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無と光
イメージの話なのですが、無とは闇ではなく光ではないかという感慨が私にはあります。 また、以前、光明体験を経て、無とは分け隔てなく、境界を超えており、全一なるものと言えるのではないかと知ったのですが、このように個人的体験を通じて知られたものというのは、普遍性を帯び難く、万人共通の理解からは隔たっているとも思えます。 もしかして、無について同じ様な見解を持つ方はおられますでしょうか。また、これに類似した見解の哲学などがありましたら教えて下さい。マイノリティではあるが、自分一人がこのような見解を持っているとも思えないので。
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私は、何となく白っぽい?とイメージしてます。 光とか闇とかイメージした事無いので。 上手く言えないけど、真っ白と真っ黒が同時に存在してるような、収束しながら拡散してるような、ダイナミックに動きながら固定してる といった不可解なイメージです。 でもなんでか白っぽい?と思ってしまうんですよねー。おかしいですよね(笑) 考えてみると、無いんだから透明と理屈では思うのに。 イメージしてるものは理屈と合ってないことってよくありますよね。理屈ではそうだと判っても心が納得しないんでしょうね。 ついでに・・・ なにもない空間にいます。 と言われてイメージすると「真っ白い空間に真っ黒い自分か、真っ黒い空間に真っ白い自分」がイメージされます。 自分が透明にならない不思議 これもマイノリティかも。
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- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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こんちは、アホナさん! 俺は、あなたと気が合うかもね^^/ 回答;正確な回答はNo3さんが、行っていらっしゃるので、ヒネクレ的な角度から、イメージの世界を以下に少し書きますので、少し考えてみてください。ちなみに、君の姿勢は好きだ。【自分で検証】してみる。これ基本だよね。余談だが、厳しいp兄貴は「オタマめ、ホンマにイメージ(手めいに伝播)できとるんかいな?」的な、愛のムチが、たまにありますが(笑)、 私は【1度も、師匠と仰ぐ彼の道標を、鵜呑みにしたことは無く、過去の己の多数の経験から検証して、瞬時に、あるいは、数日後】、に、彼が「何を表現しているか?=道標」が、見える(眼球ちゃうで~)のです。 本題; >無とは闇ではなく光ではないかという感慨・・・ 正しいです。多次元イメージを、言語化して、補足するならば、【絶対無=全知全能=全ての時空を含んだ可能性の海。量子は粒子の最小単位。そして、どんどん解像度を上げれば、【闇が光速で回転しているイメージ】。つまり、人が歩けば風を感じるように、時と空間を含めた可能性の海に、仮説として動き(人間の知覚認識)を想定すれば、闇は回転して粒子にもなるし、と同時に、 波(波動性=情報=例:池でインクをまいて、波をおこしても、【インク自体は、波乗りサーフィン移動しないでしょ?】 つまりは、情報であり物体=存在でない)として、把握できる。(だから、俺も幻覚を自由に生み出せる、古典的分身の術=サイキック=戦闘時の先読み・・・など、不思議な事は説明可能。ヤバイのは、脳の疲れなどで、脳内の演算処理が狂うと、全ての世界のありよう=見え方・固いものが粘土になったり。。。ちゃんと法則性はあるが、~~なったりする事(健康な演算が理想だよね)。 でもね、オレみたく、先天的に眼球が毎秒5回もブレる地獄の42年を過ごすとね、目で見なくても感覚で脳内に別スレッドの演算なのか?、見えてまうし、約数秒後の時間軸の流れを感じるので、例えば戦闘ゲームで、相手の次の動きが完全に見える =ニュータイプ? んな、あほな~~!! の自分自身がまず驚く!し <トランプ・知恵の輪etc. 俺って頭がオカシイかも、というほど、解答がビジョン多次元感覚として感じる(途中計算不要で解答へいけるにはちゃんと理由がある)> 、実は不幸にも、金になるような芸でもなく、目が疲れて常に船酔い状態なのだ。もう笑うしか無い!^^) 今という一瞬に宇宙137億年が折り畳まれている。そして、存在とは【五感に於ける量子交換のみ(脳内の地球人的なフォーマットで演算処理してから、日常として捉える。仮に、宇宙人さんがいたら、フォーマットの数式的プログラムが異なるので、地球人と同じに何かを感じるわけはない。犬でさえ、白黒映像で事足りるから、色なんて彼らには意味がない。)】であり、 そこ(今)から、過去さえ生まれていることに普通の人間は気付かない。だから、信長や秀吉など、私の先祖系の「尾張気質」でさえ、僕を成立させるために、「三河気質」の徳川家康に、滅ぼされたのだ。 俺が彼らを生んだと、言えるし、アホナさんの宇宙に可能性の結果として、先の3武将が居たとすれば、それは、アホナさんが【今】を成立させる必然として、過去を不断なく放出しているから、と言える。 んな、あほな~~! が事実です。^^/ 文字打つの、疲れた~~、クラクラ・・・病人でーーす。^^/
