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マルクスの疎外論について
現代における疎外の具体的事例にはどのようなものが挙げられますか? ご存知でしたら回答お願いします。
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- HANANOKEIJ
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懐かしい言葉ですね。今は聞きませんが。戦争とか、内戦、紛争で調べるか、格差、貧困、飢餓など人間が不当に扱われている問題をしらべてみてください。 日本の労働者の状態は、異常です。ヨーロッパやアメリカ合衆国と比べても、派遣労働者の首切りや、自殺の多さは不健全です。社会のゆがみ、腐敗が限界にきていると思います。 「疎外」「疎外論」にこだわらず、現実を直視して、不当なものはやめさせる、そういう気持ちの良い社会にしましょう。総選挙です。国民の生活をおびやかす政治ではなくて、安心して暮らしていける日本をつくりましょう。 雑誌「経済」http://www.shinnihon-net.co.jp/magazine/keizai/2009/ 「貧困化」搾取や収奪は、まだ生きていける。なにもかも奪い尽くす略奪ですね。貧困の連鎖。
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
例えば、好きな女の子がいるとする。結婚して、新居を構え、一家の主人として家族を養ってゆきたい。だから、毎月の給料から十万円ずつ貯蓄をして将来に備える――こんなふうに考えている男の子には、貯蓄によって寂しくなった懐具合や、飲みに行こうという同僚の誘いへの断りから生じた「疎遠」がある。ところで、この疎遠は将来に備えるという「思い込み」、言わば観念的なものです。 ではこの観念について、少し、見方を変えてみる。 結婚式にせよ、住宅にせよ、生活にせよ、初期の物入りについてはローンで賄えた時代と違い、どの金融機関も審査が厳しく、思うように資金の調達はできない。そんな社会にあって、あろうことかサブプライムに端を発する不景気で、資本の価値は目減りし、職場の経営状態を木の葉のように揺らし続ける。十年後どころか、一年後の生活さえどうなるかわからない。 そもそも「疎遠」を生み出す貯蓄の必要性は、自分の「思い込み」ではなく、自分の力では侭ならない資本、あるいは資金によって生じているのではないか。――このような「もの」によって生じる「疎遠」を唯物的と呼びますが、ヘーゲルの唱えた前者の疎遠に対し、マルクスの疎遠は後者です。 マルクスの時代、人々は自分が生まれた小さな村から、生涯、一歩も外へ出ることなく過ごした。出たとしても、村ごとに異なるしきたりや価値観、そういうものがあって、嫁を取るのもせいぜいが隣村くらいでないと、とても馴染んでは暮らしてゆけない地方性があったそうです。 そんな小さな村だったから、難事に対して「話し合い」による各人合意の自治ができるわけもなく、しきたりや先祖のならわしのような、「話し合わない」規律が必要だったのでしょう。人間世界の外には、ならわしという観念世界の支配者がおり、その支配者に抗う者は「村八分」と呼ばれて、人々の生身の事情を無視したところで、その支配が押し付けられる。こういう「疎外」があったようです。 マルクスは、その疎外から人々を開放する役割を担った人物ですが、『資本論』にせよ彼の著作は、如何にすればその支配から人々は自由になれるのか――この主題が、貫かれています。その回答として共産化(※共産は社会主義に対しての意ですから、語彙は今でいう自由主義社会)を挙げています。 村という、疎外を生んだかつての小社会は、今では個人という容れ物に変わっている。誰もが、自分という容器から、生涯、一歩も外へ出ることなく過ごす。他者には個性があり、それぞれ異なるしきたりや価値観、そういうものがあって、嫁取りやら子育てやら、自分の殻ゆえに生じる疎外は決して失われてはいない。自分自身に確固たる「殻」がある以上、かつての村の機能が生きています。 マルクスの主張した疎外は、現代社会のなかでは個人として受け継がれていると思います。