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『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
質問タイトルはポール・ゴーギャンの絵画に同じです。 ゴーギャン展の開催にあたって、予てより私の胸の片隅で引っ掛かりのあった、意味深なこの言葉について皆さんのご考察を伺います。 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【Q-2】 われわれは何者か? 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? 【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います 【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います なお【Q-4】、【Q-5】に関しましては任意にご回答願います。 以上、よろしくお願い致します。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.60を受け継ぎます。 ★ 私も、特にゴーギャンが好きなわけではありません。他に、ご興味を惹かれる画家があるのですか?よろしければお答え願います。 ☆ わたしが 《ゴーギャンはつまらないです》と書いたのは そのあとに 《ピカソよりは ましかも知れません》と続けたように ゴーギャンの絵にけちをつけるためではありません。この絵の批評を書けないことの言いわけです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私はキリスト者とはいえません。大切なのは、現在とこの生であることは間違いありませんが、キリスト者しかいなくなれば、生命の起源を究明しようとする者はいなくなるのですね。科学と宗教の分離が、この世界の喜劇であります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうでしょうかね。もうお答えする気力がありません。あしからず。(つまり あからさまな皮肉です。敵対的な言い草を意図してはいませんが そう取られても もういいやというものです)。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
私は、概念や絵や写真に出会うにあたり、毎回、様々なストーリーを思い描いて楽しんでいます。 ただ一つ恐れるとすると「多数の選択肢の内のひとつの解釈」をまとめて書き込んで行く内に、「【それがもっともらしい】と思い込んでしまうのではないだろうか?」ということです。 そのため、今回の回答(というより、一つの考え)を最後にしたく存じます。 (決してpokoperopo様の誘導尋問?から逃れるためではありませんので、誤解無きよう。。。笑。。。) 今回は、「多義性」よりも「定位・切り出し」といった概念にて見てみます。 >>> あの偶像は、月の神ヒナと、大地の神ファトゥと、創造神タアロアとの、三つを組み合わせた、ゴーギャンの想像の産物とはいえないでしょうか?よろしければお答え願います。 <<< 今回も http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin.html から、引用させていただきます。 >>> http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_gogh.html ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ (Van Gogh peignant des tournesols) 1888年 73×92cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ国立美術館 (前略)...当時のゴーギャンは描く対象の(自然主義的な)写実的表現を否定し、クロワゾニスムを用いて己の内面で見えるものを描くことを理念としていたことに対して、ゴッホは本作に示されるよう対象(ここではひまわり)を置き、それを見ながら制作する方法を採用しており、この相容れない二つの芸術論は次第に二人の関係を悪化させ...(後略) <<< ゴーギャンは、クロワゾニスという手法を用いることで、(子供時代の環境要因なども関連していたかも知れませんが)知らず知らずのうちに自身を神の視点に近づけようとしていたようにも思われます。 すなわち、ゴッホの絵が対象と自己との関連性を「切り取って」描かれたとするならば、ゴーギャンの絵はそれら関連性をも包括的に自身の内部に取り込んで(自身の思うままに処理することで)、好きな位置で切り出した(切断した)状態を描くことが可能だったのでしょう。絵として切り出す位置を間違えると、描かれた側にさえも、多大な影響を与えてしまう(切り取る位置を誤る)ということに気がついたのかも知れません。 >>> http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_portraita.html 光輪のある自画像(戯画的自画像) (Portrait-charge de Gauguin) 1889年 | 79.2×51.3cm 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー <<< では、作品解説を読むまでもなく、(神の視点に近い、なんらかの)「優位性」の位置にて「切り出し」が行われています。 で、件の絵の偶像ですが、一つの解釈としての「タアロア」には >>> http://www.pandaemonium.net/rdb/menu/file/705.html タヒチ神話における至高存在であり創造神。自分自身の姿に似せて人間を造った。 <<< とありますが、(おそらく、月の女神ヒナと合わせた)その偶像をゴーギャンが書き入れるに辺り、逆に「自分自身に似せて」偶像を作った( 偶像に自身に重ねた)という解釈も可能です。 であれば、娘の死後の行き先をも、また、自身の死後の行き先をも、(輪廻するかしないかを含め)自身が決定できる(青:自由の世界)という思いを込めて偶像を描いたのかも知れないですね。
お礼
じねん&じんえんさん、ご回答いただきありがとうございます。おっしゃるとおり、ひとつの思いにとらわれてはいけませんね。絵の意図を、ゴーギャンの口から聞くわけにはいきませんし、彼の意図せざる部分もあることでしょう。それを観る者が自由に感じ取ることは、その多義性を味わう意味においても、この対話は有意義で感謝に堪えません。私も本物を観て考えが変わりました。やはり本物は、ゴーギャンの生い立ちが色濃く出ているのです。機会がありましたら、どうか本物をご覧になってください。ゴーギャンの絵が、ボストンに帰るまでは、この質問は締め切りませんので、是非ともご感想をお聞かせください。また、いつでも寄っていただければありがたく思います。
pokoperopo様、こんにちは。 いつもご丁寧なお礼をどうもありがとうございます。 >初期のゴーギャンの印象派的な作品群は、個人的には駄作、あるいは二流そのものであると考えておりますが、これは素人考えでしょうか? >ゴーギャンの絵画技法 わたくしも素人ですので詳しくは存じません。 仮に初期以上にタヒチ以降の作品に高い評価が得られるとするならば、やはり当時流行った文学上の「西洋文明批判」と相通ずるものを見出すからではないでしょうか。 つまり、当時における西洋文明の様々な「病み」を革新するために、原始主義的価値観の復興をゴーギャンみずからが身をもって実践したことは、ある意味において印象主義をも超える大胆な「前進」だったでしょうから、相対的に初期の作品が評価されにくいのかもしれません。 ゴーギャンの絵画技法も一概には評価しづらいかと思われます。 文明人としての決別を目指して渡った南の楽園においてでさえ、彼はそれまでに思い描いていた理想と現実との「乖離」に苛まれました。 このやるせない「隙間」を埋めるべく、例えば謎めいた「青い土着神」のように、現実世界のものではない「ゴーギャン自身の夢想からの産物=象徴」によってひたすら補い充たそうとしたのではないでしょうか。 わたくしにはそのような気がしてならないのです。 ああ、なにかもっともらしいことを書けば書くほどに陳腐な表現に陥るのはなぜでしょう? つまらないですね~(笑) >ゴテゴテしている大作よりも、説明を必要としない美しい小品のほうが、佳作といえることも少なくはないからです。 う~ん、これは嗜好の問題かもしれませんね。 例えばどの絵画がこの例えとして挙げられますでしょうか。 こっそりご教授くださいませ♪ 総じて大作になるにつれ迫力も比例するように感じられるものの、ダ・ヴィンチのように解剖学や遠近法などといった科学を絵画に凝縮した小品もあったりしますし、なかなかに絵画鑑賞というものは楽しいですね。 これだけ勝手に?熱い解釈?が行われているのですから、上野のゴーギャン展の鑑賞券を回答者全員にくれてもいいのに?!←せこ >マシュマロ先生は、すっきり派なのでしょうか? さあ、どうでしょう。 ご想像にお任せいたします。 ただ言えることは「ママらしいね。」「マシュマロらしいね。」が何より一番嬉しい褒め言葉ということでしょうか。 我が作品群はまさしく「個人的には駄作、あるいは二流そのもの」ですから(笑)
お礼
マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。私は、これまで絵画にほとんど興味はなく、絵を書かせても小学生の図画にも劣りますので、描き手の難しさには考えが及びません。そのうえで申し上げるなら、キリコの『ヘクトールとアンドロマケの別れ』には、非常に感銘を受けました。マグリットも好きですね。年代は若いですが、両者には哲学的な奥深さを感じます。実は、以前に恋人とウィリアム・モリス展に出掛けた時に、ちょっとした口論になりました。彼女が、「モリスは、絵がヘタクソでつまんない」とのたまったのです。私は「うまいかヘタかは大して問題ではない。面白いか面白くないかが肝心だ」と返すと、彼女は「だから、ヘタクソだからつまんないと言ってるでしょう」と譲りません。彼女はルネッサンス様式の写実画が好きなようですが、私には、写真のある現代に、写実画のどこがいいのか理解できませんでした。もちろん、デッサン力は重要でしょうが、画家の視点に驚きを感じない絵など、私にとっては、意味がないのです。まあ、これほど考え方が違ってはうまくいくわけもありませんが。お粗末でした。ところで、ゴーギャンは写実は苦手なのでしょうかね?
