と、人間の地球生命システムさとがどう繋がるのか? 結論:宇宙に発つなら、サルより人である。 なぜなら、人には、地球の生命システムが、 ふんだんにつぎ込まれていると思うからです。 人のほうが、猿よりも大事だと言っているのではなく、 端的に、結果として、宇宙に立つのは人ではないだろうか? という結論です。 ★人と猿をわけたもの。 それは、宇宙に生きる可能性です。 地球は、もとより宇宙を見ていて?宇宙世界にある天体です。人間を通して、地球が宇宙を見れるという考えもあるだろうが。 人間は非常に地球的な生命でもあるが、同時に、宇宙の片鱗が見える。というよりも、そう思いたいと言うきもちがあるのか。 猫やツバメにも宇宙性が見れるといえば見れるんだが、それに比べれば人間の方が、遥かに宇宙生物っぽさを感じれる。同種だからか?それとも、俺が人間だからか? 毛が薄いからかも。 優しさが、宇宙に生きる可能性、宇宙を見ることを生んだのか、宇宙に生きる可能性が、優しさという風に現れたのか。 進化目的と進化の可能性、獲得能力、または環境変化など、どれが進化に先立つかというよりも、やはり、シーンは同時に多数起こっているのでもあり、 イヴに何かの思いが生まれた故に、イヴはイヴになったと見れば、その思いの発端は宇宙にあるのか、地球にあるのか、どこにあるのか、色々検討できそうでわからんが、生命の本質を、そういう思いの発端に垣間見ることができるかもしれん。 イヴがイヴに生まれた思いゆえにイヴになったのであれば、原人間には、人間特有の思いが生まれる可能性があって、それは、今の俺らにもあることになる。 人間さは、察しのとおり、優しさだけではないだろう。 他の原人には、別の人間能力があったのだが、結果優しさが残ったのかもしれない。優しさは社会進化を促すし、個人世界も掘り下げ、広げれるからな。 その他原人たちの能力が何であったか知らんが(同じ優しさであった可能性もある)、その淘汰、混血の中で、今ある優しさが生まれてきたのかもしれない。 結局、優しさや、以前にゆった宇宙性からはあまりはなれることが無かった考察になって、残念でもあるが、まぁ、少しなりのなんかにでもなるかもしれん。 回答者のほうばかりが得ている気もするが。 そうだとしたら、それは愛嬌ゆうことに。
ツバメを見てて思ったけど、こうもりと似てる。 食べ物が同じせいか?こうもりは音、ツバメは光で獲物(ニーズの対象)を認識、感知してるんだけど、飛び方が似ている気がする。 人間が感知するもの(ニーズの対象、またはそれ以外)を、同じに感知している生物がいるなら、それは、人間と似ている面があるのではないか? また、人間が、何にも似ていない面があるならそれは何か?というアプローチで。優しさとは別の回答がでるかも。 まず、人間の感知するものから。 A・自分存在のある面(事物)〔ニーズ化可〕 B・自分に対する他存在のある面(自分ではない)〔ニーズ化可〕(事物) C・自分もふくむ存在のある面。(世界関係)〔ニーズ化不可、面化不可〕(事物背景) D・見えている存在のある面以外の存在〔知らないというニーズ化が可〕(知らない事物) D.知らない事物を感知すると言うのはおかしいが、知らないことがあるということは、イヴには分かったか?これはどうだろう。イヴに、探究心があるかどうか。 たぶん好奇心のヴァージョンアップ、分化であろう探究心は、イヴにはありえたと見る。言語が未発達でも、探究心は個人的だから。探すは他生物にもあるが、探究心は、熊が鼻を鳴らして周りを知ろうとすることや、未確認物を噛んだりしてみることじゃない。既知の事物を、さらに知ろうと、見ようとすることだ。食いもしないバッタをバラバラにしたり、物をぶつけたり、水遊びしたりすることが、そういうものの一端だろう。遊びの破片としてありえる探究心だ。子供はイヴに遠くないと思う。砂浜の、砂と水を一緒に混ぜて投げると、砂の水玉ができる。色々して見る。 C.事物背景。これはどうか?イヴに分かったか?D.の延長で、分かったのかもしれない。寝に入る前の状況で、感知してたかもしれない。悠久にあると言ったようなものを感じたか?優しさがあったとするなら感じれるが、これは置いとこう。 B.自分に対する他存在のある面。むずいな。あるものを、いろんな角度で見れていたか?D.とはまた違うのかもしれない。オランウータンが、バナナ?の葉で雨宿りしてたから、遊びの一端ではある。オランウータンはほとんどずぶ濡れてたんだよ。明らかに。だから、あれは、雨をよける傘ではなく、雨を他の角度で感じるための葉っぱなのではないかと考えれる。傘ではない。 