ufooooのプロフィール
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- 登録日2009/04/02
- 哲学は何ひとつ答えを出していない?
こんにちは。 ある本に、「哲学は今までの長い歴史の中で、議論ばかりしてきて何ひとつ答えを出していない」ということが書いてありました。これは以前にも聞いた事があるような気がしますし、なんとなくわかるような気もします。ですが、説明しろといわれたらできません。 この文章はどういうことを言っているのでしょうか?また、この考えは一般に受け入れられたものなのでしょうか?
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#112724
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- 無我について
今初期仏教を習っているんですが、どうしても諸方無我について理解出来ません。。 今理解しているのは、人間とは五蘊からなっており、諸方無常、つまり全てのものは不変ではないということから、自分の存在も変り行くものであり、常に不変的な自分の存在は有り得ないということだと思うのですが。 そして、本当は無我なのに、あたかも我があるようにするのは妄想でしかなく、苦しむという考えだと思うのですが、 では何故無我なのに、何故人間は五蘊の中にもある考えたり、知覚したり、行動したり出来るんでしょうか? 自分がもしおなかが空いた時に、食べ物が目の前にあるとすると、その食べ物を食べたいという欲求が生まれるのですが、それも過去の自分の経験から来るものだと理解できます。 でも、自分ということは本当は存在しないんですから、「自分の」経験ではなくなります。ということは、何故その食べたいと言う欲求が生まれるんでしょうか? その回答として経験と今の自分を結ぶ何か不変の存在があるはずだと、ウパニシャッドの考えがあります。 その不変なもの=我の存在とウパニシャッドではしていると聞きました。 そして、仏教ではその考えに挑戦して「無我」という考えが出たと言われているらしいのですが、結局その答えが五蘊とか変っていくものは苦だから、我は苦でないから無我であるとか、最終的には又最初の疑問である、無我なのに何故考えることが出来るのか、じゃぁ考えている人は何者なのか?っという疑問に帰ってくるような気がするんです。。 そしてその答えがウパニシャッドによる我の存在となって矛盾してしまいます。。 どなたか、この矛盾を解ける方お願いします!!
- 輪廻転生説は 愚の骨頂
ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか? 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。 真実をおしえてください。
- 神は人間が幸せになってほしいと願っていますか?
神は人間が幸せになってほしいと願っていますか? はじめから神は幸福のみを築き上げるように人間の精神を作らなかったのですか? なぜ、その逆の可能性の発端をも人間に組み入れてしまったのでしょう? 神は人間が幸せになってほしいと願っていますか? それとも。 神はいないのでしょうか?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#84158
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- (芭蕉の句)「旅に病で」と「旅に病み」
1 旅に病(やん)で夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る 2 旅に病(や)み夢は枯野をかけ廻る 1はご存知、芭蕉の句です(表記は小学館、日本古典文学全集70による)。 仮に私が芭蕉と同じ句想を得たとします。その場合、字余りはよくないとの知識があるので私の作は2になると予想します。一方、俳句の心得がある方は、2ではなく1であらねばならないと、あるいは1の方が断然優れていると、判定する筈です。どんな理由に拠りますか、芭蕉の代弁を希望します。 字余りに加えて、「旅に病(やん)で」は「旅に病(や)み」に比して幾分か口語色が強くなる気がする点からも私だと2にしてしまうと思います。ご回答には注文といって特にはありませんが、字余りと口語色をどう考えるかに触れて下さるとありがたいです。 よろしくお願いします。
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- 文学・古典
- sono-higurashi
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