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叱られないと 勉強しない
『叱られないと 勉強しない』 の対偶は 『勉強すると 叱られる』 というのは誤りだそうで、正しい対偶は 『(今)勉強してるのは、(過去に)叱られた(から)』 だそうですが、納得いきません。 『叱られない』の反対は『叱られる』ですし、 『勉強しない』の反対は『勉強する』なので、命題の対偶を忠実に取 ると、『勉強すると 叱られる』が正しいと思いますし、 『勉強してるのは 叱られたから』というのは、対偶を正しくするた めに、わざと時制を都合の良いように解釈しているように思えます。 どなたか、へそまがりのわたしが納得の行くような説明をしていただ けないでしょうか?
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adagioさんの質問の意図は, 「論理学は本来, 『AならばB』といった文のAやBに どんな内容が入ろうとも 共通に成り立つ性質を研究して, 推論を機械的に行なえるように するのが目的であるはずなのに, 内容によって個別に対応する必要があるのは おかしいのではないか?」 ということですよね. その疑問はもっともだと思います. しかし, 「『Aでない ならば Bでない』と, その対偶の『A ならば B』とは真偽が一致する」 という定理が成り立つためには(他の定理もそうですが), 「AやBには『命題』が入る」 という当たり前の前提があるということを忘れてはなりません. ここで命題とは,「真か偽かはっきり定まる文」のことと理解してください. この例ではAは「叱られる」であり,Bは「勉強する」ですが, これだけでは明らかにAやBは真偽の定まる文とは言えません. 少なくとも誰が叱られて誰が勉強するのか,という主語が必要ですし, また「叱られる」と「勉強する」の時間関係はどうなっているのか, あるいはそもそも時間関係があるのか,ということも明らかにする必要があります. 最低限上で述べたことだけでも考慮してこの文を命題らしく書き直すと, 「『太郎君が,前に勉強したときから現在までの間に少なくとも一度は叱られた』のでないならば, 『太郎君がこの先勉強することがある』のではない」 となります. つまり,せめてこれくらい文章の意味を厳密にしておかないと, そもそも命題論理の定理が適用できないのです. このとき文章が少々不自然になるのはやむを得ません. 上の対偶をとれば 「『太郎君がこの先勉強することがある』ならば 『太郎君が,前に勉強したときから現在までの間に少なくとも一度は叱られた』」 となり,何の問題もありません. しかし,上の命題は 「叱られないと勉強しない」という文章の たくさん有る解釈の中の, (おそらく最も現実に即した) 一つの解釈に過ぎません. この文章を 「『太郎君がこの先少なくとも一度は叱られる』のでないならば, 『太郎君が現在までに勉強をしたことがある』のではない」 と解釈することもできるわけで, どちらの解釈が正しいか,ということは 論理学的には決められないはずです. あとのほうの解釈で行けば,対偶の意味はまさしく 「勉強したら叱られる」になるわけです. 対偶をとるときになって初めて 個々の意味を考慮して都合をつけているとすれば, それは確かにうさんくさいことだと思いますし, あってはならないことです. しかし,もとの文章が 「そもそも論理学で扱ってもらえる資格」 を持つようにするには, 個々の意味を考えた上で それを厳密にしておかざるを得ない, というわけです. 参考になれば幸いです.
