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脳髄損傷が精神活動に与える機能障害と死後の生に関する心霊学的解釈
怪我や病気で脳髄が物理的に損傷した時、精神活動(記憶、知覚、認識、思考、性格、etc.)に機能的障害が発生する場合がある事が知られています。 脳髄の一部が損傷しただけで、精神活動に影響するのであれば、脳髄が全損する肉体的な死の後には、精神や人格は存在しない事が、自然だと思います。 (何も感じず、何かを認識する事も無く、何も思い出せず、新たに何かを憶える事も無く、何も考えない、その様な態を精神が存在すると呼べるとは思えません) 脳髄損傷と精神の機能障害との因果関係や、死後の生の存在を可能とする方法に関して、霊魂の存在を肯定する心霊学においては、どのような解釈がなされているのでしょうか。 尚、私は理数系の人間ですが、超自然的なものを無闇に否定するつもりはありません。 特に、死後の生に関しては、存在して欲しいと思っております。 ですが、現実に脳髄の損傷が、精神活動に影響する以上、死後の生は存在しないと考えざるを得ないのです。 この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。
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- sheep67
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すみませんNO10です。 一カ所間違ってます。 ごめんなさい。 3段落目の後半は、トートロジーではなく、オントロジーです。 すまんです(>.<) 偉そうに書いておきなら、この調子なので、鵜呑みにしないでください。
- sheep67
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こんばんは。 #8のものですが、続きになります。 というかどんな切り口がいいのかと迷うんですが。 サイエンスで一番明確に存在と関係性の問題が取り上げられてるのは、僕の知ってる範囲では、量子力学での、2重スリットの実験、もう一つは素粒子レベルでの不可弁別性の問題です。他にもあるとは思いますが、詳しくないので・・・ 理数系と書かれてるのでもし知っておられたら済みませんが。 kagakusukiさんは、この2つの問題をどう解釈されるでしょうか?哲学的な問題になりますが。感心がおありでしたら、一度当たってみられてもおもしろいと思うんですが・・・ 関係性が本質か、存在が本質なのか、分からなくなりそうです。 もし関係性が本質なら、脳は、その関係性を物質的に表現する、ある種の媒体に過ぎない、とも把握できるかな、と感じます。 (物理は僕は詳しくないので、概念だけしか知りません) 量子力学以外でも、化学反応や、フラクタル、トポロジー、オントロジー、エントロピー、散逸構造、など、存在を本質的としない科学の学問は多数在ります。(多分僕の知らない学問でもたくさんあると思いますー) 一例として、トートロジーは、「意味の階層同士の関係性こそが、概念、という認識対象としての存在をうむのだ」、と言う前提に立って構成された学問。 中国の陰陽5行説と同じ、と僕は考えてます。 これら、関係性を本質と考えて成り立つ学問は、ある種の気の迷いでしょうか? あるいは実在でしょうか? 最終的には、物質存在に全部還元されて、この世から消える運命の学問だろうか? 僕はそんなことはない、と思ってます。僕は関係性は実在だと考えますので。 同じ理屈で、心を実在と仮定して考えてますし、「主観世界」を実在として仮定してます。実在とする位置づけることで、科学と同じく対象として扱えるからです。 これらは、最終的には感情と関係性のメカニズムになる、と思ってます。 あとせっかくなので、ちょっと持論を書いていいですか?(と言いつつ書く・・) 心理、特にフィーリングや感覚を論理的に考えると、必ず「無限」概念が出てきます。数学ではこれを取り扱ってますが、物理以下の分野では現実を扱う分野では、無限を取り扱いません。中で出ては来ますが、直接無限とは?ということはやりません。それはこの世が有限だからです、当り前ですが。でも心を感じれば分かるとおり、心の感覚では無限は当り前です。なので無限の扱いができないと、心の論理的分析もできません。 