遊びの中で、様々な角度で物に触れえたのは事実であり、探究心が芽生えるのも想像しえる範囲だと思う。物の変化を見て、それに他の影響を明らかに見れる。イヴなら。これが進めば、茎が折れれば草が枯れることも分かる。これらの発見と、自分にある他のニーズとを結び付けれたかどうかは、わからん。(草を枯らして、暖かい寝床をつくるなど。)ありえるが。 A.自分存在のある面。怪我を見れる。それは犬にでもある。ここで言うのは、少しなりとも、自分のパーソナリティを認識できたか?ということだ。イヴが。 砂漠にいながら、森にいた時の状況を思い出すことができたか?熊や犬、蜂の帰巣本能的能力が、言葉少ないイヴの顕在意識に現れたか? 砂漠にいた自分を、森にいる自分に見れるか? これができれば、砂漠での経験も、森で活かせる。 生息可能範囲がかなり広くなる。水を運んだりできるようになるかもしれない。道筋が非常に多くなる。 固形物は猿でも犬でも運べる。水はどうか?水のみ場で水はのめるが、巣に持って帰って子供に与えれるか? 遊びの力というのは、非常にイヴに影響を与えているだろう。また、イブが、分泌物や便によるマーキングなどをしていた可能性は少なくないと思う。 鳥山を見て、果物のありかを悟ったかもしれない。そういう追跡能力を持ちえただろう。 アナグマに蜂の巣のありかを知らせる鳥もいるくらいだからな。 ・A~Dふまえつつも自由に。イヴに似ている生物について。 休憩。 イヴは、快感をえれるキャパが、他の類人猿よりも多かったのかもしれない。生きる世界がでかい、生き方が多様でありえてたってことだ。
言葉で観えるのは、他人の思い出だと思う。 言葉をほとんど持たない時代に生きたイヴの意味は、思い出を大切にできた、思い出の世界をまとうことのできた、心のあり方にあるのか? 優しさというのは、モノというよりも、あり方なんじゃないのか? 無数のものに、近くのものに、遠くのものに、共鳴できる、いろんなところにあれる、心のあり方。 言葉は、後世に、あの人に、伝えたい。 そういう思いによって繋がれた、優しいものだったはずだ。 つまり、オリジナルの思い出から、次の人へ手渡し。 しかし、リアルタイムではない思い出が蓄積されていくと、良し悪しは別に、こうであればいい、こうして欲しい、人にたずねたり、そういうような思いを構築できるようになる。蓄積された思い出の世界によって、シュミレートできるからだ。 進化した学習だろうか。 自分の思い出、他人の思い出を問わず、思い出とともに生きれるのは、すばらしいことだ。 それがまったくなければ、生きるのは簡単ではない。 しかし、思い出のままに、思いのままに生きようとするのは、いただけない。 それは、今を生きてない。 まして、他人の思いのままに生きるなど、もってのほかだ。 ミームで暮らすということは、他人の思いのままに生きることになる(いいように利用される)かもしれないという、少なからずの危険がある。まして、現代経済社会のような、ミームの中で暮らすようになっては、既にそうなっている可能性が高い。 一見、自分の道が、自分の思いが、自分に厳しいように感じても、逃げない。 それができるなら、安易なミーム(古今問わず、他人の利己的な思い)の誘いにも乗らなくてすむんじゃないかな。 今まで見てきたミームの多くは、今思えば誘惑であり、優しくは無かった、。 残念だが。 将来。 きらきらミームも、利己的ミームも、ともに目立たなくなると俺は思う。 なぜなら、皆、自分の思い出を大切にするようになるから。自分の言葉を、大切に思えるようになる。 ミームは、特に人語は、変わるんじゃないかと思ってる。進化する。 今なら、幸福とは何かを論じたら、本の一、二冊はすぐだ。 でも、そういうことが無くなる、とか。それぞれの私的言語が、統一の言語ゲーム上できちんと機能する。君の言う「サル」と、俺の言う「サル」が、今では、違う。未来には、全く違っても、意思が通じる。名詞が無い。名辞が無い。全く同じもの的言語を、それぞれの感じ方で感じれるようになる。圧倒的な多様性と、その正確さを、言語が得るわけだ。 嘘をつけば、嘘であることももちろん伝わる。正確だから。隠し事も、隠しているということが伝わる。内容は、もちろん隠れている。 「嘘ついてるんだけど、ほんとのことは言わない」 「隠してるんだけど、ばらさない」 こんな内容の会話が、論理が壊れること無くなりたつのでは?もちろん名辞が無いから、あやふやというのが無い。その状態が、はっきり伝わる。あやふやだったら、言語の波形もあやふやになる。よろめいたりするんじゃないか?(笑。 