お礼
今という瞬間に全ての時空が折りたたまれているという考えは面白いと思いました。考えればこの世は不思議なことで満ちていますから、多様な考えがあっていいと思います。 詩などを書けば、数式には表せない思考の表象などが現れて、人間の不思議が垣間見えたりします。それもまた、歩けば感じる風のような、宇宙の表象かもしれません。
- 雪中庵(@psytex)
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そもそも我々の目にする世界は、時間的流れを 排した絶対確定化において、無限不確定に発散 =無に還元されるものである(不確定性原理)。 それを、その潜在的認識可能性の変移=時間的 流れという架空の軸を導入する事で、その認識体 (脳>細胞>分子>原子>素粒子>クォーク> 超弦(量子))による、「経験的に物事を表面的に いい加減に捉える(原理的に確定化しない)」事 によって存在性を派生させているのだ。 そこにおける階層現象化に依存した非光速性に 依存して、時間軸(自我仮設=記憶=過去=超光速) と空間軸(時空仮説=予測=未来=光速下)は対発 生しており、その結果として、相対性理論のミンコ フスキー4次元空間において、時間軸と空間軸は 虚数関係にあり、自乗においてマイナスになる 虚数軸との等距離点に0の面(界面原点)を生じる。 それが別名「ライトコーン」、即ち光の描く軌跡なのだ。 つまり光(量子)とは、存在を成すもののようでいて、 そうした不確定性原理を、階層現象表面的な認識 に依存して有限化した時空間に対する、無の射影 であり、いい加減な認識=何かあるんじゃないのと いう疑問として生じた意識(宇宙)に対して、本当は 無いんだけどねという無の射影なのだ。 逆に言うと、「無いとは分からない事が有」であって。
お礼
なかなかオリジナルのお考え、難しかったですが、無の射影という表現は分かる気がします。 私的には、最初に仰られているような、その射影を考慮することなく、絶対や相対を超えた世界を想像しています。
私には感覚的に「無」が理解できません。 ある場所が虚ろである、ということと「無」は全く別なこと。 空っぽであること、つまり「何も無い」、ということではなく ただ、 「無い」 ということが、感覚的に理解できないんです。 何が?何が無いの?と聞き返してしまうじゃないですか。 でも、 一切が、無い。 ということを「無」というならば。 それは、「有」である我々には知覚は愚か、「認識さえ、無い」と いうものに思うのです。 光も闇も「有る」ものです。闇は、光が乏しい、というだけのこと。 光と言っても私たちの目に映る可視光線ばかりが光ではありません。 マイクロ波よりも振動数の多い電磁波なのですから、極端な話、 生体が発する数ヘルツの超緩慢、超微弱な電磁波でさえ空間に さざ波のように広がりながら伝わっていきます。 観測できない微弱なものであるとしても、無い、訳ではありません。 その限りにおいて、宇宙は光に満ちている、ということが出来る。 電磁波や熱、通過する素粒子などが一切なくても、重力波はある。 我々が認識できる全ての時空は、時空に満たされている、という点で 疎にして密だが無ではない。 認識さえ拒む、一切を含まない、真の意味での「無」という概念は、 もしかすると、未だにきちんと定義さえされていない究極の哲学の 命題なのかも知れませんね。 あなたとおなじような見解ではないのですが、ご参考までに。
お礼
どうも、参考になります。無の哲学、楽しそうです。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
>無とは闇ではなく光ではないかという感慨が私にはあります。 ○真空妙有という言葉があります。この真空を無と訳している場合が多いですね。真空の先に有があるのですね。この有は光の世界のことですから、無が光といってもおかしくはありません。 無我とは光の自分、光の世界を体現する道すがらのことですから無は光との境界ですね。
お礼
なるほど、そういう見方もありますか。
お礼
楽しいイメージですね。理性で考えるのとまた違い、イメージの世界は不可解で生き生きしてるものでもありますよね。黒と白に別れるのは、自と他がしっかり区別されてるからでしょうか。透明になるはず、というのもその通りだなあと思いました。