具体的例として、恋人がどのくらい好きか、という感覚や、海は広いーな大きいなーー、と言うときの感覚には、それらの中心的感覚を一言で表すと「無限」と言えます。数学では無限の大小も取り扱いますが、基本、無限が、感覚としては常に「実在する」として取り扱わないと、論理で分析できないと思ってます。 僕自身、無限感覚や絶対感覚を、何となくそう感じる、などではなく、明確に把握対象として認識してから、分析が大きく進みましたから。 人の脳は、階層構造でしかこの世を把握できないしょぼい機能しか持ってないことも分かります。 それは、科学学問が、上から数学、物理学、化学、生物、などと分かれてしまってるのを見ても明確です。ただのシンプルな現実を対象としているのに、どうしてこういう層状の構造ができるのか、というと、人間の脳は、現実をそのままダイレクトには把握できないから、となります。 具体的にいうと、人間は、物理学を考えながら、全く同時に生物学のことを考えながら、全く同時に地学と論理学のことを考える、などということはできません。絶対無理です。 現実を全く脳は捉えられない。物質としての脳の能力の限界が明確に現れる場面。無限を直接把握もできない、何もない無も捉えられない。 もし数学が好きなら、無~0や、無限については極めて難しい問題があって、論理では数学として把握していても感覚的に捉えてる人など、えらい数学者でも一人もいないことは知っておられると思います。 頭がいい、悪いの問題じゃなく、無限を、人の脳が感知しない、という機能制限から来る問題だからです。 階層構造でいれば、上の学問の階層以外にも、例えば、地球上に、町や村があって、それが集まって都道府県ができていて、その都道府県が集まって国ができていて、国が集まって世界ができているという、この単純な現実さえも、人の脳はダイレクトに把握できないので、このように階層に分け分けして捉えないといけない。 階層に分けて分けて、やっと脳は現実のほんの一面を把握するのみです。 階層に分けて分析しないと、たかだか地球上の仕組みも認識不可能な、そんな脳の機能の限界、を感じます。感じません?? 僕は感じます。 人の認知や把握能力は、関係性を把握するのにはむいていません。明らかにそれは苦手科目です。あるいは論理は、関係性の把握を得意としない、とも言えます。できないわけじゃないですが、2次的な把握になります。 ちなみに、心理学でも、この脳が捉える階層構造に対応した内面の構造ーーつまり人格の階層構造、という考えが出されています。それは僕は極めてもっともだなーと思います。 脳の把握能力は、現実に追いついていない。「意味、意義」という名の仕組みを把握するには役不足の有機コンピュータです。 こういう風に考えてくると、僕等の脳が把握するより、さらに大きな体系の中に、僕等は居ます。それは現実、という名の体系です。ここまでは、それこそ現実に、間違いないです。 でもだからと言って、これが、人間の魂は、物質ではない、脳ではない、という物証を示すわけでもありません。 目に見えない以上、状況証拠的ではないか、とは思います。個人的にはこれで十分なんですが、人それぞれですよね。 あの世や心霊学で言えば、心霊学知らないのですが、僕等が、霊と言うときは、霊とは、人格です。生きていたときと同じ「人」のことを霊と呼びます。当り前ですが。 この世のものではないにせよ、霊がいる、ということは、死んでもパーソナリティーが保持される、ということです。いいでしょうか? それが現実に起きるかどうか調べるには、まず、僕等の人格がどうやって成立しているか、本当に明確に知る必要があります。 今生きてるこの人格が成り立つ理由を知らずして、あの世でも人格が成り立つかどうか、など論じられないからです。 パーソナリティーの成立を知るには、心理学でいう、性格、気質を分析する必要があります。僕個人としては、その人格の土台となる、直観、の仕組みを追っています。DNAも興味在りますが。 人格の成立理由を完全に知ってから考えよう、と言うわけではなく、もっと柔軟ですが。 パーソナリティーを保持する原動力は何か? まだ僕はよく分かりません。心理学では生命エネルギーなどと言ってますが。これはあまりに曖昧な分析です。 多重人格や統合失調症、躁鬱病などの精神障害を見ていると、いろいろ参考になります。複数の人格をいかにまとめて、今この文章を書いている僕が存在しているか、という視点です。全部分かっていれば苦労はないんですが。 いずれにせよ、自分の人格が分からないのに、霊を論じても仕方ない、と思ってます。論理的には。現在進行形ですねー。 以上の文章ですが、まあ僕の思いこみと独断です。もし理解いただいて、何か思われるところがあればうれしいんですが。僕も言いたいこといえてよかったです。