意味の明確でない共同幻想型の使用の概念というよりも、波動的な、言語体系。もの的言語。本音の形。(自然数とはいうが、別に自然界に数があるわけではない。数える者がいて初めて、数があるからな。自然界には、流れはあっても、同じものは二つとないから。) 本も、波で読む。字とか、そういうのじゃない。 もっと、大容量の言語。 自然体に近い言語だ。 歌もそこから来てる。音、波だから。 ちょっとSF系の思想になったが、。 モノ、感情、諸々を波形で読み取り、その波形をそのまま伝達に転用する。 無造作に散らばった、本音に疎いミームは、一般的に、人間に見放される。 もちろん、そのミームを使ってきた落とし前というか、後始末というか、供養?というか、そういう行為も、一部の人間と、自然がするだろう。 汚染された自然を元に浄化するのは、一部の、そういう思いを強く持った人間と、自然だと思う。 別に、それがえらいわけじゃないが、。 きっと、人の、この星の未来はすばらしい。 みんなが、自分自身の本当の思い出を生んでゆき、そして、他人の優しい思いを大切にできるようになれば。 >カワセミです。 いいところに住んでるな。 俺んちは、場末の都市だ(笑。 海を渡って来るツバメとか、回遊魚にも申し訳ない。 もう夏やのに、多くの人は死んだように寝てて、俺はつまらん。蛇はちゃんと起きてるけど。期待するのはもうやめだ。 生活なんて、生きる気になればどうにでもなるんよ。 生きることに馴れ馴れしいのは、最高にうっとい。 >森羅万象をリアルタイムで把握するために 顕在意識に多くのキャパシティが必要なわけです。 それは 現実がよりはっきり観えることを ・・ 人類は、ちゃんと自分の能力を使えているのか? 顕在意識をよく使うと、そこの領域が広くなるとか。脳も筋肉みたいな感じで。 神経だし。頻繁に使えばより敏感に。 おれは、キャパシティの増大よりも、見方の違いやと思う。 どうやって今ある顕在意識の「機能」を、発揮状態にするか? 潜在意識や、森羅万象との連携というか、それらが はっきり観えることを可能にするんじゃないかと。 関係性、因果関係をモノ的に見る見方の獲得。 そして、リアルタイムで動いている関係性を、観る。 両方を兼ねて、より綿密に、かつ全体が見える。 思い出によって、つまり、かつて見たことを思い出すだけではリアルタイムには見れない。 だけれども、明確に見るには、思い出も必要。 なぜなら、思い出(言葉ではなく)は時間を見れるからだ。ただし、思い出で観れるのは架空の時間だが。 たくさんの思い出。それとともに、 静かなる内部(因果関係などの関係性)を、動なるモノ的(観測者も投じた総体として、石ころの内部に観測者を見るように)に、また、静かなる外部(遠方の風景など)を、動なる関係性(自らに感じるヴァイオリズム、季節)に投射できるような見方があれば、森羅万象を、リアルタイムで的確に観ることに、近づける。 と、思う。 ここでいう森羅万象を見るとは、森羅万象を知っていることに他ならない。それは、未来を予測したり、過ちを正したりとか、そういうことではなく、まさに、「みえている」、「わかっている」ということだ。 遺伝子を見つけることと、森羅万象が見えることとは、ちがう。見つけるとは発見であり、「見えている」ということではない。 見えているとは、その見えている現実に、理由を兼ね備えているということだと思う。 進化した発見かな? 凄みは勇気を凌ぐ。 日本のつばめには夏風を感じるな。流線型。 それに、ツバメは稲妻的に速い。疾風。 地上最速、隼よりはやい。 最高時速340kmだす種もある、らしい。ほんまかいな。 しかし、100kmで直角には曲がれない。 きららっ!って感じで目につくわけではない。 せせらぎにはねる日差しを、そのまままとっているような、玉虫色の輝きか。 ツバメは、空中静止できない。でも、海を渡れる。いろんないき方があるな。 生き方が違えば、姿も変わる。 尊敬できる、共に生きれる友だちだ。 人間が共生できない他生物はいるだろうか? たぶんいない。微妙なところがウイルスだ。 >・・・行動の差が 運動能力を分けたと考えられます。 いろいろ考えれそうだな。先に、今まで無かったある能力の片鱗かなにかを、獲得する場合もありえるからな。 翼が先か、飛ぶことが先か。 必要が先か、あり方が先か。 ↑こういう考え方はむしろ進化を語る上では末端ではないか? その根幹に、同時という要素は、必ずあるだろうな。 リアルタイムだ。優しさもそうだと思う。 今の望みが、あり方であり、それを実現する行為、生き様か。 他人の思い出に振り回されると、今の自分が本当に何を望んでいるのかが分からなくなる。 進化もない。他人の思い出に合うように、歪に変形するのかもしれない。 つまり、生きれない。 少なからず現代人は、半死に状態のことも少なくない、といえるだろう。 >ほっぺは赤いんです。 あの赤はそれの変化か。 なんか、自分の言語が喋ってる間から廃れていくんだけど、それが、今はいいことのように思える。なんか、おれの言語が味気ない。 そのうち、意味のあることがいえるようになるような気がする。