補足
マシュマロさんのお考えになる、よい絵とはどういうものでしょうか?よろしければお答え願います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.56を受け継ぎます。 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 他のご回答にも、参照しましたとおり、「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。」伝道者の書3:20。これについてはいかがでしょうか?よろしければお答え願います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もし この《コヘレトの言葉》を参照なさるのなら その結論にも留意せねばならないでしょう。 ▲ (伝道の書=コヘレトの言葉12:13-14) ~~~~~~~~ すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。 神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ けれども 《戒め》は 《神の愛および人間の愛》 これだけになりました。《裁き》は なくなりました。(強いて言えば 人間は みづからを みづからが 裁くようになるでしょう)。旧約は たしかに 旧いのです。 ▲ (ヘブル書8:7-13)~~~~~~~~~~~~~~~~ もし、あの最初の契約(* むろん モーセの)が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。 「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、 新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。 「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、 エジプトの地から導き出した日に、 彼らと結んだ契約のようなものではない。 彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。 「それらの日の後、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。 「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、 彼らの心にそれを書きつけよう。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 彼らはそれぞれ自分の同胞に、 それぞれ自分の兄弟に、 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 小さな者から大きな者に至るまで 彼らはすべて、わたしを知るようになり、 わたしは、彼らの不義を赦し、 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」 (旧約・エレミヤ書 31:31-34) 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ちりから出た》ことは もはやどうでもよい。《ちりに帰る》ことは その前の生が 問題であることを言っています。つねに問題は 現在そして此処ということでしょう。 減らず口をたたくならば ゴーギャンは つまらないです。ピカソよりは ましかも知れません。という鑑賞眼の持ち主です。 ★ われわれの肉は永遠から見れば、瞬きほどの時しか与えられていないのに、われわれの起源を問うことをやめられないのです。 ☆ 自由ですが キリスト者には ありえません。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。私はキリスト者とはいえません。大切なのは、現在とこの生であることは間違いありませんが、キリスト者しかいなくなれば、生命の起源を究明しようとする者はいなくなるのですね。科学と宗教の分離が、この世界の喜劇であります。
補足
私も、特にゴーギャンが好きなわけではありません。他に、ご興味を惹かれる画家があるのですか?よろしければお答え願います。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
