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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:電車を乗り換え、どこへ行こう?)
世界を乗り換える、そしてどこへ行くのか?
このQ&Aのポイント
- 世界を乗り換えることは、関係付けして考えることで、電車を乗り換えるように世界を変えることを表しています。
- 乗換駅は時代や路線が交錯する場所であり、世界は乗り換えのために一時停止する。
- 世界を乗り換えることは、人々がどのように感じるかやどこに向かっているのかを考える話である。
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質問者が選んだベストアンサー
私は、世界を乗り換えることの出来る乗り物は存在しないと思っています。唯一、宇宙という器だけが存在しているのではないでしょうか。 時代とは、その一つ一つに人間が意味づけていくものであって、その意味とは住むくにや文化によって様々に変化していきます。 つまり、あなたの考える時代とはあなた自身の主観に過ぎず、もちろん私の感じる時代は私の時代に過ぎないのです。 私たちは世界を乗り換えているのではなく、その意味と解釈を変化させているに過ぎません。 >どこへ向かっているのか どこへも向かうことはできません。その時の流れにしたがって命をつないで行くだけです。坂道を転がる球はどこかへ向かっているのではなく、自分の安定できる場所へ引っ張られているに過ぎないのです。 人間は多くのことを発見し、さもどこか新しい場所を発見しているかのようですが、それらは既にこの世界に存在していて元からあるものに過ぎない。 私はそう考えています。もちろん、いつも笑っていられるように努力はしていきたいですけれどね。
お礼
すばらしい回答をいただけて、心底うれしく思っています。 俺は、この回答の前に、みっともない(ダサい)姿であれるのが、うれしい。 だけれども、それゆえ、あなたには、直に言うことができます。 世界は、つまり、ほかならぬ転がる球の行く道、あらゆる「私」の行く道とは、乗り物ではないのですか? 道という、世界に敷いた己の線路上を、「私」が行くと言ってもよいでしょう。 >私は、世界を乗り換えることの出来る乗り物は存在しないと思っています。 世界を乗り換える乗り物ではなく、他ならぬ世界そのものが、乗り物であるとは言えないでしょうか? 球は、道が世界にあるゆえに、転がるのであり、球を転がしているのは、世界であるといえます。道とは、それぞれの球の行くところであり、そのあらゆる道が、世界に敷かれているのです。世界が道であるというのは、そう思うところからです。 >どこへも向かうことはできません。その時の流れにしたがって命をつないで行くだけです。坂道を転がる球はどこかへ向かっているのではなく、自分の安定できる場所へ引っ張られているに過ぎないのです。 俺は、あなたの回答を、こうとらえました。 世界は、何処にも向かない。それゆえに、それに乗る我々も、何処に向かうというようなことはできない。転がる球の行くのは、道ではなく、ただ転がるだけなのだ。 だけれども、その転がる玉のようであれど、世界は、行くのではないのか? 世界で、球が転がるには理由(法則)があります。それを、道ともいえるかもしれません。 さらにこうもしました。 転がらないもののない世界が、宇宙であるなら、その宇宙自身、転がっているのではないのか?道が、転がっているのではないのか? 何故転がるのか?何故、行くのか? 時の流れに従って、命をつないでいくだけという、そのセリフを言うところに、転がらないものを感じました。 転がるだけだと言う処に、転がらないものを感じます。 >人間は多くのことを発見し、さもどこか新しい場所を発見しているかのようですが、それらは既にこの世界に存在していて元からあるものに過ぎない。 だから、「発見」というのでしょう。見つけたのです。無いものを、見ることはできないですから、それはもともとあったのでしょう(笑。見えなかったものが、見えるようになったとか、転がるゆえに、景色が変わったともいえます。 俺は、人々がそう言う場合、同じものを、違う角度で見ているのだとも、思っています。新しく見つけたのではなく、違った見方を、見つけたんだということです。 転がるものに中心(転がらないもの)はあるかとか、そういうことがまだ考えれていません。このお礼自体も、ぜんぜん思考が足りてませんが、また、補足させていただこうと思います。 ご回答いただけ、大変に、ありがたく思ってます。 答えにくい質問っぽいのですが、他の回答者の方々も、待ちたいと思います。ありがとうございました。
補足
どうも回答が付きそうにありません。難解であったと思います。 哲学カテの秩序のためにも、閉じようと思います。 主観はつねに変容します。だけれども、その変容する主観を保っているのが、自我と、精神医学などで、いわれるものです。 分裂症の研究などで、もはや、とうに、主観の絶対性が失われた現代、自分とは何かを考察するには、新たな観点が必要かと思いました。きっと、100年ぐらい前にも、同じことが言われたんでしょうが(笑。100年ぐらいでは、思想はいきわたらないのかもしれません。 かなり近い将来、絶対などなくても、かなり気持ちよく生きていけることを、我々は知るのでしょう。 自分とは関係性であることを。 この俺の質問は、そこからさらに二歩か一歩半ほど、先を行ったものだと思っています。立つことを知らない人にでも、一歩を知るすべがあると考えていますが。 立つことが一歩であり、歩くことが一歩であり、空を飛ぶことが、一歩です。俺の言う一歩は、そういう意味です。 関係性である主観を、事物とみなした上で、さらに無理をした思考です。 >つまり、あなたの考える時代とはあなた自身の主観に過ぎず、もちろん私の感じる時代は私の時代に過ぎないのです。 そうと、言い切れますか?俺の主観と、あなたの主観が、完全に別たれた、異なるものであれば、どうして会話がなるでしょう。俺の主観とあなたの主観は、関係しているのであり、二つの主観そのものは、無論、二人のあいだのみの出来事ではありません。 そう、言います。 ありがとうございました。もう、2.3日はあけときます。