静なるものとは、止まっているわけではない。 厳密には、静かに動いているわけだ。 遠い時間を生きているとも言うべき、祭りの真っ只中の、静かな叙情を感じる瞬間。 遠い時間を「も」行くもの(季節や、天体の運行(外的宇宙)をふくんだ空など)とは、明らかに情報量が巨大で、そのために、遠くなる。それを捉えるのに時間がかかる。 それを、そのままに時間かけてたら一生が終わってまうから、そうならなくても意味を発揮するように、遠くの距離として把握するわけだ。 認識のテクニックというか、そういう手段で把握できると思う。 つまるところ、進化した人間性を語る視点というのは、今の人間をまじに猿人と見るようなもので、非常にやりにくい(笑。 まぁ曲りまくってまかり通る、に、やっちゃうんだけど、。 見かけ上の優しさではない。 それはそうだ。 激しさが、優しさの反対とはあまり思わない。 激しさとは、短い時間、距離的に近いものであり、動きが激しい。 太陽だって、地上から見ればさんさんと、普遍的に輝くが、棍棒を使うような距離の、近くへ行けば、それはもはやかつての太陽では無く、そこは太陽の世界であり、人などお呼びのところじゃない。 激しいとかそういう次元じゃない(笑。 遠い時間を行くものを近くに、体感的に捉えると、そうなる。 だから、遠い時間を行くものを捉えれる優しさは、激しさの進化形だと思うわけだ。 だから、進化した人ではないが、人間性を含みつつそれを凌駕した存在は、優しいというよりも、、だからある種の宇宙性だと、思った。 夜空に見つめられる感覚。 その存在に見つめられると、そんな感じになると思う。 どんな感じかって、俺の感じたところ、ウレシ悲しい。 夢中で喋ってる 自分もいた かたっぽの耳で 聞いてた 窓が開いてたっけか Black Birdを繰り返して 穏やかな季節の 部屋に入ってたはずの冷たい空気 感じれてなかった そんなに夢中で 喋ってたんだね ただ 傷ついた翼で 飛ぶことを覚えたのか? 空気が手に触れて 何かに変わっていくと同時に 何かを残していくようで *低く飛ぶツバメを見て思ったんだけど(ブラックバードとは関係なく)、 暗く輝く 背は青 あの飛ぶツバメ。 やつの背中は青い! ツバメを、今まで思ってた以上に、美しく感じた。 知らんかったわ(笑 いままでは、飛ぶ姿だけを見ていた。 今年は、その飛んでいる色まで見えた。 瑠璃色。 いいね。 こんどは、瞳とかも見れるかな。
人類が次に獲得する、人間らしさはなんだろう? それは、今の人類にも、あるような気がする。 チンパンに、少しの優しさがあるように。 倫理的話になるが、 恐怖を克服する勇気、 全てを包み込む愛、 それなりの知恵、 遊び心 こういったものは、現代、全人類が特に目立って発現しているわけじゃない。 その本質は誰もにあるような気がするし、場合によっては、他の動物にも、あるかもしれない。 勇気とは、けたたましさではない。 どれも、優しさがあって始めて発現する能力ではあるが、。 次に獲得する人間性は何か? ある種の宇宙性ともいえる何かが、人間に現れるんだと、俺は思う。
お礼
●人間性とは 言い換えれば 人間に生まれつき備わっている(精神と肉体)在り方や能力を指します。 つまり わたしたちが 現代において普通に 行っている行動・活動・在り方を仔細に分析・考察してみると 人間性に行き着かないものが多くあることに気付きます。 それは ミームにより成されているからです。 新しい人間性を獲得するということは 進歩ではなく進化に匹敵します。 最近の研究で人間は深海をも汚染してしまって いることが報告されました。それにより 深海までの おおくの多様な生物たちが人間が作り出した物質により 絶滅したりバランスを崩したりしていることが 危惧されております。 ミームの成した功罪を検証してミームにより 未来をキラキラにしようとする方向はますます 加速するでしょう。その逆に利己的な方向に進む 流れも加速するでしょう。結局 自然を破壊しつつ その結果として自分の首をしめて バランスが 保たれるという現在の延長線に未来があるような気がいたします。 