No.49にて少し触れましたが、配色に関する一つの解釈を書いてみます。 1.画面中央の光が当たっているように見える三角形の領域(人物)を生への方向性と見てみる。 2.光が当たっていないように見える、大地・褐色系の領域(人物)を死への方向性として見てみる。 さて、No.8にて引用させていただいた http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin.html ですが、ここでの作品解説内部に、非常に示唆に富む記述が多く含まれています。 まず、主題となる絵の中央やや向かって左手に描かれた青い像は(既に指摘のあるように)月の神ヒナと解釈されたり、創造神タアロアと解釈されたりするようです。 >>>http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_nous.html 画面左部分に配される神像は、祭壇マラエに祭られる創造神タアロア(タヒチ神話における至高存在)とする説や、月の女神ヒナとする説が唱えられている。 <<< 月の女神ヒナについては、 >>>http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_hina.html ヒナ・テ・ファトゥ(月と大地、月と地球、月と地の神) (Hina Te Fatou (La lune et la terre)) 1893年 114.3×62.2cm | 油彩・画布 | ニューヨーク近代美術館 ≪月の神ヒナと大地の神ファトゥ≫とは月の神ヒナが必ず死が訪れる哀れな人間が再度、生を受けられる(生き返る、又は不死)ように大地の神ファトゥへ懇願するものの、ファトゥがその願いを拒否するという逸話 <<< また、創造神タアロアについては >>>http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_atua.html この三名には誕生(身体の前面をこちらに向け小さく横たわる者)から生(水辺で髪を梳かす女性)、そして死(背中を向けて横たわる者)へと経過する人の一生の象徴化であると考えられており、ゴーギャンが抱いていた死生観や人生への不安など精神的心理を見出すことができる。そして生を謳歌する髪を梳かす女性の背後にはタヒチ文化を代表する神像である祭壇マラエに祭られる創造神タアロアが配されており <<< といった記述があります。 で、青い像の二重性(多義性)を「or(どちらか)」と読み取らず「and(どちらも)」とするならば、たとえば、東洋系の輪廻概念(生き返る)と西洋系の創造神的な概念、すなわち、生から死への一方向への流れとが合わさっていると考えてもいいでしょう。 さて、件の絵をよく見ると、右下の赤ん坊から続く道が青い像(の立つ丘)を挟んで二方向に伸びていることが分かります。 右側では、ループを描く赤い(ないし褐色の)路に沿って奥に佇む一人の女性、と小さな樹木のトンネルを抜けて出てきた二人の女性が描かれています。その左下の女性の首は光の当たっていない領域に描かれており、不自然な程不明瞭です。右下には3人の女性が赤ん坊を取り囲んでいますが、右端の一人の肌の色と残りの2名の下半身の肌の色は光の関係からか大地の色とほぼ同じ色彩が用いられています。冒頭の色の解釈を採択するとすれば、赤い(ないし褐色の)路のループは生から死、そして死から生への輪廻を描いているとも取れます。 左側への路は一方通行のようであり、配色から見て、生から死への路を描いているようにも取れます。 ゴーギャンは自らの命を絶つことで、娘アリーヌが「どちら」の路を通ったのか? を自ら知ろうと思ったのかも知れません。 もし、ゴーギャンが輪廻の有無を「どちらか」といった二者択一を想定して(すなわち、両立が「不可能」な図形として)書き込んだとも取れますが、両立が「可能」な図形として解釈することも可能です。たとえば、量子力学の多世界解釈を採択するような人々にとっては、(決して交わらない)並列する二つの世界への分枝を想定するだけになるでしょう。 さて、色彩に関する第2の解釈も可能だと思います。 それは、国旗の色です。 フランスの国旗(Tricolore)は、「青(自由)、白(平等)、赤(博愛)」ですが、タヒチの国旗には、「黄色」(高貴)が含まれています。 これらの色を用いた配色部分を解釈時に多義的に重ね合わせることで、さらに作品を深く読み込むことができるように思われます。 たとえば、左端の一方通行の死の背後に白が用いられていますが、「平等」という意味を重ね合わせることもできますし、赤い路を「博愛・友愛」という概念で見ることで、(正の方向としての)輪廻概念に対する人々の思い・想いを感じることもできます。 無論、青い偶像は「自由」であり、二つの路のどちらを選択するのか?が「自由」であるともとれます。 あとNo.53の補足欄に記載されている >>> 自己紹介に書かれている、スッタニパータと光厳院との言葉は、本題と多いに関係があると思われます。よろしければ詳しくお教え願います。 <<< ですが、こちらにて記述するには、あまりにも「かけ離れた」内容を記述せざるを得なくなりますので、原本(ないし原本に準ずる記述)を参照されることをお勧めします。
お礼
自然さん、ご回答いただきありがとうございます。配色については、深く考えていませんでした。鋭いご指摘ですね。赤い小道がループを描いているのは、輪廻観を表しているのでしょうね。私も、この絵を見かけた当初は、なぜかメビウスの輪を連想しました。もしかすると、ゴーギャンの輪廻観が伝わったのかもしれません。またトリコロールに関しましても、老女の背後の白は、涅槃を意味するのかもしれません。ゴーギャンは好んで黄色を用いますが、ゴッホの影響か、あるいは大地を表しているのか、タヒチのイメージなのでしょうか。色の暗示するところは、画家であるゴーギャンが使わないわけがありませんので、ご指摘を受けて今一度、絵と向き合って考えてみます。偶像にも、タヒチのオリジナルにはない、何かの意味があるのでしょう。