- 1000827313
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「脳髄が全損する肉体的な死の後には、精神や人格は存在しない事が、自然だと思います。」 これは“脳死”の時の話で出てきましたね。日本は“全脳死”を人の死と定義しています。恐らく血液が一滴も脳に行かない状態ですから、三分から五分で脳細胞は死んでしまうのでしょう。この状態は全人格の消滅であるから“個体死”であるとされましたね。これは心臓や肺臓が悪くて脳に血液が徐々に不足して死に至るのと変らないと思いますが・・ この時に魂は消滅しているのかどうか良く判りません。普通に死んでゆく方に対して、「死後は何も無い」と言い切るのは、その方の思想・信条と違っていたら如何なものかと思います。 「(何も感じず、何かを認識する事も無く、何も思い出せず、新たに何かを憶える事も無く、何も考えない、その様な態を精神が存在すると呼べるとは思えません)」 これは少し違うかなと思います。所謂“植物状態”の方に対する言説のように聞こえます。(間違っていたら御免なさい。)人間はコミュニケションの方法は言語(離す、書く、ボディ・ランゲージ等)以外には方法を持ちません。このコミュニケーションの方法を失った方が、何も感じていない、何も考えていない。何も思い出していないとするのは、相手の意思表示以外に何かありますでしょうか?テレパシーを人間が使っていれば判ると思いますが、このような世界には住みたくないですね。一人が悲しんだら、全人類がそれを感じてしまう事になりますから。従って、この場合も魂が消滅しているかどうかの判断は、かなり独善的なものになるのではないでしょうか。 私には心霊学は全く判りませんので、何か見えることはありません。しかし、kagakusuki様のご質問に、少々反論と言うほどではなく、こう言う見方もあるのではないかと言わせて頂きました。
- sheep67
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こんにちはー。 以下独断と偏見ですが。 個人的意見で、心霊学とか知らないんですが、いいですか? 僕もこれ悩んで考えてたことありますー。 心の仕組み構造と脳との対応をずーっと追っかけていくと、 心理学でいう普遍的無意識は=脳幹、と言うような妙な答えになるんです。 あのミラクルな、何でも生み出す普遍的無意識が、あのちっぽけな脳幹?? 絶対おかしい!! それがあまりに唯物論的であっても、論理はそうとしか答えを出さない。どうしよう~~と。 これは何か変だ何か変だ~~と困りました。 それ以前に、僕は、脳と心の関係については、「2つは対応している」という結論を出していました。 唯物論でもなく唯心論でもない、心に起きたことは必ず脳で起きている、脳で起きたことは必ず心に起きている、という話です。 その結論自体はすごく自信がありました。 なので、この脳と心の対応に関する直感的結論と、現実の心を分析していったときに出る、脳幹こそ本質、と言う変な答えとが整合性がないので困ってました。 kagakusukiさんの疑問と似てますよね? で、その後の結論は(話飛びますが)、 まずいまでも全部解けてませんが、今の暫定的解としては、 本質は、存在ではなく、変化(変化率)や、関係性だ、ということです。 もうちょっとベタな言い方なら、科学的な語彙で言うと、「刺激」や、ん~~科学ならエントロピーとか? 数学では確かフラクタルとか、 化学なら「散逸構造」という概念もあります。苦しい表現ですが。これらは、以下の話と関係があります。つまり変化の方こそ本質ではないか、という物を示すと、僕が独断で思ってるものですが。 存在と波が本質同じものだというのはご存じだと思いますが、 同じように、脳という存在は、波ーーつまり時間軸に沿った変動そのものでもあります。 波や変動、というのは、2つ以上のものの関係性ーーその関係の変化をプロットしたもの、と考えていいと思います。 また心理的にも、感情、というのは、相手がないと起こりません。外部からの刺激なしで起こる感情はないですし、前に誰かがいないと、捉える何かがないと感情は起きません。 