さて 人間の進化を考察することはとても 難しいことなのですけれども 敢えて言うならば・・・。 人間の顕在意識は 一説には100ビットしかないと いわれております。これは 瞬間に記憶把握できる 言葉の数に匹敵します。つまりイメージのように おおきなデータは 全て潜在意識下で処理される ということを意味します。自我とは視点である 可能性があり キャパシティを持たない可能性が あります。顕在意識のキャパシティが1Kビット くらいで自我が100ビットくらいになったら 反射的な思索や行動は失われるでしょうけど 人間より勇気や愛や知恵や遊びに満ちた存在が出現する 可能性があるのではないでしょうか? いずれにせよ その存在は 人間よりもっと 「やさしい」感じを漂わせると思います。
補足
●進化したやさしさとは 「なまけもの」のやさしさではありません。 なまけものが どれほどの知性を含んで あのようなゆっくりとした行動になるのかは わかりませんが そのような外見的なやさしさ よりも 森羅万象を把握した上で起きてくる 「やさしさ」を進化したやさしさとイメージしておりますので そのようにご解釈ください。 森羅万象をリアルタイムで把握するために 顕在意識に多くのキャパシティが必要なわけです。 それは 現実がよりはっきり観えることを 意味しているのです・・・。
今晩は。 話の途中に割り込むのに躊躇をおぼえながらも書き込みます。 チンパンジーのアリ食い行動は有名で 私もたいしたもんだなぁと思って見入ってしまいます。 ところで、沈む夕日を眺めるチンパンジーの報告を聞いたことがあります。 日没になると一人もとい一匹出て行って丘の上にたち、 涙しながら・・・というのは嘘ですけど、じっと夕日を見つめるのだそうです。 夕日を見つめるサル・・・ちょっとかっこいいと思いませんか? (一生懸命参考サイトを探したのですが、どこだったか見つかりませんでした。孫引きではありましたが、真面目なサイトだったと思います。) H-hokoさん的には、こんなサル、どう思いますか? 話の途中、お邪魔しました。 また楽しい話題を期待してます。
お礼
●夕日を見つめるサル それはもう人間とサルの 境界ギリギリに存在するサルの在り様だとおもいます。 SONYのCMで サルがウォークマンのヘッドフォンをつけて じっと佇む シーンがありました。 わたしはCMの最高傑作と感じる表現のひとつです。 あのCMで表現された世界は 人間が人間であることの証 人間が人間であるための初めの一歩だと感じるのです。 夕日を見つめるサル 抱きしめてあげたくなってしまいます・・・。 ご回答ありがとうございました。
補足
●実はイヴが類人猿と離別した要因として挙げた 「やさしさ」とは わたしの認知科学的な 考察の現時点でのひとつの結論なのです。 ご紹介いただいたサルの夕日を眺める行動が どのような事実なのか 深く観察してみる 必要はありますけれども。 人間のそうした 対象にこころを添わせる行動は 顕在意識のなかにある二重構造に由来していると おもいます。感情や快不快といったような ホルモンでコントロールされていて言語を使い 論理的に考えることのできる部分と いわゆる自我とよばれるそれを俯瞰できる もうひとつのフィールドの二つです。 わたしが「やさしさ」と申し上げておりますものは この自我が 対象に寄り添う感覚なのです。 サルの夕日行動が人間的な根拠に基づくものならば サルにも自我が存在するかもしれないひとつの 兆候としてとらえることもできます。 いずれ 現代にいきるわたしたちもそうですけれども 自我を機能させて あらゆること 自分さえも 客観的にとらえる姿勢こそが 言語を爆発的に 進歩させたのではないか?という仮説に変化は ありません。サルも夕日にこころを添わせる 自我が存在すると仮定するならば その自我が さまざまな日常の出会いに機能するように進化 していきさえすれば 将来的に人間のような 存在になり得る可能性はあると思います。 この問題に興味がおありでしたら 認知科学で 検索してみてください。参考になると思います。