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- stomachman
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「AでないならばBでない」の対偶は「BならばA」。 しかし、「叱られないと勉強しない。」のどこに「ならば」が入ってます?つまりこの文章のまんまで形式的に対偶を作ることはそもそも不可能です。 普通の命題論理に乗せようとすると、文章の意味を保ったまま、ふたつの「命題」を「ならば」で繋いだ形式に言い換えなくちゃいけません。自然言語から命題論理への変換をやる必要があるわけです。(このような変換はたとえば「リンゴが2個あります。ひとつ食べたらのこりは幾つでしょう」を「2-1=」という式に変換し、答の1を「リンゴ1個」に逆変換する、そういう操作に相当します。) ●ではやってみましょう。 「叱られないと勉強しない。」は「叱られていないのに勉強している、ということはあり得ない。」という意味であり、(すなわち「叱られたって勉強しているとは限らない。」ということをも含んでいます)この点に留意すると、 「『叱られた』のではない、ならば、『勉強している』のではない。」 という形式に変換しても意味は変わっていないでしょう。 するとその対偶は 「『勉強している』、ならば、『叱られた』。」 である。再び普通の言葉に戻すと、 「勉強しているなら、叱られたに違いない。」 これをこんどは論理式でやってみましょう。"¬"は否定、"∧"は「かつ」、"∨"は「または」"→"は「ならば」の記号を使って、命題論理で表すと、 (特に、A→B は、(¬A)∨Bとも、¬(A∧¬B)とも等価です。) S,Bをそれぞれ、S:『叱られた』、B:『勉強している』、という意味の命題とするとき (¬S)→(¬B):『叱られた』のではない、ならば、『勉強している』のではない。すなわち (¬(¬S))∨(¬B):(『叱られた』のではない)のではないか、または、『勉強している』のではない。すなわち S∨(¬B):『叱られた』か、または、『勉強している』のではない。すなわち (¬B)∨S:『勉強している』のではないか、または、『叱られた』。すなわち B→S:『勉強している』ならば『叱られた』。 ●さて、(他のスレッドの回答にも書いたんですが)論理は人の弁論や推論のうちのごく一部分を取り出して形式化したものに過ぎませんから、扱えることが限られています。自然言語に含まれているいろんな推論をうまく取り込んだ論理体系(様相論理(modal logic))の研究は、まだまだ発展途上です。特に、時間経過や因果関係を扱う「時間論理」という分野は一筋縄ではいかないことが知られており、まだ決定版はないようです。 様相論理のうちで最も古典的かつ重要なのは、必然(□)と可能(◇)を区別する論理です。たとえば、□(¬A)は「Aでないことは必然である」という意味で、これは¬(◇A)つまり「Aであることは可能ではない」と等価です。¬◇(¬A)「Aでないことは可能ではない」は、□A「Aは必然だ」と等価です。この記号を使うと、普通の命題論理よりももうちょっと自然言語の雰囲気を表すことができます。 そこで「『叱られた』のではない、ならば、『勉強している』のではない。」を様相論理で、わざと遠回りをしながら変形していってみましょう。 □((¬S)→(¬B)):(『叱られた』のではない、ならば、『勉強している』のではない)は必然である。すなわち ¬◇(¬((¬S)→(¬B))):((『叱られた』のではない、ならば、『勉強している』のではない)のではない)ことは可能ではない。すなわち ¬◇((¬S)∧B):(『叱られた』のではなく、かつ、『勉強している』)ということは可能ではない。言い換えれば「叱られたのではないのに勉強している、ということはあり得ない。」すなわち、 □¬((¬S)∧B):((『叱られた』のではなく、かつ、勉強している)ことはない)ことは必然である。すなわち □(S∨(¬B)):(『叱られた』か、または、『勉強している』のではない)ことは必然である。すなわち □((¬B)∨S):(『勉強している』のではないか、または、『叱られた』かである)ことは必然である。すなわち □(B→S):(『勉強している』、ならば、『叱られた』)ことは必然である。 言い換えれば「勉強しているなら、叱られたに違いない。」 これだと少しは雰囲気が出ていませんか?