もし感情が純粋に存在で石ころみたいに在るのなら、対象によって生まれたり消えたりはしません。 何が言いたいかというと、感情とは関係性、関係性の具現化そのもの、と思うんです。 心は、存在と捉えられる、と同時に、その性質は完全に関係性で、自分の外部なしに成立しません。 心理的にも、この辺りの性質を追いかけていくと、存在している、とは、外部と関係がある、ということと見分けが付きません。 ここまで考えてくると、仏教でいう縁起や、平家物語とかでいってる、変わらぬものなどない、というのは、ほんまやなーと思いました。 この辺りが突破口になって、次の段階にいけました。まだもがいてますが。 この、変化や、変化率や、概念としては、ずーっと微分したり積分したり、みたいなことになると思うのですが、 言い換えると、変化や変化率が主体であると、借りに仮定したら、この変化が表現できるものであれば、別に科学で観測される物質でなくてもいいはずです。 と言ってももちろんそんなものは物質以外に僕等は知りません。それは物質でできた脳と5感は、物質以外を感知しないですし、科学が扱う対象も5感で測定できるもののみだから、当然物質以外の候補は出てきません。 それは僕が知らない、というだけですが。 死後があり得るなら、物質以外に、変化を表現する具体化する何か、が欲しいのです。 上に言った理由で、生きている間にそれに出会うことはないのかもしれませんが。 2つめは、本質であるところの「無」の性質についてとかも書きたいんですが、この無を追求しても、同じように、物質と関係性の因果関係が逆転します。一度ひっくり返ってから、今度は2つが等価である、となります。同じような話なので省略しますが。あまり自信もないし。 3つめは、「直観」の、メカニズムです。、これを追いかけても、「存在」は、本質ではないなーという話になります。 これらの話は、おそらく死後はあるだろう、という状況証拠くらいにはなります。 僕もkagakusukiさんと同じで、元々死後はあってもいい、という思いこみがあるので、それらの状況証拠的な説明として、上の2つ他、いくつか候補があります。 死後があるには、「物質」が本質では困るのです。当然ですが。 でも、僕等は、物質以外の本質を感知し得ません。 この壁はややこしい。 同様に問題は、物証ですかねー。あったら苦労しませんが。物証という言葉自体、物にこだわって確信を得る話なので、ここはいかんともしがたい・・・。 この世で物質ー脳に頼って生きてる限り、この壁は越えられないですね。 以上の話は、死後の生を両立させる話ではありません、が、脳で行き詰まって止まってるときには意味があるかもと思うのですが・・・ 何か今ちょっと書いてる時間が無くて、清書できません。 あまり話がまとまってません。もう一度投稿するかもしれないです。変に思うところがあったらいってください(と言ってもつっこみどころ満載に決まってますが・・)
お礼
御回答頂き、有難うございます。 活動はそれが精神的なものに限らずとも、変化を伴いますから、 >本質は、存在ではなく、変化(変化率)や、関係性だ、ということです。 と言う事は判るのですが、逆に変化があれば活動もあるとは言えないと思います。 例えば、生命活動には有機物の酸化という化学変化を伴いますが、ブドウ糖や脂質に火をつけて酸化させただけでは、生命活動には成りません。 従って、精神活動が非物質的な変化を伴い、それと類似の変化が死後も続いていたとしても、それが精神活動と呼べるものとは限らないと思います。 そこで、証拠の話になりますが、死後の生が「ある」という証拠は無くとも、「ない」とした方が説明が付く現象が存在するのです。 その1つが質問にある、脳髄損傷に伴う精神の機能障害なのです。 この脳髄損傷に伴う精神の機能障害が、死後の生を否定する根拠としては、充分ではないことを示し得る説が、存在するならば教えて頂きたかったのですが・・・・・
- shift-2007
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#1 >必要があったと言う事は結局、ハサミが無くては(少なくともまともには)紙が切れない、と言う事ではないでしょうか。 この世界ではそうだとおもいます。 あくまでこの世界ではです。 あの世では逆に生身でいることは出来ないのではないでしょうか。 >と言う事は、脳が無ければ、何も感じず、何かを認識する事も無く、 これも条件付で「この世界では」ということじゃないでしょうか。 この世界で脳が存在しているのはそれなりの必要があるためで、それを否定しても始まりません。 ただ、この世界ではという話なのでいわゆるあの世では違うことになるのではないでしょうか。 >この御回答の内容は、心霊学で採用されている説なのでしょうか。 いえ、私の想像です。
