>血がたぎる、全身の毛という毛が逆立つ、身の毛がよだつ、防衛本能、闘争本能と呼ばれるもの、腹の底からわく怒り、命の炎を燃やす、お化けが怖い(非存在に対する恐怖) 直観、などは、阿頼耶識に属するものでしょうか?
う~ん、いずれも「阿頼耶識に属する」と言うよりも、むしろわれわれが阿頼耶識の支配下にある、つまり無限の過去世から続く、無限の因果の連鎖の虜囚となっていることから生じたにすぎない、その意味ではどんなにわれわれがリアルに体感しているつもりでも、本当は虚妄に囚われているだけのことと説明されます。
何であろうと、われわれがそうと意識するからには、必ずわれわれにそうさせているいろんな原因があってのことと考えると、阿頼耶識とはこれら無数の因果に関する根本的規定であると言えます。
だから、そういった無数の因果の貯蔵庫という意味で、阿頼耶識は「蔵識」とも呼ばれます。
ちなみに、ヒマラヤとは、「雪him」+「阿頼耶(=蔵)alaya」の合成語のようです。
また、原因の結果としての現象が、そのまま次に起こる現象の新たなる原因となるという意味で「異熟識」とも称されます。
>マナ識と阿頼耶識の違いがよくわかりません。
「マナ」とはサンスクリットのmanasの音写でして、英語のmanと語源は同一のはずで、一般に自意識のことです。
ただし、他人の目を気にしすぎるという意味での自意識のことではなく、cogito ergo sum(われ考える、故にわれあり)と盲信して、自分が考えるにしても本当は阿頼耶識に囚われているだけにすぎないということに全く気付こうとしない、浅薄で短絡的、かつ傲慢な自意識のことです。
お礼
回答ありがとうございました。 ちょっとこの話は、また一人で考えてみたいと思います。 基本こういうのは好きなんです。 ちょっと混乱してるところもあるので、時間をおこうと思います!
補足
こんにちは! お答えありがとうございます。 むつかしいですねー! 下のmmkvさんの答えとも照らし合わせて考えてました。 僕自身が、マナ識、アラヤ識に当てはめたいものとして、 下に書いた、「直観」、「運命」、「現実」などの要素があります。 これは、kadowakiさんや、mmkvさんのご説明では、時間の流れの中での変化、という視点からのご説明ですが、 僕は、今この自分が主観に感じる、「感覚」を、2つの識に当てはめたい、と考えてます。 それで、質問文では、人が普段感じる感覚の中では、もっとも深いであろう、と想像する感覚を、色々並べ立ててみました。 つまり、運命や、直観などは、僕の人格の、そのまた外側からやってきます。そういう人格外の部分は何なのだろうか?? という話になります。 腹の底、と言われる感覚や、闘争本能、と呼ばれるものは、どう考えても、それを作り出しているものは、僕自身の内部にはありませんので、それは、なんだろう?という疑問です。 もちろん感じ取った地点で、それは僕の内部にあるものですし、6識に当たるんだ、とは思います。 でもそのフィーリングの出所は、明らかに、僕の人格外からやってきています。 そこから今回の質問が浮かびました。 今回の回答をいただいて、人格がある、主観世界がある、と感じることは、おそらくマナ識だろう、と想像しました。 つまり、僕等が普通「現実」と呼ぶものは、マナ識に相当するのでは?と今思いました。 自意識を感じるたびに、それらの経験が無意識の習慣の中に堆積して、 深い意味で自分が存在する、と意識することもなく習慣として感じている、 と、それがマナ識のできかた? かと、kadowakiさんの説明を受けて、考えました。 つまりイコール、今ここにいる自分はマナ識だ、ということになりますが・・・ 僕は、論理的な仕組みである唯識の階層の仕組みを、「感覚、フィーリング」に飜訳したいのだ、と思っているみたいです。 自分が感覚人間なので、あまり自分というものを感じることもないのですが、その代わり、深い深いフィーリングを感じるので、そちらになんとしても訳したい、と願ってます。 多分こうじゃないか、という推測に過ぎないんですが、 ご意見いただければうれしいです。