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(ルカ 6:35) 「愛」は理性の範疇か?
ルカ 6:35 ――しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。―― 「何も当てにしないで貸せ」と言ったり「たくさんの報いがある」と言ったり、欲望の否定なのか肯定なのか迷いますが、このことには此処では頓着しないことにします。 さて、これで見ると愛することも愛さないことも理性の範疇だと認識している節があります。これは正しいですか。「愛するか否か」は理性が関与できない領域が司っているように思いますが、違いますか。愛するという前提があるときの「愛し方」ならば理性で制御できることに異存ありません。 ルカ 6:35は次のどれかだと思います。どれですか。 1 「愛し方」ばかりでなく、「愛するか否か」も理性が決定できる。ルカ 6:35に違和感はない。 2 愛そうと努めれば、少なくとも「愛」に付帯する好ましい属性を以て敵に接することが出来る。「愛せ」は努力目標である。 3 翻訳から来る違和感である。原文では違和感がない。適訳がないので「愛しなさい」とした。 4 イエスまたは聖書の記述者の言語感覚がルーズである。「愛しなさい」ではなく別表現をするべきだ。 5 その他 多数決で決まる性質の問題ではありません。心理学、大脳生理、ギリシャ語(?)、キリスト教の教義など、何かしらの分野に明るい方の論述を希望します。 よろしくお願いします。
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ご質問の内容と、ほぼ同等のことを考えたことがあります。 以下、論点を「愛する」(情・情動)と「理性」(論理・理論、知的思考)との関係(包含関係)に絞って記述し直してみます。 a.「愛する」といった情・情動を理性(論理・理論、知的思考)で完全に掌握可能(智・知が情・情動を含有可能)。 b.知情(意)は完全に独立している。 c.知情(意)といった概念は、部分的に重なり合っていて分離不可能であり、また、相互に影響し合う。 知情意といった概念区分は、それらが独立して存在しているかのごとく錯覚を与えますが、脳の機能局在からも明らかなように、それらは重なり合って中心がずれていると考えるべきものです(トップダウン的な知見)。また、このことは、人工知能の研究レベルでも取りざたされています(ボトムアップ的な知見)。 http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont99/ai/ai01.htm http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont99/ai/ai02.htm また、脳の機能局在と関連しうるガードナーの「多重知能」という概念があります。「情動的知能」や「内省的知能」といった情・情動に対応するものも(実際には重なり合っていたとしても)概念的に分けて評価可能だという立場です。 で、これらが(ある程度)個別に評価可能な項目だと言うことは、逆説的に、心の働きを「理性」のみで支配可能だということにはなり得ないということを意味しています。 すなわち、「愛しなさい」という情・情動に対する理性ないし知的判断・意志の関与は(重なり合って影響し合っているゆえに)当然ありうるわけであり、かつ、「愛する」といった情・情動の根元的な部分は知・意からは(脳内ですら)中心がずれているため、完全に包含関係(一方的な支配関係)にはなり得ないわけです。
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- mmky
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>>ルカ 6:35は次のどれかだと思います。どれですか。 私の回答は: 1 「愛し方」ばかりでなく、「愛するか否か」も理性が決定できる。ルカ 6:35に違和感はない。 でしょうね。 この文章は動物的本能の愛を説いているのではないですね。理性的愛の話ですね。 理由は、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」といってますので、簡単に言えば、神の愛は恩を知らない者にも悪人にも分け隔てなく与えられるのだから、それを同じようにまねれば神に近づけるという意味だからですね。 好きな者を愛するのは動物にでも出来る。でもあきらかに敵と見えし者を愛することは神にしか出来ない。だから人はそれをまねれば人も神近くになれる。またgive-and-takeは誰しも依存は無いだろう、だが神は与えるだけの存在である。それをまねれば神近くになるだろう。ということでしょうから理性愛そのものですね。 愛にもいくつかの段階があるということは愛も哲学の範疇なのですね。
補足
ご回答を有り難うございます。確認したいことが3点あります。 1 「理性的愛」が分かりません。「理性的愛」とは相手への「理解」、「尊重」、「友愛」などの<情>と思ってよいですか。これらは「愛」の属性にしかすぎず「愛」より数等劣るのではないですか。 2 揚げ足取りみたいでいけませんが気になります。「神に近づく」ことがよいことであるかの如き表現は適当ですか。神に近づこうとする姿勢は傲慢だといわれないのですか。言わんとする趣旨は理解できるので表現だけの問題です。 3 これが一番大事です。キリスト教の神は「与えるだけの存在」ですか。奪うことはないのですか。 一般には、圧倒的に神は恐怖の対象なのだと思います。神の怒りに因る天変地異、飢饉、不猟、不漁を恐れて平身低頭していて、これに続いて恵みへの感謝の気持ちがあるように思います。基本的にいって人間は神に暴力の影をみていたように思います。キリスト教の神は違うのですか。ユダヤ教の神と共通だとすると、奪うことも大変なものだったと思います。 ご返事は急ぎません。よろしくお願いします。
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補足
ご回答を有り難うございます。 正しく読み取れたか否か確認させて下さいまし。ア)、イ)でよいですか。 ア) <知>と<情>の関係を図式化すれば、ご回答の「C」である。 イ) <知>は「愛」という<情>に関与し得るが支配までは不可能である。 今日ですら「愛」の実態が解明されていないとすれば、ルカ 6:35は十分成立する表現だと思います。 ご返事は急ぎません。よろしくお願いします。