補足
重ねて御回答頂き、有難うございます。 >われわれの精神(霊魂、魂)は記憶、知覚、認識、思考、性格、などの機能が備わっていて、 と書かれていますが、精神(霊魂、魂)に機能が備わっていて、あの世では脳無しでも行えた精神活動が何故、 >この世界で脳を損傷すればそれらが正常に機能しないのは当然 となるのかが判りません。 出来ましたら、再度ご解説をお願い致します。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
[この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。] 私は今、あなたの質問に回答しようとPCを使ってキーボードをたたいているのですが、PCが壊れたりネットに不備があれば書き込むことも答えることもできません。書き込もうと思ってPCに不具合があればあわてて何とかしようとするはずですね。回答は任意のボランテイアですからあせることもありませんが、仕事の最中に不具合が起きれば普通ではいられませんね。実際、過去には何度もそういうことがありました。 私が書き込まなければあなたには私という存在は認識できないでしょうし、誰かが私という存在を知っていたとしても私のPCに不具合が出れば私は私を表現できないので、同じく認識はされませんね。例え私が必死で何とかPCを修理しようとしてパニくっていたとしてもですね。 あなたの立場から論理的にみれば、ハンドルネーム(例えばA)がPCを使って書き込んでいるとしか見えないはずですね。 つまり、PCとそれを利用する私という存在を例えて言っているのです。これはあなたに答える見えない私と、私を表現するPCの話ですが、このカテの皆さんの存在はPCのCPUやメモリーを通じてしか認識の方法はないのですね。 直接会えばあなたが人間の体をしていて脳もあることもわかるでしょうがそうでないかも知れませんしね。 このように考えるとPCのCPUやメモリ-も肉体の私の脳も同じ機能でしかないですね。これが霊肉二分論ですね。 つまり、PCが壊れても私は存在するでしょ。これを肉体が死んでも私は存在すると言い換えても論理的におかしくは無いね。 高度な科学技術になればなるほど肉体も機械も等価になり等価も真なりで証明が成立してしまうのですね。
お礼
御回答有難うございます。 肉体はI/O、この世はネットワークという訳ですね。 そして、パソコンの記録データの全てを暗記しているので無い限り、ハードディスクがクラッシュすると、記憶喪失になる。 脳の海馬はさしずめ、ハードディスクへの書込み用コイルと言ったところでしょうか。 ですが、パソコンの故障で、ハードディスクに書込みが出来なくとも、閲覧した情報の一部は、パソコンを操作している人間にも、記憶する事は出来る筈です。 海馬の機能不全等によって、その場で認識する事は出来ても、その事を記憶し続ける事は出来ない、という症例がありますが、これは「操作している人間」に当る霊には、記憶領域が無いと言う事になりはしないでしょうか。 又、(前頭葉等の)脳髄の損傷によって性格が激変する、という症例がありますが、これは性格の形成において、少なからぬ部分を脳髄が担っている事の現われだと思われます。 これらを考え合わせると、肉体の無い場合は、性格も記憶も異なる事になり、同じ自我と見做せるのか疑問が生じます。 それと、この御回答の内容は、心霊学で採用されている説なのでしょうか。 一部、疑問な点は残ってはいますが、ここ迄で頂いた御回答の数々の中では、mmky様の御回答が最も私の質問の趣旨を、御理解頂いたものと成っており、有難く思います。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
