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キリスト教信者の夫と結婚し洗礼予定です
- キリスト教信者の夫と結婚し、幼児洗礼の準備をしていますが、自分の信仰と洗礼について悩んでいます。
- 自宅は浄土真宗の仏教でありながら、幼少期からカトリックの幼稚園や神社仏閣に触れ、八百万の神様やイエス様を同じく尊ぶ感性を持っています。
- 夫の実家はクリスチャンホームで、幼児洗礼に合わせて私も洗礼を受ける予定ですが、一神教であるキリスト教になることに葛藤を感じています。子供には宗教の選択をさせたいと考えています。
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参考になるかどうかは判りませんが・・ 私はカトリックです。中学洗礼でした。聖歌隊に属し、中高と聖書を学び、大学時代も近くの教会で聖書の勉強をしました。 その頃の神父様は比較的広い心を持ち、亡くなった人を送るための葬儀なのだからどの宗派でも出て構わないと教わりましたし、誰を祝うのかを考えれば七五三だろうと何だろうとやってもいいとおっしゃっていました。 「神(本来キリスト教では父とか主とか創造主と呼ぶべきものです。本来の神の意味とは違います)というものは一つしかない。言語や考えが異なっていても私達が主と呼ぶものも他の宗教で神と呼ぶものも、その実態は同じものだ」とおっしゃっていたのです。 細かい事を書くと長くなってしまうので結論だけを申し上げれば 納得できなければ洗礼を受ける必要は無い・・そう思います。 それは人に失礼とか言うのではなく、自分自身の問題です。 揺れる心を洗礼によって固めるのも一つの手でしょう。しかしそれは悪くすると恐怖心による束縛にしかなりません。 洗礼を受けたんだからと疑問を解く事無く信じ込むことは自分にとっては大きなマイナスになります。 それなら洗礼を受けずに信仰を学んでいたほうが遥かに尊いと私は思うのです。 よく出される疑問ですが、「洗礼を受けて悪行を働き、告白によって許されたものと、洗礼を受けずに清浄な心を持ち、知らずの内にキリストの教えに即した人生を送ったものでは、どちらが天国に近いのだろう」 後者であれば洗礼の価値がなくなります。しかし前者であれば告白が免罪符となり、洗礼の価値がなくなるのです。 洗礼を受けるということは神の道を知ることです。むしろ神の道を知りながら悪行を行う事は知らずに犯す罪より重い。私はそう考えるのです。 洗礼者ヨハネの洗礼はそれまでの価値観や基準を180度替える為の洗礼です。許しを得るためのものではありません。 それほど大きな人生の転換を、「とりあえず受けましょう」とは言えませんよね。 だから私は幼児洗礼も否定します。実際私は子供達に洗礼を受けさせていません。 洗礼を受けるというのはそんな軽いものじゃないと思っているからです。 貴女は充分に信仰の道を進んでいると思いますよ。でも心が揺れているなら辞めておくべき事だと思います。 あと一歩踏み出せば、キリスト教の道を進める。そのときこそ洗礼を受けるときでしょう。 そして貴女の周りにはそれを教えてくれるご主人屋家族がちゃんと居ますから大丈夫だと思います。 私はカトリックですが妻の家は浄土真宗なんです。 義父の葬儀に先立ってお坊様と話をしていて、浄土真宗の考えは実に素晴しいと思いました。 日本の仏教は日本における人間の生き方を説いています。だから中国やインドの仏教徒は解釈が違って当たり前。 日本の風土に合った生き方を説いているんです。 その教えはキリスト教の中でも充分生かされるものだと私は思います。 それが見えてきてからでも、洗礼は充分に間に合うのではないでしょうか? いつでも相談できる人がいる事は実に素晴らしい事です。だから家族に相談しながら自分を高めて行って下さい。 そして納得したら脇目もふらずに飛び込んで行って下さい。
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- datchi417
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洗礼を受ける際には、牧師から信仰の確認があるかと思いますが、あなたが、これに迷いなく「はい」と答えれるなら、洗礼を受けてもよろしいかと思います。 しかし、今のあなたには迷いがあるようなので、そのことを牧師さんにも相談し、このたびムリ洗礼する必要はないかと思います。 クリスチャンホームはあなたが守るものでもないし、御主人が守るものでも、また導くものでもありません。 洗礼を受けていなくても、主ならどうされるであろうか、主はこの選択を喜ばれるだろうかを考え、良い選択が出来るように皆で祈り、お互いのことを祈りあい、主に導いてもらうものです。なので、あなたが気負う必要はなく、すべてを主に委ねればいいわけです。 なので、洗礼を希望する気持ちがあるのであれば 「主よ、私に迷うことなくあなたを想う気持ちを与えてくださり、あたなが一番良いとされる時に洗礼を受ける決心をさせてくださいますようにお願いいたします。」 と、祈ることです。(別にこの通りでなくてもいいですが…) 御主人の信仰する姿、娘さんの信仰する姿を見て、感じて、あなたにも迷うことなく主を想う心が湧いてくることをお祈りいたします。 アーメン
お礼
datchi417様 回答ありがとうございます。 >クリスチャンホームはあなたが守るものでもないし、御主人が守るものでも、また導くものでもありません。 結婚前に通っていた教会(主人が独身時代に籍を置いていた教会)の牧師様と婚礼の勉強会をした際にクリスチャンホームを守っていなかなくてはならないと教えられ、また今通う教会の牧師様からもそのような内容が含まれる育児書的なものを頂いたのでそうでなくてはいけないのだと思い込んでいました。 すべては主の導きであり、私はそれに委ねるべきなのですね。 今の私にはまだ、牧師様の前で「はい」と宣言できる自信がないのが実情だとコチラに書き込み、改めて実感しました。 洗礼を希望する気持ちはもってはいるので、焦らず真に信仰を望めるときに洗礼を受けれるように主人ともう一度話し合ってみたいと思います。 ありがとうございました。
お礼
michael-m様 回答ありがとうございます。 義母は宗教に関してはあまり強く言わない方なのですが幼児洗礼についてはことあるごとに言われていたので洗礼をうけなくては!うけさせなくては!という義務的な感じになっておりました。michael-m様の回答をみてそういう気持ちで受けるものではないなと恥ずかしくなりました。 >「神(本来キリスト教では父とか主とか創造主と呼ぶべきものです。本来の神の意味とは違います)というものは一つしかない。言語や考えが異なっていても私達が主と呼ぶものも他の宗教で神と呼ぶものも、その実態は同じものだ」 と神父様がお話しなされたこと、そういえば中学時代に地元のカトリック教会で同じようなお話しをされたことを思い出しました。義両親や主人は柔らかい考え方を持ってはいますが、カトリックの神父様のような考えは持てないようなのですが私はこのお言葉で少し光が差し込んだように感じました。 (産後鬱気味ですぐに暗く考え混んでしまいがちだったので・・・) もう少し、信仰や聖書を学び、それから答えを出せるように主人ともう一度話し合ってみたいと思います。 暖かいお言葉、ありがとうございました。