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ソクラテスの自殺。
友人と自殺について話していました。 私としては自殺はありです。絶対に○○(駄目、よい、悪い、etc)というものは存在しない。という観念から。 しかし、自殺は悪い、というイメージの方が先にたちます。なぜなら大切な人たちに勝手に死んでほしくないから。つまり私にとって自殺とは絶対にいけない、というものではないけれど回避できるならした方がいいもの。くらいです。 自殺論が問題ではなく(それはgooでも前に何度か質問に出ていましてそれらは参考にさせていただきました)タイトルどおりソクラテスの自殺です。 彼は友人が助けに来たときにそれを断っていますよね。それは正しくない、と。 その主張もわかります。 でも、それでも助けたい、という気持ちもわかります。 (例えば家族がそういう状況に陥ったら、たとえ不名誉でも生を選んでほしい、と思うと思います。私は、ですが・・・) さて、質問します。 ソクラテスの自殺は正しかったと思いますか?
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>ここでは「悪法もまた悪である」という言葉は否定されていますね。その>考え方自体が誤りである、と見てもかまいませんか? では、ソクラテスの、悪法も法なりと、悪を悪で返してはいけないという格言を認めて、考えてみましょう。 しかし、悪法もまた法なりとソクラテスがいうのは、法は正義ではないと、ソクラテス自身が言っているようなものです。 >>金の力も悪法(なぜなら取引だといえるから) >そこには気づきませんでした。そうですよね。 >悪法には、悪法を、、、。 >しかしこれは「悪に悪で仕返ししてはいけない」という信念に外れるので>それはないだろう、と思います。 裏金は悪法であり、言ってしまえば、違法です(笑。 それは、ソクラテスの周囲(番兵など)、ソクラテスを被告とした周囲の判決によって、決められたことです。 このときソクラテスは、小さな悪法に従い、死刑判決を認めたのと同じように、逃げなければならない。 なぜなら、小さくとも、悪法もまた法です。 しかし、ソクラテスは、悪法を悪法では仕返さないと言っている。 だけれどもこの場合、悪法に悪法を重ねたと見れます。 悪法という法に従い続けた。それに違法でも、金の取引自体は、裏金とはいえ正法です。違法行為をしたのは、ソクラテスの友だちと、番兵ということになり、ソクラテスはあくまで、法に従っただけです。一回目はアテナイ市民として、二回目は、商品として。 だから、矛盾しません。 繰り返しますが、その両悪法は、ソクラテスが画策したものでなく、悪いソフィスト達と、ソクラテスを思う会(友人達)の行為であったので、ソクラテスの能動が叶ったわけではないのです。 >>ソクラテスの場合、悪法から、悪法で逃げるのは矛盾していません。 >もしお暇があるようでしたら、なぜ矛盾しないか、という点についてもう一度お答えいただけたら幸いです。これに対し私は「悪に悪で仕返しすることはよくない」という反論しかできません。それが無効になるようならば、決定は覆されるべきなので。 そして、ソクラテスは、悪法に悪法を重ねるという行為を、善い目的のために使うことができる状態にあったのです。(まるで、ソフィストの弁明ですね。申し訳ない。) だから、ソクラテスの場合は、悪法から悪法で逃れることは、矛盾しないのです。 三点 ・両悪法の判決は、ソクラテスが画策したものではない。 ・悪法という法に、ソクラテスは従い続けたと見れる。 ・その、のらりくらり行為を、善い目的のために使える。 >さて、悪法だから従わないとして、批難されようとも生き延びて活動を続けたほうがよかったのでしょうか?(脱獄したのでは市民からの批難は免れませんよね) そうですね。スパルタなど別の都市国家に亡命して行ってでも、もしくは隠者になって、ソクラテスを名乗らずとも、やっていくべきだったと思います。なにせ、ソクラテスが活動するのはアテナイのためではなく、愚人のためだからです。それは、いたるところにいたのです。 また、彼の後継には、プラトンがいたので、公のことはプラトンに任せれたはずです。プラトンをソクラテスが教えることを、市民が避難するかどうかは分かりません。 プラトンは賢いのであり、アテナイの国益にかなっていたと見れます。そのプラトンを支えるのは、隠者となったソクラテスだからです。公には認められないでしょうが、巷には、ソクラテスに味方する噂、彼を見直す機会が流れると思います。 さらに、アテナイの市民の知性が上がるにつれ、公に、逃げたソクラテスへの非難は弱まります。烏合の衆ともいえる、志なきソフィスト達の結束は、民衆全体の知力上昇の前には、もろくも崩れ去ります。 