kigurumiです。 質問はプラトンのように人間は魂と肉体とでできているという前提にたち、魂は永劫不滅という性質を持っているものとして、肉体は死ぬと動かなくなるが、魂は肉体とは違うので、死んだ後も存在しつづけるはず。 では、それはどういったものか? みたいなことを聞いていると思ったのですが、、、 この肉体と魂二元論でいけば、魂というものの存在を立証しなければならないんです。 脳内物質の造作が現実を認識させているのではなく、脳内物質と関係なく意志のようなものを持った何かが人間の肉体を宿主として未来永劫生きようとしていると、その存在を証明しなければならない。 それに近いものならありますよ。 DNAです。 魂とか核とか呼べる一番近いものはDNA。 自分が生きているうちに、子供に移り、子供は両親の遺伝を保持して、両親が死んでも生きていれば、両親の魂(設計図)は生きていることになる。 これが死後の世界も自分が存在しているというのに、一番近いものではないか と。 「そんなんじゃだめだ。自分の意志が無いと。辛いとか楽しいとかそういう感情を持ちながらじゃないと? でもそれ肉体の部分であって、魂じゃない。 酒飲むと、意味もなく笑いがこみ上げてくるのは、脳内物質が関係しているわけでしょ? 見える、楽しい、悲しい、聞こえる、におうってのも、思考するのも、脳内物質の仕業でしょ? 微弱の電流が脳に流れて物質が行き来している。 ある一定の数値に達したら「甘い」とか「辛い」とか自覚するに至れるわけでしょ? 一卵性双生児を比べてDNAがどのような影響を与えているのかって研究されています。 身体的特徴は、兄弟より全然類似している。 同性愛という個性も、DNAが関係している。 性格もすごく似てくる。 遺伝の病気も出現しやすさは一卵性双生児の方。 ただ、人間はDNAだけでなりたっておらず、経験を通して余裕の部分は個性が入る余地があるので、趣味などにおいては違ってくる。 私が知っている一卵性双生児は、外見は全く見分けつかないが、好みは違い、その如実な違いは、一人は文学に興味を持ち、もう一人は芸術系に興味を持つという個性に現れた。 子供にDNAが移ったとしても、もう別物。 子供に自分の遺伝子が移り、自分が死んでも子供は自分の遺伝子を保持しているので、自分は死後も存在しているとするか。 人それぞれだと思いますが、死後に、「自分の魂は子供に入ったので、自分は今も存在しつづけている」と自覚することは できない。 だって自覚する役割を持つ部分が崩壊しているので。
お礼
重ねて御回答頂き、有難うございます。 >魂は肉体とは違うので、死んだ後も存在しつづけるはず。 では、それはどういったものか? みたいなことを聞いていると思ったのですが、、、 微妙に違います。 私は現在のところ、精神は脳の機能によるものなので死後は存在しないはず、と考えております。 ただそれだけでは味気が無いので、「脳髄の損傷が精神活動の機能を損なう」という現象が現実に存在している事と、「死後も精神が存在する」という(未証明の)事を、「霊が存在する」という立場の方は、どのように解釈する事で、この二つを両立させているのか、教えて欲しいのです。 霊が存在するか否かを質問している訳ではありません。 仮に、真実が味気ないものであるならば、それはそれで構いません。 あくまで、「霊が存在する」という立場の方に、「死後の生の存在を完全否定しなくとも済む説」(真実がその説通りのものであるか否かは、又別の問題ですが)を、教えて欲しいのです。 >子供は両親の遺伝を保持して、両親が死んでも生きていれば、両親の魂(設計図)は生きていることになる。 それはあまり一般的な考えではないと思います。 子供が生きてる限り親も生きているとするならば、親の死の際に、死者に別れを言ったり、死を悲しむ必要はないわけですし、親が生きている間は子は独立した人間ではなく、親の一部に過ぎなくなります。 >でもそれ肉体の部分であって、魂じゃない。 >だって自覚する役割を持つ部分が崩壊しているので。 と書かれているところを見ると、kigurumi様は「死後に精神は残らない」と考えておられるようですが、私の質問は、「それ肉体の部分じゃなく、魂である。」、「自覚する役割を持つ部分が崩壊しない」とする立場の方に対するもので、現実に脳髄の損傷によって、生きながら「自覚する役割を持つ部分が崩壊している」例がある事と、「どのようにして両立させているのか」なのです。 「自覚する役割を持つ部分が崩壊している」事を断言されてしまうと、質問の主旨からは外れてしまいますので、その点をご考慮願います。
精神世界に深く入り込む質問ですが、ホーキング博士の大脳が肉体から乖離したために生じた純粋な知性についてどのように捕らえていますか?
