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粗野な人の存在理由
世の中に、物事を考えずに、きめ細やかでなくて、精神構造が荒くて、洗練されていなくて、一言で言って粗野な人っていますよね。粗野でかつ自分勝手でずるく性質も悪いひとがいます。そういう人の存在理由というのはどういうところにあるのでしょうか? 逆に、その反対の人たちの存在理由は?
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こんばんは。 #6のお礼の中で >仮に、あなたが快楽殺人犯人の傍らにいて、彼に対して感じる感情を、自分自身の投影だなどと考えるナンセンスを、どうして得意げにいうのでしょう? #6の回答者さんは、「得意げ」には言っているのではなく、一種の宗教的な観点から言ったものだと思います。このような議論は、ずいぶん古くから、続いています。今さらなのですが、例えば、この議論は、日本の死刑制度論争と似ています。キリスト教のような人道主義というのは、日本ではなかなか広がりません。反論は、現実論で必ず応酬してきます。「あなたの家族が被害者にあったら、そういえるだろうか。」という、情念に訴えかけるような言葉が必ず出てきます。 昔、作家の三島由紀夫さんが、ドイツの反ナチスの平和主義運動が、どれほど過酷なものだったのか、日本人は知らないで平和運動しているという話をしていたことがあります。いずれにしても、実態を踏まえないで、理想論や仮定の話をしていくと、話が現実から離れて、ヒートアップしてしまうようです。 「快楽殺人犯人」というような極端な例を持って、ご自身の主張を推し進めようとしたいのは、たぶん、ご質問者さんに、憎むべき対象があって言っているのでしょうし、それを、ここの場で、その前提を抜きにして一般論に広げても、話がすれ違ってしまうものだと思います。しかし、その憎むべき対象の話を持ち出したら、ここの場の主旨とは違ってしまいます。 あえて、もう少し身近な現実的な話に狭めていくと、この社会には、性格異常、または、境界例という人たちが野放しになっています。性的異常者だけではありません。その人たちは、周りの温情というか、我慢によってすくわれているだけで、身近な人をいつも困らせています。 例えば、『ドラえもん』に登場するジャイアンも、ある意味では、困った人間の典型だと思います。大人の目からは、許容範囲かもしれませんが、子供どうしの中では、はなはだ困った人物です。彼が身近な同級生から、持ち物を借りると称して、それを奪ったり、暴力で怪我をさせたりしたものは、許しがたいものがあると思うのです。ジャイアンの親も、家の仕事を暴力で従わせる、子はその腹いせを、また、近所の子供たちに向けるのでは、それでは、本来、その親自身含めて、社会的に許されるものではないだろうと思います。一番いけないのは、誰も、彼をきちんと教育したり指導したりする人間がいないのです。 ジャイアンにも良いところがある、一方的に悪者にするのはおかしいというような論法で、「擬似的な平和な世界」でまとまりを付けられるとは、私は思っていません。一時期話題になった「騒音おばさん」も、その一人かもしれません。彼女にも二面性があります。報道では、際立った部分が強調されていることは事実です。しかし、ジャイアンと同様に、理由なき・正当性のない罪を冒し続けていたことには違いありません。 精神科医の町田静夫氏は、精神疾患は治療することができても、性格異常は治療することは困難だと言います。現実に、そういう人たちがいることで、いずれは危害が加えられることには間違いないのです。それを、攻撃は最大の防御として、被害者と加害者が入れ替わったら、それでは、本末転倒です。ただし、いくぶんは、同情すべき部分はあると思うのです。 いずれにしても、私たちの多くは、そう簡単に、善悪や要・不要で二分化して、人に対する「存在理由」のある・なしなどを論議したり、判定できるような立場にはいないように思うのです。「存在理由」を問うことになれば、その人の「存在」をなくしてよいということを、正当化する論理に結びついてしまうことになってしまいます。「存在理由」とは別の次元にあるからです。私は、ここで結論を出そうとは思いません。 ただ、私は、裸の王様に対して、「あなたは服を着ていない」と、モノをいえるような勇気を持つことは必要だと思うのです。この国は、そういう発言をした者を、社会的に抹殺してしまう傾向が強いようです。それはムラ(村--ボケに近い長老の日和見主義で、事なかれ主義がまかり通る)社会だからです。「和を以て尊しとする」で、和を壊したものが悪者だとするのです。法律も人を守るためではなく、力のあるものを守るようにできているようです。 もともと、人に「存在理由」を求める必要なんてないのではないでしょうか。そういう人たちと、どう向き合うかということではありませんか。
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- cyototu
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粗野の人がいない、物事をよく考え、洗練している人ばかりが出てくる漫画を思い描いて下さい。その漫画は面白いでしょうか。その反対も考えて下さい。各々、人を飽きさせない役割がありますね。その結果、漫画も良く売れますね。そして、その漫画家が大儲けをして、近所迷惑な御殿を建てて、この人は粗野だと言われて、新聞記事になって、今度はマスコミが大儲けをして、そんなことで、大儲けをするマスコミは粗野だと批判して、その評論家が大儲けをし、、、、となって、お金は天下の回りもの、と言われたりして、、、でも、お金にこだわるのは粗野だと言ってそれを批判して、、、いやいや粗野だと言うお前が粗野なのだ、私は粗野ではないのだ、、、いやその反対だ、と永遠に続きますね。ですから、粗野な人も、その反対な人も同時にいる世の中には、活気があって、イノベションがあって、悲劇があって、喜劇があって、面白くて、立派に存在理由がありますね。