>叙情とはきわめて個人的なものです。 事実としてはそうなんだけど(笑。 個人というものの考え方の余地は、まだある。 それには、世界が関わってるからな。 脳科学が一、二冊進んでも、俺のいう世界を具体的にみれるかは分からない。たぶん見れない。脳科学が、脳科学を俯瞰したなら、そのときはきっと、見れるかも。そんな未来も、遠くない。 >人間の叙情の捉え方もしくは 無関心にかかわりなく 対象は存在していて その存在は あらゆる叙情をも含んでいると 考えるのが最も懐が深い考え方でしょう・・・。 妥当だな。今というのは、ことの大小に関わらず、最古にして最新、かつ永遠の窓口なわけで、そこを生きる数多の生物は、人を含め、その存在自体が宇宙的であるのはもちろんだ。 人の、捉えるというところには、その行為に対して、宇宙の圧倒的な微動にしない深淵を意識してしまうこともあるが、一人間や、一生物を一機構として平たく見れば、それは宇宙なわけだ。あたりまえだけど。 叙情と捉えるところには、人がいるわけだから、対象の内在的な叙情源が、共鳴をきっかけに、その人の内的叙情として、個的に現れるので。 しかし、個人的とはいえ、その当の個人にすれば、非常に、溢れる、生まれる感というか、すぅっと満たされるというか、こう、「あぁぁ」のような、君の言うところの「癒されるような感覚(こっちのほうがいい表現だな。)」は、あるしゅワールドを感じているような時もあって、パーソナリティに現れているにせよ、また別の膜の、パーソナリティによって感覚するもののような気がする。 個とは、上下の無い階梯であり、水面に広がる幾層もの波紋状のようなものと仮に見てみると。 その境界は、常に、電磁的な、波動的な、だけれども、喧騒などではない、行き来があるような気がする。その素晴らしき行き来が、「あぁぁ」の意味の一面なのかもしれんなぁと思う。 >●アートについては 以前もここで回答させていただいております。 だからこそ、話がしたいねん(笑。 >アートとは 人間が善し悪しを判断する能力を高めることのできるモノです。その効率の高いモノが芸術性が高いと言えるわけです。 真善美か。 願い、いのり、人のそれらはアートだろうか? それとも、アートが、願いやいのりの一端か? 何かが気になる、ある人が気になる。 ナメクジの目玉が引っ込んだりのびたりする、あの半透明な体をかじりたくなる。 そういう衝動というか、行為の起源。 それらが何らかの形に形象されたとき、いのりや願いは人の心像として「おこる」のではないかなぁとおもう。 あれに見る純粋さというのは、自然に見る純粋さに、遠くない。 だけれども、非常に人間的な、清い、澄んだものを感じる。 いのりと願いにはいくらかの差異があり、願いはその他生物にもあるだろうと思う。 子が巣立つとき、子が生まれたとき、子が危機に立つとき、ある程度の知的なキャパをもった動物なら、願わずにはいられないだろうと思う。 しかし、いのりは、人間にしか見られないように思う。これとアート、優しさ、人間について考える。 猿人はいのらないだろうか?イヴはいのったであろうか? 学者的に見ると、埋葬、葬送がある頃には、祈りの原型、もしくはある種のいのりがみてとれる。 象の墓場。 これはちょっとよく分からない。仲間の死を悲しむ象の心の様態は、いのりに近いものがある。嘆きか? 嘆きは猿にもある気がする。 嘆きは、少なからずの動物にはあるだろう。 しかしこう見れる。 嘆きは個的だ。 なぜか?大切な何かを失ったり、わからなくなったりした、苦悩する個が発端だからだ。 ヴェクトルが個に向いており、エネルギー源は個を発端とする、そのエネルギーが個に向かい、個に対する反射として、強烈な、辛辣な、だけれども悲しい波動が広がる。収束し、拡散する波紋のようだ。 その波紋の行く末を、本来なら自然に拡散し、解け行くはずのそのエネルギーを、ご丁重にもミームで制御し、戦争を起こすものがいるわけだが、。 しかしいのりはこう見れる。 いのりは、他者主的だ。というよりも、自他が薄い。 その力は、そのいのっている個から出るのだが、その発端は他者存在だ。それは反射ではなく、ごく純粋な、相関によって、まるで雨が降るように、未来から手紙が届くように、日が差すように、エネルギー移動が起こる。それは、いのりの対象に合わされる。 風に運ばれるように、だけれども確かに。 はっきり言ってしまえば、いのりが届くか届かないか、それは、分かるものではない。答えがあったり、疑問があったり、そういうものではないからだ。 いのったという、そういう行いがあったという事実が、あるのみだ。 嘆きに関しても同じだが。 しかし、人間の場合、自然というあり方から離れてしまった存在の場合、(ミームの黒幕のせいかもしれないが、)嘆きは他者におおきなな影響を与える。 だからというわけではない。嘆きが通るのならいのりも通ると思っているわけではない。が、 俺は思っている。 いのりは、届かない願いだ。 いのりは、いのりとしてあるだけであり、願いではない。 いのりはつよくやさしいが、嘆きははげしくもろい。 嘆きが、幾らかを経て、いのりになるのではないか? そのエネルギーの本質は同じではある。 反射があるかないかだけだ。 つまり、意識のあり方、向きの違いだ。 アートや人間性まで話がのびないな。 休憩するわ(笑。 いのりはやさしさや、その他あるであろう人間性を高めるか?それとも、ある種のやさしさ、もしくはその他あるであろうある人間性の現れか?前者ならアート。 後者なら生き様の一シーンだ。モノになりうるが、それは自体は、モノではない。アートもだけど(笑。