お礼
stomachmanさん、いつもお世話になります。 > しかし、「叱られないと勉強しない。」のどこに「ならば」が入ってます? > つまりこの文章のまんまで形式的に対偶を作ることはそもそも不可能です。 「叱られないと勉強しない。」は、「叱られない ならば 勉強しない。」と 同等である、ということまで否定してるわけではありません。 > この点に留意すると、 > 「『叱られた』のではない、ならば、『勉強している』のではない。」 > という形式に変換しても意味は変わっていないでしょう。 さりげなく書いておられますが、『叱られないと』ということばを「『叱られた』 のではない」というように過去形に変換していますよね?ポイントはここだと思い ます。「叱られなかった なら 勉強していない」という命題なら、「勉強してい るのは 叱られた(から)」という対偶を作ることに異論はありません。『叱られ ない』という日本語が、現在形にも過去形にも取れるために、対偶が2通り作れる ので矛盾が生じたと思うのですが、みなさまが書いておられるように、文意を正し く理解して対偶を作れば、「勉強しているなら、叱られたに違いない。」という対 偶のほうが正解であるということは、理解できるのです。それなら、『叱られない (Aでない)』を『叱られる(Aである)』と形式的に変換してはいけないという ことなので、教科書の書き方に疑問を持ったということなのです。 おかげで、ずいぶんすっきりしてきました。わたしの理解不十分なところを、まだ 教えてあげようという方もいらっしゃるかと思いますが、これにて締めさせていた だきます。ありがとうございました。
こんにちはNakaさんのでいいと思います。 さて、A→Bの対偶は、Bの否定→Aの否定です。 しかし、AおよびBの時間的なものはそのままになります。質問と同じような 「お腹がすけばご飯を食べる」の場合 「ご飯を食べなければお腹がすかない」とやっちゃいますが、お腹がすくのと、ご飯を食べるのはお腹がすくのが先ですよね。 対偶を作るときもその時間差はそのままにしないといけないのです。 つまり、「お腹がすくときは、ご飯を食べる」として 対偶は「ご飯を食べないときは、お腹がすかないとき」 となります。Nakaの言っているとおり「理由」をあらわすのをつけないといけないと思います。
お礼
回答ありがとうございました。下のNAKAさんへのお礼のところに一緒に書かせて いただきました。
- Naka
- ベストアンサー率44% (527/1181)
◆Naka◆ 何人かの方もおっしゃっておられるように、「順序」、「因果」の問題ですね。 ここでやっかいなのは、「叱られないと、勉強しない」の「と」です。 仮に「叱られないは、勉強しない」という問題(こんな日本語ありませんが…)でしたら、対偶は「勉強するは叱られる」という(これもわけわかんない)になりますね。zabuzaburoさんのおっしゃるように、出題にも問題がありますが… この問題の場合、どうしても言葉の意味を無視して答えを出すわけにはいきません。 やっかいなのは、上で述べた「と」なんです。この「と」は根拠・理由を意味しますよね。つまり「叱られない→勉強しない」という意味になるんです。ですから対偶は当然「勉強する←叱られる」にならなければいけません。 これを言葉にすると、「勉強するのは、叱られるからだ」とあとの部分に「理由」を表す言葉をつける必要が出てくるんですね。 もう少し判りやすい例を挙げてみましょう。今度は「~から」を元に持ってきてみます。 「私が彼女を好きなのは、彼女が素直だからだ。」という命題を考えてみましょう。 これを「~のは、…からだ」の部分をそのまま残して、「彼女が素直じゃないのは、私が彼女を好きじゃないからだ。」とはできませんよね。因果関係がメッチャメチャになってます。 (^^;) 当然、「彼女が素直じゃなかったら、私は彼女を好きじゃない(好きになってないだろう)。」となりますよね。
お礼
NAKAさんご指摘のように、確かに『と』が曲者ですよね。 > この問題の場合、どうしても言葉の意味を無視して答えを出すわけにはいきません。 わたしが疑問に思っているのもまさにこのことです。 今までのみなさまのご意見では、次の3つが考えられるようです。 1)対偶の作り方は問題ないが、命題が正しくないから対偶が正しくない 2)命題の表現があいまいだから、対偶が正しくなっていない 3)命題は正しいけれど、対偶の表現方法に工夫がたらない で、どうやら3)に落ち着きそうです。 対偶を作るときに、いちいち理由を述べる表現を用いないといけないというのなら それでもいいのですが、それならば『AならばBである の対偶は Bでないなら ばAでない』というような公式じみた表現をすべきではなく、対偶が正しくなるよ うに理由を表わすことばを付加することも必要であるとしてくれればいいのにと思 ったわけです。 『命題が正しければ、対偶は必ず正しい。くやしかったら反例を作ってみよ』と言 った高校のときの数学教師の挑発的なことばが、未だに頭に残っていたもので。
- Astroia
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例にあげられている、「叱られないと 勉強しない」は対偶を取ることはできません。これらは因果関係を示しているもので、時間による順序付けがされています。 つまり、「叱られないと 勉強しない」の対偶は、『(今)勉強してるのは、(過去に)叱られた(から)』 でもなく、もちろん、『勉強すると 叱られる』でもなく、そもそも対偶を取ることができないのです。 例えば、「風が吹けば桶屋が儲かる」はその論理的帰結として、「桶屋が儲からないと、風は吹かない」ということには成りません。いかがでしょうか? ちなみに私は専門家ではないのであまり自信はありません。
お礼
対偶の真偽は別にして、対偶を取れないということはないと思うのですが・・。 「風が吹けば桶屋が儲かる」の対偶は『桶屋が儲からないのは風が吹かないから』で いいのではないでしょうか?