補足
あの偶像は、月の神ヒナと、大地の神ファトゥと、創造神タアロアとの、三つを組み合わせた、ゴーギャンの想像の産物とはいえないでしょうか?よろしければお答え願います。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、pokoperopoさん。 突っ込んだおぼえはないんですが…。 ●日本財団って笹川良一が設立したって知ってますか? ↑ それが、何か? 船舶・船とフレンドシップとくれば、有人深海調査艇しんかい6500。 YouTube - Dragon Ash/運命共同体 【PV】 【蔵出し】 http://fserc.kais.kyoto-u.ac.jp/ http://www.maizuru.marine.kais.kyoto-u.ac.jp/ ※ 見知らぬ生物は素手で触らないようにしましょう ※ http://www.maizuru.marine.kais.kyoto-u.ac.jp/tango/kiken.html http://www.fserc.kais.kyoto-u.ac.jp/data/panel/02A.doc
お礼
リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。日本財団は、URLに貼ってあったぢゃありませんか。「地球は一家、人類は皆兄弟」。ぽこぺろぽは、Earth,Wind&Fireが好きです。彼らもいろいろ考えたと思いますよ。太陽崇拝の気が強いですが。深海探索も結構ですが、イソギンチャクにはご注意を。
補足
深海といえば、「しんかい」。生命の神秘を感じさせます。今はどれくらい潜れるのでしょうね?よろしければお答え願います。
- 山路 独(@j59fmk53jh)
- ベストアンサー率2% (2/83)
j59fmk53jhです、ご返礼ありがとうございます。 誤解いただかぬように念のために申し上げますが、私は、神の存在を肯定はしておりません。しかし、否定もしておりません。pokoperopo様が、「神が地球を作った。だから、地球があるのが神のいる証拠。」などという、仮定の証明に元の仮定を使うような、循環参照破綻論理を持ち出されることがなかったので、ほっとしております。「火星人がいて地球監視のために月を作った」と私が提唱し、その月を指して、「あそこに月があるのが火星人がいる証拠。」などと言っても、誰にも相手にされないでしょうから。 pokoperopo様のおっしゃるとおり、現時点では地球は奇跡の星です。ですが、現在の科学力で観測にかからぬということは、現在の科学力で観測できる範囲にはいそうも無いようだということが言えるだけで、宇宙人は地球人だけなどということはなにも証明していません。 カール・セーガンなどが、生命存在可能性率的な計算をしているようですが、これも仮定にすぎません。私の立場は判断不能です。そして、どちらの立場の方たちにもお願いしたいのは、仮定に基づく理論の展開ではなく、まづ仮定そのものの証明です。 「仮定そのものの証明」という部分が、何の証明も無く自明の理とされて、その先の話ばかりをされても、土台のあやふやな砂上の楼閣では安住できません。ぜひ、お願いですので、まづ、「神の存在」を証明し、土台に揺るぎのない安住の地を与えてください。これは、神を信づる方たちが解決すべき命題ですし、神を信づる方たちにしか解決できない命題です。そして、その証明ができるまでは、人々に神にかかわる話をするときには、神を既定の証明された存在としてではなく、「私たちは、このような推測に基づいて神の存在を信ずるが、その私たちの推測に基づいた神に……。」という話しかたをすることが、否定も肯定もしない(判断材料不足で判断不能)私のようなものから見ますと、正しい表現なのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
お礼
ご回答いただきありがとうございます。実は、私はキリスト教に片足を突っ込んでおりますので、「地球が存在するのが、神のいる証拠」と言ってしまいたくなることがあります。しかし、この言辞は有神論者間でしか通じず、しかも、神の存在の客観的証明とはなりえませんので、あなたとの対話では封印しましょう。現在の科学では、「万物理論」の研究が盛んだそうですね。つまり、宇宙空間も含む、すべての物質を探求することにより、万物における共通理論を説明する試みです。私も不勉強なもので、そのさわりすらご説明できませんが、われわれは微生物と同じく、何らかの要因があって存在するわけです。しかし、人間だけが、この質問主題のような問い掛けをする知性を得たのはなぜかと考えると、陳腐な言い回しですが、「生命の神秘」としか言いようがありません。他のご回答者にもお薦めしたのですが、このような問い掛けを考えるときに、役立つ本がありますので、よろしければご参考までにどうぞ。(『「知」の欺瞞』アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン/岩波書店)