お礼
私はその話を知りませんが、大脳も肉体の一部であり、大脳が生きているのであれば、死後の生とは呼べず、この質問とは関係が薄いと思います。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>(何も感じず、何かを認識する事も無く、何も思い出せず、新たに何かを憶える事も無く、何も考えない、その様な態を精神が存在すると呼べるとは思えません) 今は無いんですが、前よく失神していたんですね。 「来るな」と予期があって、10分以内に発作が起る。 根性やぁ~と自分との戦いが始まる。 最初 寒いって思うんですね。 それからだんだん聞こえなくなってくる。 冷や汗が出てくる。 ちかちかと目の前に大きな丸いものが見えだして、ジグソーパズルでピースが無いように、見える箇所が限られてくる。 酸素が据えない。 「ここで倒れてなるもんかぁぁ もうだめぇぇ」・・・・ どれくらいたったかわかりませんが、椅子に座っているか、ベッドに寝かされて起こされているかで、意識を取り戻す。 「もうだめ~」以降 意識が戻るまで、まったく記憶ありません。 あんなに苦しかった近くもそれ以降ありません。 恐らく刺されるなり殴られるなりしたとしても、認識することは無いでしょう。 脳に酸素がいかなくなり、物質がいききしなくなるので、知覚することが無い。 死後の世界というか死ってこんなものかなぁ と思います。 確かに苦しいが、あまりにも苦しすぎて「じわじわとやらずに 一気にやって」と死を望むくらい苦しいが、意識消えれば無なので、何も無い。 また かえってきちゃう(意識が戻る)とめちゃ 苦しいです。 呼吸はちゃんとできていないし、体温は下がっているし、脈も上50無い状態なので、「く く くるしーーー」なのです。 数時間たてば数値が戻りますが、それまで知覚が鈍化している。 人間の脳が見せる世界がこの世。 脳が完全ともいかないまでも ある一定レベル以下に下がっても、知覚することはない。 (完全に停止していないので、脳死ではなく、また意識が戻る つまり 知覚できるレベル以上に戻るわけです。) 人間はこの世をほとんど脳で捉えている。 実際そのままは捉えることはできないが、信号に変換されたものを脳が虚像を作り、それを私たちはこの世として認識している。 どれくらい意識を失っていたのか計測していないので、わからないのですが、脳がかなり鈍化している最中は、全く記憶が無い。 バイクに乗ってて 隣の車が突然割り込んできて「あぶない」って思った瞬間の次は、「あーーー 路面をすべっていくーー とまらねーーー」です。 恐らくブレーキをかけてバランスを崩し、路面に激突してすべっていったのだと思いますが、その間脳が処理不可能になり処理しなかったようで、時間が消えている。 あれから車にひかれていても、恐らく「痛い」とは思わないんじゃないかと。 やっとすべるのがとまってしばらく地面に寝ていて「さて・・・どうしよか このまま寝てよか 痛くないから。。。起きるかぁ」と思って起きると、どこも痛くない。 30分後 バイクで走っていて「いてーーーーーーーー いってーーー」 めくると出血しているは パンパンに張れているわ。 驚くとしばらく痛くないみたいで。 やっと平常心戻って通常の脳の活動に戻ると、痛いって普通の感覚を取り戻すみたい。 古代より死後にも世界があると人々は思いたがっていたんですね。 それであれこれ考え付いた。 これで終わりではない と死を受け入れないために、苦悩した。 大地は春になると復活したかのようになるので、人間も一旦は信でも植物のように復活すると思われていた。 