こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>日本は仏教をどのように受け入れたのでしょうか?
回答から先に述べますと、
天皇が中央集権国家の樹立を目指すための「政治的な道具?」として利用しようとして受け入れました。
仏教伝来よりも、ずっと後年になりますが、聖武天皇の発願で745年(天平17年)には、奈良の大仏様の造立が開始され、民衆の心の拠りどころとする一方で、天皇の「威厳の高揚」目指しています。
(1)日本への「仏教伝来」は、「上宮聖徳法王帝説」(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ=聖徳太子の伝記)や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」(がんごうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう=元興寺縁起)では538年に伝来したと記されており、歴史の教科書などでは、こちらが主流。
(2)これは、百済の聖明王から欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などが献上された、とされる事からきています。
一方で、「日本書紀」では552年とされている。
(3)しかし、それまで仏教はなかったのか・・・と言うと、奈良県北葛城郡の新山古墳からは「三角縁神獣鏡」が出土されており、鏡の面には「獣」の変わりに「三仏」が連座に彫られ、円形の「頭光」もある。
そして、これに類似した「仏」が彫刻された「鏡」は、千葉県、長野県、岡山県でも発掘されており、いずれも、炭素年代法で538年よりも古い時代(卑弥呼の時代)である、と、されている。
(4)さて、538年に百済より仏像や経典、仏具が贈られましたが、すぐに仏教は広まったか・・・と、いうと、そこには、血なまぐさい抗争へと発展していったのです。
欽明天皇は百済から贈られた仏像や経典、仏具を曽我稲目(そがのいねめ)に授けました。稲目は自宅を改修して日本初の「寺」として安置しましたが、やがて、国内に疫病が流行し、神道を信奉する物部尾興(もののべのおこし)は「疫病の原因は神の祟りだ」と、稲目の寺を焼き払ってしまった。しかし、金銅の仏像だけは焼けずに残ったため、尾興は怒って仏像を難波の池に投げ込んだ。
しかし、疫病は治まらず、天変地異も続き、欽明天皇は、ただただ曽我氏と物部氏の戦いを「傍観」するだけでした。と、言うよりも、天皇としての統治権限が微弱で二人の対立を抑えることができなかった、というのが本音かもしれません。
その後の欽明天皇が崩御され、続いた敏達天皇も用明天皇も疫病で早くに亡くなり、天皇の後継者争いで、再び、曽我氏と物部氏が対立。武力闘争となりましたが、曽我馬子が平定し推古天皇と曽我氏の血を引く厩戸皇子(14歳・後の聖徳太子)の奉仏派が物部氏一族を完全に滅亡させました。
(5)593年聖徳太子が正式に摂政となり、17条憲法を作り、その第二条に:
二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。
と、仏教を正式に受け入れました。
(6)聖徳太子は斑鳩に法隆寺を造立し、日本の仏教の「祖師」といわれるゆえんは、ここにあるのです。
>>また、仏教のどういった部分を受け入れなかった、あるいは受け入れられなかったのでしょうか??
