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「不条理」が文学作品のテーマに用いられる理由
カフカを初め、「不条理」をテーマにした小説等は多く見受けられますが、なぜ「不条理」は文学作品のテーマとして用いられるのでしょうか? もちろん作者によってその理由はまちまちでしょうから、一般論で結構です。 ご回答頂ければ幸いです。
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不条理は誰でも経験する事ですから、作家本人の創造能力に余り依存せずに説得力の在る作品が書きやすいからではないですか。皆さんに受け入れやすければ、名作としても残りやすいですよね。 他の例では、どこの国の話でも地獄の話は面白く、また、描きやすいですね。苦しみは誰にでも共感できるからです。一方、退屈しない天国を描くのは、それこそ、その著者の能力が試されます。ですから、行ってみたくなるような天国の描写は滅多に在りませんね。私の経験では、ダンテの『神国』の地獄は面白かったが、天国なんて行ってみたいと思えませんでした。個人的には源信の『往生要集』の極楽なら行ってみたいと思えましたが、こんなのは例外中の例外です。 悲劇を描けば古典として残りやすいですが、喜劇では中々説得力のある古典が在りませんね。不条理と同じで、悲劇は人間の脳味噌のなかでも最も原始的な部分を感情的に刺激するので、誰でも簡単に納得させられてしまうのですが、一方喜劇を理解するには、その時の文化を理解している必要があり、相当な知的訓練を受けていないと、中々楽しめるものでは在りません。外国語で話される冗談がすぐ分からないのと同じです。喜劇役者になるには相当頭が良くなくては成れませんが、二枚目役者や美人役者などは、そんなに頭が良くてもなれるのと同じです。不条理や悲劇をテーマにした作品は、二枚目役者みたいなもので、皆さんの動物のレベルの感情ですぐ共感できますが、喜びをテーマにすると、喜劇役者並みの知的能力が在っても、中々納得してもらえないのです。 勝手な想像ですが、優れた作家は多分一生に一度ぐらい、喜びをテーマにした作品に挑戦するかもしれませんが、ほとんどの場合失敗しているか、あるいは、それに挑戦するだけの勇気がないのではないですか。そんな賭けをするよりも、きっと、誰にでも簡単に受け入れてもらえる、悲劇や不条理に流れて行ってしまうのだと思います。 何か、作曲家が滅多にバイオリン協奏曲を書かないのと似ていますね。ただ不思議な事には、そんなに珍しいバイオリン協奏曲には名曲が多い。ところで、喜びをテーマにした文学作品には滅多にお目にかかれないと思いますが、それにもやはり名作品は多いのでしょうか。単なる経験不足かもしれませんが、文学に疎い者の独断と偏見に満ちたコメントになってしまいました。悪しからず。
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- kt1965
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回答しておきます。 「人生を意味あるものと捉えるのか、それとも意味の無いものと捉えるのか」だろうと思います。「不条理劇」が盛んな頃、世界大戦の前夜だったりします。平和で未来を謳歌していた時代、どこかにある不安を表したのだろうと推定されています。 文学作品では、基本的にその時代の不安や葛藤を描いた作品が多いように思います。それが個人に適応された作品が、日本では個人主義文学と呼ばれた時代の作品群。同じようにして、社会学でも世界大戦と世界大戦の間の時代、そして世界大戦の後の時代、「孤独な群集」という書籍が話題となり研究が盛んに行われました。 それらを含んで文学作品が書かれているという事実からすれば良いのかも知れません。ついでに、文学作品中において、著者は「神」の存在でもあります。そこに生み出されたキャラクターは時として、作者の分身だったり、作者が取材などで生み出したものであったり、完全にはありえないキャラクターを生み出したりします。 それゆえ、それらのキャラクターに様々な試練を与えるのが神である作者の使命ということもあるのかも知れません。丁度、聖書にある「ヨブ記」のように。 では。