人間は植物とは違う。 植物は「去年の冬はひでめにあった。 やっと春になった」とは思わない。 メンデルの法則のように、種を残して世代交代する。 木は違うじゃないか。 ええ、生き物の寿命はそれぞれ違う。 木だっていつか水や養分を上に吸い上げられず、老朽化して死を迎える。 死後の生として、子供を残すという考えがあった。 自分本体は死ぬが、自分の魂が息子にわかれ、自分が死んだあとも、息子に中に魂としていきつづけると願われていた。 だから どうしても息子を欲しがった。 人間は地球の今までの歴史のほんの最後の方に登場しています。 それまで他の生き物がいた。 最近人間って種族ができたわけで、その人間がこの世のメインってわけじゃあない。 ホモサピエンスが滅びても、他の動物が生き残る。 自分が主人公だと思うと、ものすごく生や存在に執着を感じるでしょうけど、この世は人間のためにつくらたものじゃあない。 人間も今まで絶滅してきた生き物と変らないんです。 他の生き物が歩むように、人間も生まれて死んでいく。 それが真理でしょう。
お礼
せっかく御回答頂いた所申し訳ございませんが、何を言われたいのか良く判りません。
私もNO.1さんの考えに近いです なぜ生き物に脳があるのか? 心霊とか死後とか言うあやふやな世界に迷いこむ前に そちらから先に考えてみても良いのではないでしょうか。 また 霊魂の存在については、断見と常見とがあります 断見とは、死後には一切何も無いという考えです 常見とは、死後も生前の心がそのまま続くという考えです 仏陀はこの両方を否定しました 心も肉体も休むこと無く変わり続けていくという見方でしょうか 仮に霊魂が存在したとしても永遠では無いと思います。
お礼
御回答有難うございます。 せっかく御回答頂いたところ、申し訳ございませんが、私の質問の仕方が悪かったのか、質問の意味に関して、私が知りたい事と、bird48様が受取り方との間には、若干のずれがあるようです。 >心霊とか死後とか言うあやふやな世界に迷いこむ前に と記されて居りますが、私は迷い込んでいるわけではありません。 私の考えは、質問内容に記したように、 >脳髄の一部が損傷しただけで、精神活動に影響する という現実の現象を根拠として、 >死後の生は存在しない と言うものです。(つまり断見の一種です) ただ、それでは味気が無いので、この根拠を覆し、「脳髄が損傷すると精神活動も機能障害を起こす」事と「死後の生の存在」を両方とも説明可能な説が、もし存在するならば、教えて欲しいというだけです。 断見でも常見でも無いと言う事は、死後も精神は残るが、生前の精神とは別物と言う事でしょうか。 もしそうであれば、生前の自己(自我)は死によって終わりを迎える事になるので、生前の自己とっては死後の生は存在しない事になり、実質的には死後の生の存在を否定しているものと思います。 又、脳髄が損傷すると精神活動も機能障害を起こす事に関しては、この御回答では、触れられておりません。 両方とも存在している事を単一の説で説明されてる訳ではありませんので、申し訳ございませんが、私が知りたい事とは異なるように思います。
補足
御回答頂き、有難うございます。 >このコミュニケーションの方法を失った方が、何も感じていない、何も考えていない。何も思い出していないとする コミュニケーションの方法を失った方に関する話ではありません。 コミュニケーションの方法を持ちながら、(脳髄の損傷によって)精神の機能の一部を失った方々が存在して、その失った機能は症例毎に様々である事から、脳髄の全損に於いては精神の機能も全て失われると考える方が、自然に思えると言う話です。