なんやよくわかりませんが、参考URLに同じような話がのってました。
お礼
参考URLありがとうございました。 これによると、『しかし対偶命題の真理値は必ず一致します。ということは・・・・・ もとの命題「叱らないと勉強しない」が間違っているからなのです。』だそう です。つまり、対偶の取り方は正しいけど命題が間違っているから対偶も正し くないということだそうですが、そういうことなら納得できそうですが、しか し『叱られないと 勉強しない』が間違っているといわれても、何かスッキリ しません。
- acky
- ベストアンサー率31% (182/583)
『勉強すると 叱られる』の反対は「勉強しない(でいれば)と、叱られない」となってしまい、元の文章にはなりませんよね?
お礼
えっと、『勉強すると 叱られる』の反対ではなく、対偶は、『叱られないと 勉強しない』で合ってると思いますが、、、。
- altonly
- ベストアンサー率19% (21/108)
「叱られないと勉強しない」をもう少し正確に言い直すと 「叱られてからでないと勉強しない」または 「叱られるまでは勉強しない」ということになりますね。 これで、「今勉強しているのは、過去に叱られたから」というふうに、時制が一致すると思いますが・・・どうでしょう。
お礼
さっそくの回答ありがとうございます。ですが、わたしが言いたいのは 文章の意味を考えるのではなく、『叱られないと 勉強しない』という 『ことば』の対偶を『すなお』に取ったら『勉強すると 叱られる』で いいのではないかと思うのです。 『叱られてからでないと勉強しない』という意味はわかりますが、 『Aでないなら Bでない』の対偶は『BならばAである』と機械的に 翻訳すると誤りとなるというのが理解できません。文章の意味を考えて 対偶を取らないといけないというところに、うさんくささを感じるので すが、、、。
お礼
わたしの質問の意図を的確に表現していただいてありがとうございます。 > つまり,せめてこれくらい文章の意味を厳密にしておかないと, > そもそも命題論理の定理が適用できないのです. 教科書では、『命題が正しいならば対偶は正しい』としか書かれていませんが、 『叱られる』や『勉強しない』みたいに真偽のはっきり定まらないものは、そ もそも論理学で論じるべきではないということでしょうか?それならば、命題 自身の適格性について(教科書は)もっと厳密な定義をすべきではないでしょ うか? > 最低限上で述べたことだけでも考慮してこの文を命題らしく書き直すと, >「『太郎君が,前に勉強したときから現在までの間に少なくとも一度は叱られた』 > のでないならば, >『太郎君がこの先勉強することがある』のではない」 > となります. ここまで言わないといけないのですか、、うーん、ますますわかりにくい気が します。 > しかし,もとの文章が > 「そもそも論理学で扱ってもらえる資格」 > を持つようにするには, > 個々の意味を考えた上で > それを厳密にしておかざるを得ない, > というわけです. つまり、正しそうにみえても『どんな命題でも扱っていいわけではない』という ことですね。なんかわかったような、かわされたような、まだスッキリしません が・・・。ご丁寧な回答ありがとうございました。