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「可哀想」と道徳

「可哀想」という価値判断は、個人にとっての道徳的な行為規範とはなりませんか? 可哀想=相手に共感し、思いやる気持ちからくるのであれば、相手にとって「可哀想」な結果となることはなるべき避けるべきことという帰結になるように思います。 ところが、「可哀想なこと」を「すべきでないこと」と考えるかは人それぞれであって、可哀想なことと道徳は関係ないと主張する人がいます。 「可哀想」と道徳はあまり関係ないのでしょうか。関係あるのでしょうか。

みんなの回答

回答No.5

「可哀想」というのは要するに共感ですよね。 共感するだけで終わり、というのでは道徳に発展しないその場限りの感情に過ぎなくなり、そこから「己の欲せざるところ人に施すこと勿れ」となれば道徳的思考に繋がるわけです。 そして万人が可哀想と思ってもすべきこと、しなければならないこともまた道徳上に存在し得るものです。 可哀想=価値判断と看做すこと。それは、少々ずれているように思われます。

noname#130082
noname#130082
回答No.4

補足いたします。 >相手が「可哀想」な結果となる行動をとらないようにすべきだ、とのお考えでしょうか。 それは違います。 私が接した方たちは、「『可哀想』な結果となる行動をとらないようにすべきだ」などという生易しい状況ではありませんでした。そんな選択などできる状態ではないのです。とても人間業ではないような死に物狂いの努力をしていてさえ、それでも、もう言葉に表すことさえできないような見るも無残な本当に惨憺たる生活を送っている人が沢山いるのです。それも、どう考えても本人のせいではありません。 本当にこういう方たちを見ていると、神様の恩寵などのようなことをしたり顔で言う人々に、「それじゃあ、このような人々がひたすら苦しまなければならないのは、いったいどういうわけなんだ!」と聞きたい思いでいっぱいです。

noname#101110
noname#101110
回答No.3

仏教には「殺生戎」という戒律があります。 いきとしいけるものすべてをころしてはならないという大変厳しいいましめですが、これには「可哀相だ」という思想が基本になっているように思います。 なぜ自分の利に無関係なものを保護しなければならないのか。対象である自分よりも無力な生命に共感し、思いやる心がその根本理由なのではないかという考え方が出来そうに思います。 >「可哀想」と道徳はあまり関係ないのでしょうか。関係あるのでしょうか。 首記の理論的な裏づけが他に考えられない以上、これはありといえるのではないでしょうか。あまり自信はありませんが。

gabuncio
質問者

お礼

よく理解できました。回答ありがとうございました。

noname#130082
noname#130082
回答No.2

関係はあるとは思います。 ただ、「あの人、可哀想ねえ~」と同情しているつもりで、実際は自分はこんな善人なのだ、と自己陶酔している人もいますから、一概には言えないと思います。 私も悲惨な人生を送っていらっしゃる方とお会いしたことがありますが、「可哀想」などという言葉は出なかったですよ。そんな生易しい言葉では表せませんから。

gabuncio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「可哀想」が真意からくるものか、そうでないのかにもよるのでしょうね。  真に「可哀想」と思っていたら、相手が「可哀想」な結果となる行動をとらないようにすべきだ、とのお考えでしょうか。

noname#160321
noname#160321
回答No.1

論語にあります。「衛霊公第十五 412」 子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、 子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人 子貢(しこう)問いて曰く、「一言にしてもって終身これを行なうべきものありや」、 子曰く、「それ恕(じょ)か、己の欲せざるところは、人に施すなかれ」 「この一言なら生涯守るべき信条となる-そういう言葉はあるでしょうか」 子貢にこう尋ねられて、孔子は言った。 「まず恕だろう。人からされたくないことは、自分からも人にしないことだ」

gabuncio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 人間と動物とではどうですか?「動物を殺すのは可哀想」という人は、「動物をなるべく殺すべきでない」という価値判断を持っているのでしょうか。

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