これは、先述のように、日本古来の信仰としては「神道」がありましたので、昨今でもそうですが、舶来のものをすぐには受け入れられない、という日本人特有の?「排他的心情」があったからです。
(よもやま話)
(1)日本に伝来した頃、中国でも百済でも「宗派」は分かれてはいませんでした。
ただし、「大乗仏教」と「小乗仏教」の違いがあった。
※大乗仏教・・・修行した僧侶が仏教の精神を広く説き、何人(なにびと)であれ、「念仏」を唱えることで極楽に行ける。つまり、庶民は修行をしなくても「念仏」さえ唱えれば「極楽」へ行ける。と、言う考え方。
インドの「釈迦」から「三蔵法師」によって中国へ、中国から百済へ、そして、百済の聖明王から日本の欽明天皇に対して、仏像や経典、幡蓋(ばんがい=かざりの道具)などが献上された。と、言われています。これは「大乗仏教」でした。
※小乗仏教・・・大乗仏教に対して「差別的」にそう呼ばれるようになりましたが、本来の仏教は「上座部仏教(じょうざぶ ぶっきょう)」と言い、修行(苦行)をして「悟り」を得ることが目的でした。この教えは東南アジア(タイやカンボジア、ラオス、ミャンマーなど)で発展し、仏教を本当に信仰しているのは僧侶だけで、他の人々は「僧侶」を敬い、その僧侶の「修行」を支えるだけです。ただし、自分の信仰の証として、寺へも詣でますが・・・。
よくTVなどで、「黄」の衣を着て「托鉢」してまわる僧侶に庶民が「ご飯」や「金銭」を快く差し出し僧侶に向かって手を合わせるシーンがありますよね。これが「小乗仏教」です。
(2)やがて、奈良時代に「三輪」「成実」「法相」「倶舎」「華厳」「律」の6宗派に分かれ「南都六宗」と呼ばれましたが、「三輪」「成実」「倶舎」の3宗派はすぐに衰え、今日まで伝承されているのは「法相」「華厳」「律」の3宗派だけです。
※法相宗
入唐した僧侶、道昭が653年に持ち帰った。
宗旨は一切が心を離れて存在しないという唯心・唯識の立場にたって迷・悟の因縁を究めていけば執着からも次第に離れることができると教えています。「一水四見」が代表的な教えです。
本山は興福寺と薬師寺の二山です。戦後独立して聖徳宗を名のる法隆寺や北法相宗を名のる清水寺も、元は法相宗所属の寺院でした。
※華厳宗
唐の道せん(どうせん、日本には「せん」の漢字がありませんので平仮名で失礼します)が華厳経の注釈書を持参した時に始まるとも、また賢首大師法蔵に師事した新羅の審祥が良弁の求めによって本経を講義した時に始まるとも言われています。
宗旨は華厳経をもとに体系づけられたもので、全世界は因縁によって成り立ち、すべて仏の世界であり「一即一切・一切即一」の関係において成り立っているということを信じ悟ることができれば自在の境地にいたるであろうと説かれています。
総本山は東大寺で、我が国華厳宗では良弁、高弁、凝然、鳳潭などの高僧が有名です。
※律 宗
律宗は754年唐僧の鑑真和上によって伝えられました。
鑑真和上(688~763)は日本への渡航には暴風・失明などの苦難ののち六度目にようやく成功、東大寺に戒壇(戒を授けるために設けた壇)を設け、聖武天皇をはじめ多くの貴族たちも戒を受けたと言われています。
律宗は戒律を重んじ、それを自ら実践することをもって成仏の因とする宗旨で総本山は唐招提寺です。
律宗のなかで高名の僧は覚盛、叡尊、忍性、滋雲などで律宗系の寺院としては西大寺(奈良)・浄瑠璃寺(京都)、南京律の泉涌寺(京都)、安楽律の安楽院(比叡山)があります。
(3)また、聖徳太子の教えを今も伝えるのが「太子信仰」と呼ばれる人々です。こうした人々は鎌倉時代から徐々に勢力を広めていった親鸞の唱える「一向宗(浄土宗)」とほぼ同世代に隆盛を迎え、「太子信仰(太子講)」の人々は「寺院建築」「灌漑」「治水」「鉱山開発」などの「特殊技能」を持つ集団として「太子衆」と呼ばれ、各地で活躍しました。なお、現在でも「太子衆」はいますし、聖徳太子を祀る神仏混合の「寺?」「神社?」も各地で見られます。
ご存知かとは思いますが、「神仏分離令」が明治になってから発布され、神仏は切り離されましたが、それ以前は、「神仏混合」でした。
(4)話は変わりますが、比叡山延暦寺を造立する時に、麓の「日枝神社」に地鎮祭を執り行ってもらっていす。
延暦寺へ行くと、寺の外れに小さな「祠(ほこら)」がありますよ。
少し長くなりましたが、あなたのお役に立てば・・・。
お礼
回答をくださってありがとうございます。