市民としてのソクラテスの老後は、それほど心配ではないと、思われます。 余談ですが、 現代日本社会にも言えることでもあります。 民主国家の国益の源とは、国民全体が賢くなることに他なりません。 衆愚政治は不合理であり、国家として弱いのです。 現代、このようなアットランダムな場を起こす、インターネットの普及で、情報コントロール、世論操作が非常に効きにくいと思います。風よりも速く、噂は流れ行くでしょう。 国家のトップ達の少ない頭が、その速さについていけるわけがない。 ドサクサに、日本はまた武器を使おうとしています。 これが他国に使われることになれば、国民の知性はそこまでだったということであり、それが使われることなく、北朝鮮問題を国際的におさめることができれば、それだけ国民は賢かったとなります。 この速い速い世論の動きが、どういう行動を日本にもたらすのか。 >ソクラテスの弁明では「泣いたりすがったり、というのをやれば無罪を得られるだろうが、それはよくない」というようなことを言っていますので、自殺の話云々の前に、「回避できたかもしれない有罪判決を回避しなかった」という点も問題になってしかるべきかもしれません。何しろ、確定された死刑を前に逃亡ができる人ならば、回避できる死刑を同情をさそって回避していただろうと思うので) 同情は長続きしません。同情を買った時点で、ソクラテスの知者としての信頼は失墜しますし、なにより、何故、正しい方が謝らなきゃならないのか? 正しい者は、正しくない者の前では、毅然としておかなくてはいけない。 その姿勢が、彼の一貫性をあらわしていると思うのです。正しさを、証明するためにはその必要があった。すいませんなんて言ってしまったら、ソクラテスは正しくないと、彼自身が言うようなものです。 ソクラテスが冒険家でワイルドな遊び人なら、敵を欺き云々ができたでしょうが、。 判決がどうあるということが焦点ではなく、彼の一貫した目的、姿勢、善く生きることに適うかどうかという点で、ソクラテスの自殺は、悪者にどう巧みに導かれたにせよ、誤りだったといえます。ソクラテスは、悪に、自分を裏切ることなく勝てていたのを、負けたのです。だから、彼は、失敗したのだといえます。
- netcatme
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私は「ソクラテスの自殺」はいわゆる自殺ではなく刑罰だと認識しています(事実認識の誤認があればごめんなさい)。 私にとってこの問いは「悪法も法か」というものと同じ意味になります。これは自分が納得できない理由で捕まったのであれば脱獄してもよいかということですから、理屈としては、「悪法」の判断は主観であり「法」は客観ですから、主観的には正しいと思っても客観的には誤りの場合に「主観は客観に優先するか」という問題にすり替わることも可能ではないかと考えています。 そうですね、ソクラテス自身が「悪法も法である」という信念の元に動いているのですから正しいと思いますけれど。つまり「客観は主観に優先する」という「主観」を持っている場合は正しいということですが。
すいません、訂正です。 >悪を、善く使っているからです。 という部分、 >悪法から悪法で逃げるのは矛盾していません。 の次においてください。
あなたの話は、筋が通っており、話がしやすい。ていねいでうれしいです。 >ただ、彼は自分の言動(悪いことをされたからと言って悪いことを仕返すのは悪い、など)と一致させるために逃亡はできない、というようなことをいいます。彼の中では生き延びること=悪く生きる、んではないかと思いますが、どうでしょう? 悪法に従うことは、悪いことだと考えられます。法を監視、よりよくするのが、民主国家の、市民の義務です。ソクラテスも、一市民です。 彼が生き延びることは、市民を賢くすることであり、市民を賢くするのは、民主国家では、国を善くし、法をよくすることに直結します。以下でも、同じ事を重複して説明していますが、ソクラテスが過ったとは、そういう理由からです。 >善く生きるということは、自ら死を選ばない。 これは彼の信念ですか?それともayamatiさんの信念ですか? 私の抱く、ソクラテス像が、語るものです。私の想像のソクラテスと私が、出した、結論ともいえます。 善とは、悪を超えています。善は、悪よりも狡猾で、悪よりも賢く、悪よりも怒りに強く、エネルギッシュで、かつ俊敏的確なものとおもいます。よく善と悪は対立概念として使われますが、私の使うところは、悪は善に及ばない。そう考えて、見てください。善と悪は、対等ではない。 >もしソクラテスがそう思っていたのならば、確かに彼は信念に基づいて自殺したのだからそれは正しいとは言えなくなります。 