※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:無宗教の人は初期佛教に近く 覚っている?)
初期佛教に近い無宗教の人達の心理とは?
このQ&Aのポイント
初期の佛教は無縁の生き方を説いており、無神論の教義に近いと言われています。
無宗教の人達は合理主義と現実主義に基づいて生きており、死や葬儀に対しては無意味と考える傾向があります。
彼らは霊魂を否定しても遺伝子のつながりを受け継いでいると認識しており、自分自身の人生を大切に生きることを重視します。
無神論という定義は難しいのですが、
(印度や日本の初期の佛教は葬儀等とは無縁であり
生きる道を説いており、教えそのものは無神論の教義に近い)
行き過ぎた合理主義 現実主義の人達の心理は
1 死ねば終わり 唯の廃棄物である(もの ゴミ)
2 葬儀も無意味 墓も唯廃棄物である遺骨が納められている石標等に
手を合わせていても何の得もないし 意味を持たない
3 衰えていくのも死も当たり前、
だから自らでどう人生を切り開いていくかだけが全てである
霊魂は否定しても、遺伝子のつながりはあっても生きている
今が全て、ある程度の目的を得れば好きな様に生きる事が
良い。
というものなのでしょうか?
私の遠縁(母の従弟ですが 年は私に近い)に当たる人は先祖代々の墓を放置
(放置すれば墓も撤収され、墓園内の供養塔に納められる)し、
その前にこれは気の毒だと思い、此方の納骨堂(合同の永代供養)に納めました が、
彼は「あんた達が好きでするならすれば良い」という感じです。
墓も時代の変化で樹木葬や海への散骨 合同の永代墓等へ納めていく、
先祖代々の立派な墓を造っても、それを存続させるのは困難だと云うのは
解りますが、この様な感じだと気の毒だと思ったのですが、私が古いのでしょう か?
彼を始め 何もしない事を公言している人は?
宗教云々以前に義理等が絡む親戚や町内 父母の付き合いも嫌う様ですし、
「心の中で思い出せば良い」という様な事を云いますが、
父母をはじめ亡き人の事を語る事も少ない様ですし、
彼は「どうせ年行って生きていたって迷惑なだけ」「衰えていく前に亡く成るのが
良い」「ある程度の年に成れば死ぬのも当たり前」と父母が死んだ時もそう云って
おりました。
それから「死んでいる人間の為に煩わされてはいけない」と云っておりました。
事実 この様な人の多くは そんなものだとある意味覚っているのでしょうか?
狂信的でないにしても その悲しみや想い出があり、その整理を付ける為に
葬儀や墓があるのかなとも思えますが?
逆に 今生きている時を楽しむ 衰えていく 死ぬのは当たり前、これはある意味
覚っているので 必要ないという事になるのでしょうか?
又 釈尊の佛教の教義に遡ると、生老病死の四苦をありのままに見つめて行った先
が覚りで、後世の者が極楽や霊山等を説いたものであり、その思想に一番近いのが 彼を始めとする「無宗教」を公言している人なのでしょうか?
ご回答戴けたらと思います。
お礼
ご回答有難うございます 無宗教であると公言した結果、その説明など、めんどくさいわけです 云われている事は良く解ります ゴミをただのゴミと思っているだけの思考が、今の社会全体の考えになりつつあるやも?とは、ココ最近、感じています 「始末」の考えが、今の日本から無くなりつつあり、その親戚の人のように「始末」と「不始末」を混同してしまう人が増えていくことに、不安を覚えますし、そこにこそ、宗教感というものが存在するのでは?と感じます その様な処から儀礼も墓参りも生まれて行ったのだと思います。 が「生と死」で「死体はゴミ「役に立たない」その様な考えが蔓延する 事が今日の状況を象徴していると思います。