お礼
●願い 嘆き 祈り について・・・。 願いとは 儚いものです。 祈りとは 一途なものです。 言い換えれば 願いとは 言葉では表現できない世界。 祈りとは 言葉や形式で表現された世界。 儚い願いすら届かないと感じたとき嘆きがあります。 願いは あらゆる生物・物質に存在していると思います。 それほど儚い・・・。 それは 幸せ・健やかさ・正しく在ること。 ありとあらゆるものが 真の意味で嘘・偽りなく この世に「在る」こと・・・。 願いは祈りになります。 願いはアートになります。 祈りは願いに比べて 一途なものですが アートは 一途なものもあり 儚いものもあり その現れ方は 人間の精神の表れ方の全てです。 やさしさとは 願いと祈りの中間にある こころの確かさと言うことも出来るかもしれません。
>●もし話が噛み合っていないと感じられても お気になさらないでください。 前からこんな感じやったやん(笑。 >わたしの経験ではかみ合わない話題が それぞれに延々と続くのがいちばんナチュラルな会話の形態だと感じております。 気持ちがいいね。理解よりも、誤解がないというのがいい。 確かに、少し気にしてたかな(笑。 ありがとう。 >血は決して流しません。これは約束します。 一滴の血も流しません。 最高の約束だな。 >UCMの理念 それを「やさしさ」として提唱しようと 考えているところです・・・。 社会脳は、優しさの結果なのか、それとも、社会脳がやさしいのか。 社会脳に優しさは由来しないだろうな。 それは、一人一人という世界に由来するから。 共鳴について。 優しさがある種の共鳴であるならば、人と人の間には、異種どうしよりも、更に深い共鳴がありえるのではないか? 癒される「ような」感覚。 それを手がかりにすれば、優しさが発端のものか、利己的なものが発端のものかが分かる。 それはいい。すごくいいね。具体的な、善い生き方を、ある面、そして現代に至ってはすごく大切な面において、示唆する。 もう一つ。共鳴であるからには、人が癒されているとき、その人を癒している対象も、癒されているのではないか? 空のある風景を見て、優しくれる。 その時、空のある風景は優しいか? きっと、優しい、こともあるかも。 なぜなら、その時その人は、共鳴によって、風景に同化しているといえるから。優しくなった人が風景に同化していて、風景も優しくなる。 同質のものがその風景にあるなら、その風景も、その人を、その人を通して感じている。とも、考えられうる。 てんとう虫を、みてて、優しくなる?優しいというより、?とともに、うはうは嬉しくなった。叙情といえるだろうか? 優しさによって、てんとう虫と、その周辺を捉え、結果、嬉しい的な叙情が起こる。 その時、てんとう虫を主体とした、それを取り巻く更なる主的世界。てんとう虫の背景。 それらは、てんとう虫、てんとう虫の周辺(草、空気など)と、てんとう虫を見る人ととの、共鳴を実現するフィールドになっているわけだが、 その人の背景フィールドと、てんとう虫の背景フィールド、その世界そのもの同士の関係と実態が、叙情を、てんとう虫、それを見る人との間に、起因しているとも見れる。 その引き金が、優しさという共鳴。 おのおの見える主体(てんとう虫なり、人なり、風景なり、そのシーンの主体)は、それぞれに世界を引き連れており、それら世界同士が絶妙に、ここで言うてんとう虫と、それを見る人の叙情という、主格的な現象を、ともに起こしている。 見られているてんとう虫は、ともすれば恐怖を感じているのかもしれないし、人が、見えてないのかもしれない。 人の嬉しさはてんとう虫に伝わることがあるなら、その世界という背景どうしの関係によって伝わる?とするなら、人の内的叙情とまでしかいえない叙情は、世界関係により、形、エネルギー変換され、てんとう虫の世界に投射される。 すると、それがまた、その人の背景とてんとう虫の背景の関係に影響を及ぼし、叙情は更なる様態に変化する。 人と人の間なら、それは顕著に分かる。 叙情と叙情の相互作用。 