そして、彼は「悪法もまた法なり」で知られる人物であり、悪法を許容するわけではないのでしょうが、その結果は受け入れるというような姿勢であったと思います。いくら彼や彼の知人に不正と映ろうと、法や大多数がが彼に死を命じたのなら受け入れる、という信念であったかもしれません。 彼は、自分より賢いものはギリシャにはいないと、思っていました。 彼が、一番の知者であったのです。ですから、法は法でも、判決を下すのは民衆であり、その民衆の中には、ソクラテスより賢いものはいなかった。 このとき、法は、ソクラテスの知恵よりも劣るものであったのであり、ソクラテスの弁明は、「悪法もまた法なり」というよりも、悪法は悪法、よりよい法を目指すべきと、あるべきだと思います。 なぜなら、民主国家(当時は奴隷がいましたが)の裁判は、事例というものに左右されるのであり、ソクラテスを死刑にしたなら、次、同じようなことが起きても、同じような判決を下さなければ、法の、国家における普遍性を損ないます。 ですから、なんとしても、ソクラテスは、この判決を認めていはいけなかったのです。悪法もまた法、だけれども、それをソクラテスの死刑判決によって、より堅固にしてしまってはいけなかったのです。悪法は、より善くならねばならないのであり、民主国家の場合、それが、民衆全体の知恵を上げることなのです。つまり、ソクラテスが普段からしていたことは、悪法をより善くすることになっていたのです。その当のソクラテスが、悪法をより堅固にすることにつながる行為を認め、受け入れたなら、普段からやってきたソクラテスの行いと矛盾します。ソクラテスの死刑は、民衆の知恵を停滞、ないし低下させるからです。 そういうわけで、ソクラテスの場合、悪法も法なり、だけれども、その悪法をまるまま受け入れるのは、ソクラテスの目的にそぐうものではなかった。 ほかの方法を思案すべきだった。 だけれども、彼は、悪法を、まるまま受け入れた。 だから、あれは、過ちだと、私はいいます。 悪を、善く使っているからです。 ソクラテスは、法を司る市民の一人として、悪法を救わなければならなかったのです。法の判断を受けるのも市民の義務なら、法を監視し、正しく行われるかどうかを吟味するのも市民の義務です。 ソクラテスは、判決を受けることで、その市民の、最たる知者としての義務を放棄したと見れます。 追記ですが、ソクラテスが逃げるとき、金持ちの友だちが味方してくれたと思いますが、金の力もまた悪法です。ソクラテスの場合、悪法から、悪法で逃げるのは矛盾していません。 それは取引であり、そこには小さくとも、法が成立しているとみれるのです。別に、番兵を殴り殺して逃げる方法だったわけではないのです。
- mmky
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mmkyです。追伸まで >本来の仕事が出来ていないではないかと、神様にえらい怒られたそうです。 これは、どこかからの引用ですか?それともmmkyさんの想像ですか? 返事:mmkyさんが感じるところということです。想像としてくださいね。 追伸まで
ソクラテスへの判決は、ソクラテスの見る目からすれば、不当だった、不正だったのにもかかわらず、ソクラテスがそれを受けいれたのは間違いです。 ソクラテスは、死刑を受け入れるべきではなかった。 ソクラテスは、自分の信念に従い、不正を受け入れるべきではなかった。 何故なら、 ソクラテスは、自分、彼自身の信念に従う、つまり、善く生きるという生き方に背いたという点で、自分を裏切っています。 善く生きるということは、自ら死を選ばない。 死ねば、善くも何も、それ以前に、生きてないからな。 だから、正しくない。 生を、全うしていない。 当時の法を正しく守ったとしても、彼は、自分の生き方を正しく守れなかったのです。あの瞬間においては、正直ではなかった。 善く生きるという信念、自分のあり方を、あやまったといえます。 しのびない、。
お礼
ご意見ありがとうございます。 判決そのものが不正であって、それを彼は知っていたのだから、それに従ったことは間違いだった、ということですか? 確かに、彼は正しいことをすることが大事だ、と言っていますので判決が不正ならばそういえると思います。 ただ、彼は自分の言動(悪いことをされたからと言って悪いことを仕返すのは悪い、など)と一致させるために逃亡はできない、というようなことをいいます。 彼の中では生き延びること=悪く生きる、んではないかと思いますが、どうでしょう? >善く生きるということは、自ら死を選ばない。 これは彼の信念ですか?それともayamatiさんの信念ですか? もしソクラテスがそう思っていたのならば、確かに彼は信念に基づいて自殺したのだからそれは正しいとは言えなくなります。 そして、彼は「悪法もまた法なり」で知られる人物であり、悪法を許容するわけではないのでしょうが、その結果は受け入れるというような姿勢であったと思います。いくら彼や彼の知人に不正と映ろうと、法や大多数がが彼に死を命じたのなら受け入れる、という信念であったかもしれません。 (ただこれには疑問を禁じえません。クリトンにソクラテスは「周りの意見を気にする必要はない」というようなことを言っています。ならば彼が判決を不当だ、とみなしそれに反対するのが例えそのせいで周りからどう思われようと彼の信念にもとるとは思えません・・・)