補足
それでは、おっしゃられた立場から、仮定でもかまいませんので、(【Q-2】われわれは何者か?)について、ご考察をお伺いしましょう。特に論証は求めません。よろしければお答え願います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
pokoperopo さん こんばんは。参考になる文章を見つけましたので 投稿いたします。 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【Q-2】 われわれは何者か? 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? ▲ (アウグスティヌス:クリスチアニスムのおしえ1・34)~~~~~~~ 使徒(パウロ)は たとえこれまでは肉にあってキリストを知っていたにしても これ からは知るまい。(コリント後書5:16) ・・・ただし うしろのものを忘れ 前のものへと体を伸ばし(ピリピ書3:13) て追っているが もはや道の始めを通り越している。つまり真理に到達し 永遠の生にとどまりつづけることを願うすべての者が近づいてそこから歩き出さなければならぬ道の始めは パウロにとってもはや必要ではなかった。 そこで わたしは道であり 真理であり 生命である。(ヨハネ福音14:6) と述べられている。これは私を通って 私へと辿り着き 私の中にとどまるりつづけるものとされる ということである。 たしかに み子ご自身のもとに到達したときには 父のみもとにも辿り着いているわけである。それは至高で不変のよきものにとどまらせてくれる聖霊が われわれをあたかも膠でつけるように結びつけるとき 等しいものが等しいものによって知られるからである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ かくて ○ われわれは どこから来たかは もはやどうでもよい。 ○ われわれは 《道であり 真理であり 生命である》存在のもとに 永遠の現在を生きるものである。 ○ そこが われわれの行くところである。
お礼
ブラジュロンヌ閣下、ご回答いただきありがとうございます。他のご回答者もしてきなさるとおり、物質の存在原理が未解明である以上、この問いには答えようがないのかもしれません。また、聖書にはこうもあります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終りまで見きわめることができない」伝道者の書3:11。われわれの肉は永遠から見れば、瞬きほどの時しか与えられていないのに、われわれの起源を問うことをやめられないのです。
補足
他のご回答にも、参照しましたとおり、「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。」伝動者の書3:20。これについてはいかがでしょうか?よろしければお答え願います。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、pokoperopoさん。 リンリンリリン リンリンリリンリン リンリンリリン リンリリリリン リンリンリリン リンリンリリンリン リンリンリリン リンリリリリン リンリンリリン リンリンリリンリン リンリンリリン リンリリリリン ワオ 君のテレフォン・ナンバー6700 ワオ-☆ ●苔類と人類は、仲間といえるとお考えでしょうか? ↑ もしもし 【海洋科学から見る水惑星の多角的視点にたつ基盤研究】 http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00825/contents/029.htm 【日本語の誤用】(触手と食指) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%AA%A4%E7%94%A8
お礼
リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。懐かしいですね、フィンガー5。ワオ!今からでも遅くはないから、本家ジャクソン5と競演してほしいものです。地球には水がありますね。これって奇跡とはいえないでしょうか?ところで、日本財団って笹川良一が設立したって知ってますか?われわれ人類には、大きく貢献していますね。ヒトデに触手すると大変そうです。クラゲよりはマシですがね。
補足
ありゃま、突っ込まれちゃいました。何かおかしなこと言いましたっけ?よろしければお答え願います。
- 山路 独(@j59fmk53jh)
- ベストアンサー率2% (2/83)
