神は存在しない、神は「妄想」です!
従来から、神の存在証明には、以下の3つがあります。
(1)自然神学的証明(一名、目的論的証明)
これは生物の仕組みがものすごく精巧にできていることから、このような生物は神がいて、その神が設計図を引いて創ったに違いないと推論し、神の存在を証明しようとしたもの。
カントは確かに生物の仕組みが合理的に精妙にできているのは確かだが、だからと言って神が存在するとは言えない、と批判しました。
ダーウィンの進化論では、生物は長い歳月をかけて、現在の精密な仕組みを作り上げたことが分かっていますので、この証明は今では無効です。
(2)宇宙論的証明
これはアリストテレス、トマス・アクィナスの証明と言われるもので、以下のようなものです、
「この世には運動するものがあるが、それには原因がなければならない。そして原因があれば、その原因も結果であり、さらに原因の原因がなければならない。しかし、原因の原因も結果としたら、さらに原因の原因の原因もなければならない。かくて原因の系列は無限にさかのぼってゆく。しかし、人間は無限にさかのぼることはできないから、どこかで初動者とか、第一原因に突き当たらざるを得ない。その初動者とか、第一原因と言われるものが神である」と。
しかし、無限にさかのぼるということは、行けども行けども果てしがないということであり、どこにも行き着かない、ということです。
アリストテレス、トマスは初動者とか、第一原因に突き当たるというけれど、突き当たりません。
だから、この証明は間違いです。
(3)存在論的証明(一名、本体論的証明)
これは一切の経験を除外して、ただ概念のみから最高存在者の存在を推論するもの。
以下のものがあります。
聖アンセルムスの証明。
「神は全知全能、完全無欠の存在である。全知全能・完全無欠の中には、存在も含む。もし、存在を含まなかったら、神の全知全能・完全無欠という定義に反する。よって神は存在する」
デカルトの証明。
「この世に存在するすべてのモノは偶然の存在である。偶然の観念があれば、必然の観念もなければならない。しかるに神は必然の存在である。よって神は存在する」と。
この証明に対しカントは「純粋理性批判」の「神の存在論的証明の不可能の理由について」で、以下のように批判しました。
「神の全知全能・完全無欠というのは、神の述語である。しかるに存在は述語ではない。だから、神がいかに全知全能・完全無欠と言ったからと言って、神が存在するとは限らない」と。
つまり述語とは、もともと主語に含まれた性質なり属性を外に展開したもの、いわば分析判断ですが、しかし存在は主語に含まれた性質でも属性でもない、主語に何ものも加えない、ということ、いわば総合判断です。
アンセルムスの証明は存在を主語に含まれると言っているが、それは分析判断と総合判断をごっちゃにするもので、間違い。
デカルトの証明は、観念としてあるものは実在してもある、と主張するもので、観念があるからと言って実在があるとは限らない、という意味で、間違い。
こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。
現在、神は道徳的な行為の元に価値として、あるいは信仰の問題として残っているだけです。
みなさん、どう思いますか?
確認質問です。