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デカルトの省察 物体について
デカルトの物体の考察がよく分かりません。どのような事なのでしょうか?教えてください。よろしくお願いします。
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デカルトのいう「物体」とは、言いかえると「わたしたちに知覚できるもの」ということになります。 たとえば2や3や二次元の平面に幅のない直線で描かれた三角形というのは、数や図形の「観念」ですから、目で見ることはできません。こういうものは「物体」ではないんです。 それに対して二個の石ころや三枚の葉っぱ、三本の直線で囲まれた土地は目で見ることができます。これは「物体」といえる。 わたしたちが感覚を通じてその存在を認めているのが「物体」である。 と、まあこれが答えなんですが、こんなことを聞いても、何がなにやらわかったような気がしませんね? だから発想を変えてみましょう。 どうしてデカルトは「神・精神・物体」を三実体としたのか。いったい何のためにそんなことを言ったのか。 ヨーロッパでは、近世に入るまで、自然の探求は神の力をとらえるためになされていたんです。ところがガリレオの登場によって、自然というのは、完全に神から独立のものとしてとらえられるようになった。 言いかえると、それまでは「神の力がこんなふうにあらわれた」「また、こんなふうにもあらわれた」「ここではこんなふうにあらわれた」と、自然を「質」としていたわけですが、ガリレオは観察や実験を重視することで、自然を数値としてとらえようとしたのです。そうしてかの有名な「自然という書物は数学的記号で書かれている」ということを言うようになるんです。 ところがここで問題になってくるのが、その「書物」に書かれている「数学的記号」が、どうして現実の自然に適用できるのか、ということです。 石が二個ある。三個持ってくる。合わせて五個、というのと、2+3=5 がなぜ同じことを言っているといえるのか。その根拠はいったいどこにあるのか。 その根拠づけをおこなおうとしたのがデカルトの『省察』だったんです。 とはいえ、ガリレオは現実に裁判にかけられています。キリスト教的自然観を否定することはできない時代でした。ですからデカルトは、数学的自然研究は、キリスト教の信仰に背くものではない、というところから、論証して行かなくてはならなかった。現代のわたしたちから見ると、何とも言えない奇妙な感じ、なぜ神の存在証明と数学が関係してくるのか、と思ってしまうんですが、それにはこういう歴史的背景があったことを押さえておかなければなりません。 そこでデカルトは、このように話を進めていきます。 わたしたちの誰もが、「石が二個」というのではなく、抽象的な2という観念を抱くことができます。この「2」は経験に寄らない観念である。ということは、数学的観念というのは、神が人間の精神に等しく植え付けた「生得観念」なのである。 自然の研究というのは、人間の感覚経験に基づくしかない。それでも、観察や実験によって得られる数学的な「量」は、わたしたちの精神によって洞察されるものである。 物体は、さまざまな諸相をとるけれども、その諸相が真の姿ではなく、精神の洞察する量的関係が真の姿である。 こうすることで、キリスト教的自然観に反することなく、自然研究と数学の結びつきの必然性を証明しようとした。だからこそ、「自然」や「現象」などではなく、「物体」という言い方をしたんですね。 以上、何らかの参考になれば幸いです。
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- owlsjp
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物理学のカテゴリーで「具体的なことを」聞いてみてはどうでしょうか
お礼
せっかく、アドバイスして頂いたのに返信が遅れて申し訳ありません。もう一度、質問の仕方を考えてみます。 ありがとうございます。
お礼
噛み砕いて説明して説明して頂きありがとうございます。参考にさせて頂きます。