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
ソクラテスの死が自殺かどうかから、論ずる必要があるのでは ないでしょうか。 ソクラテスは、アテネ市民から死刑を言い渡されました。 毒酒を飲んで死ぬというのは、手段に過ぎません。 日本の武士の切腹を自殺と言いきれるか、という話と同じ ことだと思います。 ただ、非合法な手段を使えば逃げられたにも関わらずそう しなかったのは、自殺と考えられるかもしれません。 ただそこには、ソクラテスなりの信念─悪法もまた法なり─ に基づいたものでしょう。 その他にも、肉体が死んでも魂は不滅であるという己の信念 に基づく行動だったかもしれません。こうなると殉教に近い 行動かもしれませんね。
お礼
ご意見ありがとうございます。 死刑を言い渡されての毒杯を仰ぐ、という行動(または切腹)が自殺にあたるか、と言われたら考えるものがありますが。。。 切腹もそれ自体では死ぬのは難しいので介錯人がいるはずですし、毒杯を仰ぐという方法も、本当に死にたくない、というような中々行動にうつさない囚人に対しては無理やり飲ませたかもしれません。 それを自殺とみるかどうかは私はその死刑囚の意思しだいだと思います。 その死を受け入れ、行動したなら自殺、最期まで死にたくないと思いつつも執行されてしまった、というような場合は死刑(ここでの言い方は他殺のほうがいいでしょうか)だと思います。 そういうわけで、ソクラテスの場合は自殺で良いと思います。 case_ri2さんの指摘するとおり、彼には生き延びる道も残されていたわけですから、他の事例に比べれば自殺色が強いと思います。
- rainman
- ベストアンサー率27% (5/18)
正しかったと思います。 前回のご質問に対する回答に出遅れてしまいましたが、私は自殺の肯否はその本人の思考思想次第だと思うからです。 昔で言われる自害、切腹等が何かを守るため、信じる為の自殺であった事に対して今現在俗に言われる自殺は何かから逃げる為のそれである事が多いと思われます。 逃げる、つまり対処する為の策なら生きている間にはいくらでもあるのに死という苦痛や悩みからの解放をいの一番に選ぶことは周りの人々に対する裏切りである上に人を必要外に傷つける最悪な行為ではありますが、自殺、死によってのみ戦いに、あるいは勝利になりうる事があるというのも事実です。 ソクラテスの自害はまさしく戦いであり、彼は自分の思想やプライドを守るという点では完全な勝利者であったと思います。 *彼が肉体を信じていなかった、という点もまた事実であったようです。 これはソクラテス本人の言葉としてでてきた自殺の理由でした。
お礼
rainmanさんは正しいと思っておられるんですね。 ご意見ありがとうございました。 >ソクラテスの自害はまさしく戦いである、彼は自分の思想やプライドを守るという点では完全な勝利者であったと思います。 そうですね。「クリトン」での対話にみられるように、ソクラテスは自分の信じるもの(最善だと思うもの)を最期まで貫きましたね。そういう意味では、確かに言動が一貫していて彼は勝利者であるかもしれません。 自殺の肯否はその本人の思考思想次第という意見に同意いたします。 その観点で考えれば、ソクラテスは確かに自身の自害を正しい行動だと思っていた(と、少なくともファイドンなどからは認識できます)ので彼の自殺は正しい、と言っていいのかもしれません。 しかし、自殺は周りの人々に対する裏切りである、という意見にも賛同します。 クリトンなどはソクラテスがそのように死ねばそれはとても彼らにとって不名誉だ、と言っています。それでもその意見をありがたいと言いつつもソクラテスは退けます。 自らの信念を通すか、周りに妥協するか、ということなのでしょうか。
- gon1234
- ベストアンサー率14% (42/293)