j59fmk53jhです。御返礼ありがとうございます。 さて、前回私が書きました回答内容のうち、 『《神の存在の証明》と、表裏一体を成す、知的生命体が持つ、根源的設問です。 物質の存在理由がわからぬ限り、回答不能です。』 につきまして。 『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』 これは、私たち(自ら)はなぜ存在するのか? 何か理由があるのではないのか? 自ら(たち)の存在意義(理由)を知りたい。等の、私たちが存在するという事実に、理由付け(証明)ができないことに対する不安から表出した問いではないかと思います。 その解を求めるアプローチの一つとして、私たちの物質的構成の探求があると思いますが、ここで行われていることは、根源的構成要素の確認であり、人間の生存にかかわる物質の製造に関する是非とも必要なものです。 しかし、これによって得られる、物質の根源的構成要素の確認という解は、人類の存在意義の解を求めることを、物質の存在意義の解を求めることに、置き換えるだけではないかと思います。根源的構成要素の確認によって、その存在意義が確認できる可能性も否定はできませんので、確実にそうだとは言い切れませんが。 では、物質の存在意義の解を求める探求は、どのようにおこなったらよいのでしょう。残念ながら、まだそのアプローチの手掛かりすら掴めていないというのが正しい現実認識ではないかと思います。 ですので、『物質の存在理由がわからぬ限り、回答不能です。』とお伝えしました。ですが、ここまでの文字列に、物質の存在意義の解を求める探求は、不可能であるとか、無意味であるとかの、否定的な表現は書かれておりませんし、また、言外に臭わせてもおりません。要するに、現状認識からできる回答をしているだけです。 『《神の存在の証明》と、表裏一体を成す』につきましては、物質の存在意義の解として、神の存在を持ち出すことも思考の自由であり、ただちにその事自体を否定するものではないと思いますし、その方たちにとって、神が物質を作ったという何らかの証明を行う必要があると思いますので、『表裏一体を成す』と書きました。 続きまして、 『慌てて宗教に落ち込まぬようご注意を。』 につきまして。 物質の存在意義の解として、神の存在を求める方たちの中には、証明されていない神の存在という仮定を、あたかも規定の証明された事実として扱い、まだ未解明であるという事実から人々の目を逸らせ、結果として、解明に向かうべき人々の能力を浪費させている方たちもいますので、私自身も含めて『御注意を。』と戒めさせていただきました。 なお、『わからなくても道筋をつけるのが哲学です。よろしければ、私や皆さんと一緒に、この根源的設問を考えていただけませんか?』とのお誘い、有り難くお受けさせていただきます。ですが、私は物質の存在意義の解に、神を持ち出すことはとりあえず考えておりませんので、そのことを御了解戴けますでしょうか? 御納得戴けますれば、御招待ください。では。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。そのように、お考えをはっきりおっしゃられたうえでの、ご回答は大変有り難く思います。私は、神を信じる立場の者ですが、神を立証する手だても持たなければ、その必要もないと考えております。また、このような議題におきましても、必ずしも神を肯定するご回答でなくても問題はございません。しかし、信じるか否かは別として、神とは何かという問い掛けを常にしております。それは、あなたや私が存在する、この世界があることが奇跡であり、これぞ神の証明であると考えております。私とは違う観点からのアプローチを歓迎します。物質とは何か、生命とは何かは、現時点ではわかっておりません。それを究明することは、科学の進歩だけでなく、人心の健全化にも大きく寄与するでしょう。科学的にはわからないとするご回答もあり、私自身がそう述べてもおりますので、よろしければ質疑応答にもお目をお通しください。今のところ、この地球以外に知的生命体は認められていません。このことに、われわれの存在理由があるような気もしますが・・・。
補足
無神論や不可知論に関しましては、いかがお考えでしょうか?よろしければお答え願います。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。「まあ、いいや」と言われては、「ああ、そうか」と言う他にはありません。私には信仰がないのですから、キリスト者ではありません。キリスト者とは、キリストの信仰を守るものです。キリストのシンパというだけでは、キリスト者と言えないからこそ、信仰生活を終えたのです。これに関しましては、いかなる批判も受けますが、拙問の主題には、われわれが生まれる以前のことが含まれます。キリスト者が、それを問わないことを善しとするのは理解できますが、それを問うた者が不誠実なわけではない、人類共通の素朴な疑問です。哲学の主題としても問題はないでしょう。私はキリストに無関心ではありませんが、さりとてキリストと共に歩むわけでもありません。これまた他意はございません。《三位一体》も説明原理としては、ああそうかとしか言わざるを得なく、この世にあっては信じるか否かの問題となりましょう。