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仏教に感じる矛盾について
素朴な疑問です。こういう場所で訊くのは野暮な気がする一方、一度は訊いておいた方がよい気がするので思い切って質問します。 以下は最近、私が頂戴した回答の一節です。著作権に敏感な方があってはいけないので出典を記せば、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5114865.html のNo.2です。 ここに、 >>仏教の目的は、「成仏」、つまり、お釈迦様と同じ境地、境涯に至るというです。 お釈迦様の境地、境涯というのは、お釈迦様と同じ境地、境涯になった者だけが解ると言われています。<<・・・・・(*) とあります。 私に仏教の素養はありませんが、多分、この一節は正しいのだと思います。「言われています。」と伝聞形であることからNo.2の回答者特有の認識ではなく仏教界全体に共通した理解らしいと見て取れます。そうだとすると大いなる素朴な疑問が生じます。 ・釈尊は出家し乞食生活に入りました(スッタニパータ)。 ・在家にあって帰依する者は法による供養に努めるのは勿論のこと、財物の布施によっても出家者を供養せねばなりません(維摩経、第12章「法供養」)。 さて、在俗の者が解脱を目指し精進するとします。よく精進し境地が進めば何時しか在俗のままでは修行の限界に達して乞食生活に入る必要が生じるでしょう。この結果、釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど出家者が増え、これはまた、在家が減少することを意味します。救われる者の生活(出家)が救われない者(在家)によって支えられているために釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど救われない者の負担が増え、よってまた救われる者の生活も破綻に向かいます。共倒れにならないためには圧倒的少数の救われる者と圧倒的多数の救われない者の存在を維持しなくてはなりません。救われない者の存在が条件になるのでは教えの根本に矛盾があるというしかありません。 人類の規範たりえる思想は経済的自立を主張することが必須の条件の一つだと思います。 この疑問は次のどれかに根ざしていると思います。 1 私が何かを誤解をしている。 2 (*)が誤っている。 3 釈尊は究極に於いて出家も在家も餓死してよいと考えている。 4 釈尊の思想には欠落があり仏教は人類の規範たりえない。 5 その他。 この質問は視点が非仏教徒の立場にあります。信徒向け限定ではなく万人向けの解説を望みます。また、アンケートでもないし詩歌の鑑賞でもありませんから、皆様の考えの開陳を望んでいる訳ではありません。単なる感情の吐露ではなく論理による説得を期待します。必要であれば宗派の明示を頼みます。 よろしくお願いします。
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お礼
このご回答は具体的でとても分かり易かったです。 >>普通の生活の中にこそ悟りがある。という考えが出てきました。その考えを日本に持ってきたのが道元<< >>浄土真宗には托鉢の習慣がありません。在家で十分という考えだからでしょう。<< ・ 先ずは曹洞宗(浄土真宗)に帰依する。 ・ 曹洞宗(浄土真宗)の「論」に従って道元(親鸞)の「論」を学ぶ。 ・ 道元(親鸞)の「論」に従って釈尊の「法」と「律」を学ぶ。 ・ 各自の事情に応じて教団への財物供養をする。 在家のまま解脱できるというのですから、この手順でよさそうです。他の要因を一切考えずに経済的側面だけを考えれば何の障害もなく、曹洞宗と浄土真宗は人類の規範たり得ると思います。他の要因からの検討は今回の質問とは別問題です。 また、これがdarumazenさんの主観に過ぎないのか、客観性があるのかは道元と親鸞の著作を読めば分かる理屈ですから、曹洞宗と浄土真宗に関する限り、このご回答で十分です。 有り難うございました。