私の場合は2つ思いつきます。 1.彼は肉体を信じていなかったのではないでしょうか。 だから「死」についての特別な考え(生への執着)をもっていなかったのではないかな?と思います。皮肉にもこれほどの時を経て、彼の死について議論がなされているのですから「彼の生」は意味があったということになるでしょうが。 2.自殺でしか教えられないモノを残したのではないでしょうか? さまざまな教示を残した彼が「自殺」でしか教えられないモノがあったのではないでしょうか。
お礼
ご意見ありがとうございます。 確かにソクラテスは肉体には意味がない、と言っていますね。死はただ魂が体から抜けることでしかない、と言ったとプラトンの書物には載っています。 それから、今だに彼の死について議論がなされているのだから意味があったといえる、という意見には共感いたします。 彼の死(生)を通して私たちは本当に色々なことを学んでいるのだなぁ、と思いました。 有名な「悪法もまた法なり」というのも、自殺でもって示されたものの一つですね。 gon1234さんはどちらかと言えば彼の自殺について肯定的(正しい)とお考えだと解釈しました。 もし違ったらまたお書き込みください。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
参考までに 「ソクラテスの自殺は正しかったと思いますか?」 当然、正しくないですね。ソクラテスほどの方が牢獄につながれて少し混乱されたからでしょう。元気であれば絶対に自殺なんかするかたではありません。一時の迷いで自殺して、本来の仕事が出来ていないではないかと、神様にえらい怒られたそうです。 どのように立派な方でも、完全はないんですね。完全さを求めても地上では得られないんですね。だからよりよい生き方を、より長く生き続けて教えを説くというのが立派な方々の生き方なんですね。ソクラテスさんはちょっと混乱しただけですね。より良い生き方でいろいろな経験を積むというのがいいんですね。自殺は絶対にいけないんです。より良い人生、いろいろな経験を積んで、平均80年程の人生をいききるというのが基本的な人生です。自殺はその基本から外れていますので、えらく神様に怒られます。生きていた何倍も霊的には苦しむということですね。 参考程度に
お礼
ご意見ありがとうございます。 >本来の仕事が出来ていないではないかと、神様にえらい怒られたそうです。 これは、どこかからの引用ですか?それともmmkyさんの想像ですか? もしそういうことを正式に言った人がいるのなら教えてほしいです。 >完全さを求めても地上では得られないんですね。 本当にそうだと思います。基本がよりよい人生、いろいろな経験を積んで80年ほど。それに外れるから自殺はいけない。っていうのは面白いと思いました。ただ、「よい」というのは主観的な言葉になると思うので絶対にいけないとは思いませんが。
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お礼
遅くなって申し訳ありませんでした。再びありがとうございます。 >悪法に従うことは、悪いことだと考えられます。法を監視、よりよくするのが、民主国家の、市民の義務です。ソクラテスも、一市民です。 なすべきことをなさなかったので、ということですね。確かに、許容してしまうことでその悪法を強固にしたのでは、「善い」とは言えませんね。特に彼はそれに気づいていたと思われるので。 ここでは「悪法もまた悪である」という言葉は否定されていますね。その考え方自体が誤りである、と見てもかまいませんか? さて、悪法だから従わないとして、批難されようとも生き延びて活動を続けたほうがよかったのでしょうか?(脱獄したのでは市民からの批難は免れませんよね) でも、それならば、最初から死刑になるような言動を謹んでおけばよかったのかもしれません。多分裁判でも自分を貫いたのでしょうが、生きて活動を続け、なおかつ批難も免れるためにはその方がよかった気がします。 (ソクラテスの弁明では「泣いたりすがったり、というのをやれば無罪を得られるだろうが、それはよくない」というようなことを言っていますので、自殺の話云々の前に、「回避できたかもしれない有罪判決を回避しなかった」という点も問題になってしかるべきかもしれません。何しろ、確定された死刑を前に逃亡ができる人ならば、回避できる死刑を同情をさそって回避していただろうと思うので) >金の力も悪法(なぜなら取引だといえるから) そこには気づきませんでした。そうですよね。 悪法には、悪法を、、、。 しかしこれは「悪に悪で仕返ししてはいけない」という信念に外れるのでそれはないだろう、と思います。 >ソクラテスの場合、悪法から、悪法で逃げるのは矛盾していません。 もしお暇があるようでしたら、なぜ矛盾しないか、という点についてもう一度お答えいただけたら幸いです。これに対し私は「悪に悪で仕返しすることはよくない」という反論しかできません。それが無効になるようならば、決定は覆されるべきなので。