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サルトルの無
自由で無でなど少し意味がわかりません。即自、対自、対他の3つで、自分は将来どちらでも選択できるからということだそうですけど。ものに対して、自分が無になるという意味がわかりません。
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- shubal
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俺自身が無学やから、そのへんは差し引いて聞いてや。 こないだ大学生の息子(倫理哲学)と話してたら、たしかデカルト(ゴメン記憶力も怪しいねん、俺)とかいう哲学者が「我思う、ゆえに我あり」と大昔に言わはったらしいんやけど、俺は、考えてるから、自分は存在するにゃろう、ってくらいに思てたら、ちょっとニュアンスが違ごてん。「自分は思う(考える)から、たしかに自分はいるやろう。でも、自分以外のもの、たえば目の前にあるコーヒーカップやきれいな女やらでもなんでもいいやけど、それが有るということはできん」いう意味なんやて。 で、サルトルやけど、俺も恥ずかしい話、昔サルトルの小説『嘔吐』とか『存在と無』とかも読んだんやけど、もう中年になって記憶がめちゃ薄れてるうえに、それらの本を読んだときに理解してたかって言うとたぶん理解してなかったと思う。 そんでいまホコリだらけのその当時の本を引っ張り出してきて読んでみたんやけどな、その本にはあんたのいう、即時、対自、対他のことが簡単に解説してあった。それをそのまんま書くと…。 【物的存在を「即時」、意識の存在を「対自」、他人との関係における存在「対他」】という意味らしい。でな、【身体を持つ人間は、自らによって主体であるが、他人の眼には客体すなわち物としてあらわれ得る。他人に対する行動の挫折は、サディズム、マゾヒズムを両極限として、この主客の不一致を逃避しようとするさまざまな企てであるところからくる】。つまりさっき言うてたことと重なるんやけど、物の存在(自分)は=即時、あんたが意識(考えてる)することを=対自、他人の知人とかの存在から認識する場合=対他、ということになるんかな? 他にもこんなことが書いてあった…。 【他人があんたを見た場合は=客体(物)、この挫折を克服して本来性を回復するためには、自由な主体として一切に全責任を負い。自己の客体性を引き受けねばならない】。とこのへんがあんたが言うてる「自由」というもんなんやろな。この自由は大変な重荷やな。サルトルとかはそれを自分の意思・主体で選びとるべきやと考えたんと違うかな?で、 続きにはこんな記述があった…。 【ここからいわゆる「参加」の問題意識が生まれ、さらに歴史的社会における実践の問題が追究されて、新解釈によるマルクス主義を結びけるにいたるであろう】。 最後の「自分が無になる」というのか難しいな。さっきデカルト(主義)のこと言うたやろ?どういう経路か俺には学術的なことはわからんけど、デカルト主義はやっぱりサルトルの実存主義やマルクス主義に影響を与えたらしい。フッサールの後期現象学的な意味合いも強い気がする。俺の勝手な解釈でええか?これを信じてしもたらあかんで。俺は「自分が無になる」、要するに我思う、ゆえに我ありという人間・個人を呪縛するようなその言葉も頭に入れて思うのは、「自分が無になる」すにわち「人間が本当の自由を勝ち取る」ということと違うかなと思う。 あんたがいま何歳かしらんけど、正しいことは大学の先生とか専門家(哲学者)にちゃんと習いや。これが定時制高校中退で地べた這いずって生きてきた俺の精一杯の解釈やわ。間違うてたら、ほんまゴメンな。
お礼
いえ、できる限りのことをありがとうございます。 他したべたところ、存在が人は無で・・何してもいいというのがでてました。存在を有でないといけないと感じてしまう・・。実はこれをなそしたいのですけど。 御回答ありがとうございます。