叙情とは、明らかに、乗数的な、だけれども生きた動きのあるものではあるが、背景という遠い時間を行くものがかかわることによって、安直に説明するのは不可能な現象になっている。時間が、統化されるかのような雰囲気がある。そこには確かに、「今」的なものが、ある。過去の遺構に叙情を感じるにも、足行く先に、叙情を感じるにも、。「今」的なもの、それは、真には、今といって片付けるには、惜しい言葉だ。 叙情。 深い意味のある言葉だ。 宇宙を感じる。人間の感応、表現であるにせよ。 人間がいることで叙情はあるのだが、叙情を感じれるものが、あってこその、叙情だ。 叙情もまた、あり方によって現れる、遥かなる世界に融け込む瞬間なのかな。 これにも自然というあり方が、俄然存在する。 きっかけとなる、同質と思われる共鳴とはなんであるか? じっとしていても、得れるもの、か、。 次は、人間性を高めるアーツ周辺の観点から、人の由来を思ってみたいな。 アーツ(Arts)と、優しさと、人間性。 俺なりに、今までの話の筋をたどったうえで考えると、Artsの原点に優しさがある、関わっているのは容易に分かる。 哲学がArtsであるというのも分かる。 人間性を高めるからな。 Artsよりも大きいカテゴリ、を想定すると、、、 ああ、休憩するわ(笑。
お礼
●アートについては 以前もここで回答させていただいております。 アートとは 人間が善し悪しを判断する能力を 高めることのできるモノです。その効率の高いモノが 芸術性が高いと言えるわけです。 ですから ナメクジの這いずった軌跡も アートになり得ます。 そこで培われた善し悪しを判断する能力を用いて 哲学はなされているわけです。 叙情とはきわめて個人的なものです。 例えば芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」 この表現で伝えられる叙情を 静けさをしみじみ感じる叙情と捉える方もあれば 宇宙の広がりに震える叙情と捉える方もあります。 いずれにしても 人間の叙情の捉え方もしくは 無関心にかかわりなく 対象は存在していて その存在は あらゆる叙情をも含んでいると 考えるのが最も懐が深い考え方でしょう・・・。 つまり宇宙とは 人間が考える以上に 無限の内容に満ちた実在だと言えると思います。 わたしたちは やさしさにより その実在の端々に触れ そこに叙情を観るのです。 「やさしさ」の反対は「はげしさ」です。 はげしさは 時に冷たさも含みます。 生きるとは 他の生物もそうであるように 「はげしさ」を伴うものです。 ですから わたしははげしさを否定するつもりは まったくありません。ただミームにより そのはげしさが不自然に増幅されている 現状を克服するために やさしさに着目している わけなのです。やさしさが共鳴によるものだと しても 共鳴することで感応したとしても 基本的にその発信源には影響は与えません。 ただ発信源が人間や人間の「やさしさ」を とらえることのできる生物の場合は お互いに共鳴が起こる場合があります。 それは たとえばもらい泣きとか ペットと気持ちが通じたような感じを覚える瞬間です。 >癒される「ような」感覚。 それを手がかりにすれば・・・ これは 貴重な発見でした。
お礼
●ツバメの背中が青いことに気づいたのは とてもいいことです。 自分で観ることが いちばんまちがわないからです。 ことばを受け入れることが その後の世界を ことばの力で変えてしまうからです。 例えば ツバメの背中が青いという言葉を 受け入れると ツバメを見るとき背中の青さに 意識を奪われます。自分で観たことと 言葉により観たことでは 違うのです。 自分の力で 新しいものを観ることは そのような意味で とても大切なことなのです。 小学生のころ 橋の下に落ちていたツバメの雛を ティッシュの空き箱に入れて ペースト状の チューブに入った餌で 飛べるようになるまで 育てたことがあります。 ほっぺは赤いんです。部屋の中を飛び回るように なったので 自然に返してあげました。 ツバメの飛翔は 流線的です。 身体や翼の形が その飛び方を感じさせます。 時速100キロくらいで 直角に曲がれる鳥を 知っていますか? カワセミです。我が家の斜面を低空飛行で飛んで来て わたしに鉢合わせになると 90度進路を変えて ぶつからないように飛ぶのです。 驚きの飛翔です。空中に浮遊する蚊を食べるのと 水中の生きた魚を空中から獲る行動の差が 運動能力を分けたと考えられます。 ツバメの雛には 無数のダニが付着していました。 美しいだけではなく かわいいだけではない 自然の営みの凄みを感じたものです・・・。