お礼
わかります。 わさびのようなもんでしょうかね。隠しアジというか、苦味を演出することで全体の甘みを増すというような。粗野があることで洗練があり、商売がある。
- tappara
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人間が寿命があって子供を生むのは1人の完璧な人間がいるよりも不完全な人間が多数いるほうが種として繁栄できるって言う生物学上の理由かなって思います。(たくさん死ぬ生物ほど子供を生む逆に突き詰めれば不老不死は子供を生まない) でもって、いろんな種類の不完全な人間を掛け合わせることによっていろんな種類の人間が誕生します。 狡賢い人+善良な人=賢く善良な子供が生まれるかもしれません。 単細胞生物は簡単に増殖できるけど同じ性質なので一つの環境変化で全滅してしまいます。いろんな種類の人間の掛け合わせはより多様な種類の人間の創造って意味では大切です。 あるいは粗野な人ってのがその掛合せの失敗例なのかもしれないですが・・・時代が変ればどんな価値基準で判断されるかすらわかりませんから。(原始時代だったら粗野な人のほうがあるいは獲物を確保できてたかも) 粗野な人自体に何か価値を見出すというよりは粗野という種類自体には人間の多様性という意味で価値があるのではないでしょうか。 近々ものすごいストレス社会に突入して考え深い人間は皆精神的にマイって死滅してしまう・・・そんな中生き残った人類は粗野な人だったなんてことが起こりうるかもです。(笑)
お礼
わかります。 いろんな要素が入り込んでくることで、生物種全体が鍛えられる、可能性を広げるということですね。なんというか、そういう人たちには、好き勝手にさせるだけでなく、はなはだしくなると罰則が科せられるから別にイーブンということでいいですね。 時代によって、価値観は変わりますから、今の世は「粗野」≒悪なのでしょうが、そうでない時代もありでしょう。
- boke-chan
- ベストアンサー率22% (137/604)
粗野な人の存在理由ですか? 粗野のままだと、こんな人間になるぞという見本になる為、 じゃないでしょうか?
お礼
それも立派に存在理由ですね。 昔は刑が公開されていたのも同じようなものかもしれません。
世の中にはいろいろな人が住んでいます。それぞれ違う価値観で生きていて、社会の薬に立っています。考えも違うし顔も違うといった感じで賑わいをしているのです。頭のいい人ばかりでは、社会が発展しません。
お礼
すなわち、あらゆる人間の形態(心的体的)が、社会形成にアクションしていることになるんでしょうね。その結果、社会が流動する可能性を生ずるから、こういうのを役に立つって言う認識になるのかもしれませんね。
お久しぶりです、こんにちは。 理由。。。理由なんて無いのじゃないかなあ? ただ「存在している」、それだけ。 そこに如何な理由を見出すか?は個々に問われているのだと思います。 では、私個人はどんな理由を感じるか?となると、 「その人も誰かの産んだ子なのだ」というところでしょうか。。。 以前「母性賛歌」と私の感覚を表現してくれた人がいます。 そうなのかなあ。。。そうなのかもしれませんが、 この感覚は私がずっと小さい頃から持ち続けてきたものであって、 今子どもたちの母をやっているから生じてきた感覚ではないのです。 garcon2000様の視線や感覚は斬新な点を多々突いていると以前から感じています。 ただ。。。何て言うか。。。 どうせ「自由に感じる」ならば、「楽しく世界が広がっていく」方が私は良いです。 >粗野で自分勝手で性質も悪いひと そんな人にだって「大切にするもの」があるならば、それを共に大切にしたい、と私は考えます。 そして、「存在による効用」も共に拡大/拡充/増大して行けたら良いな、と考えます。
お礼
garcon2000を留意いただきありがとうござあいます。 yukikiinn66の感覚には母性を感じますね。 しかし、現実的な感覚では、どうも勧善懲悪、いいものはいい、わるいものはわるい、こっちはとってこっちは排除するというアレが働きます。しょうがないですね。 存在理由は母性を鍛えるということなのも知れませんね。
粗野な人、粗野じゃない人、原因があるだけで理由はないと思います。 原因と言うのは、家族や友達など誰かの影響かもしれない。 親の子育てが厳しくて逆にぐれたのかも。 自分勝手でずるいなど人に迷惑をかけると個性じゃ済まなくなってきますね。
お礼
そうですね。 原因は確かにおしゃるようなことにもあるでしょう。 原因はしょうがないとして、存在している効用というか、世の中に対してどういう機能をこういう人たちは持っているのでしょうかね。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
どんな人も自分を映し出す鏡でしょうね。 相手を粗野と知覚しているのは、自分であって相手ではありません。 全体の一部であって、全体の存在理由と同一です。
お礼
本気でそんなこと考えてるんですか。 仮に、あなたが快楽殺人犯人の傍らにいて、彼に対して感じる感情を、自分自身の投影だなどと考えるナンセンスを、どうして得意げにいうのでしょう?
そういう人がいるからこそ清楚な人が際立つ、または比較して価値がでるのではないでしょうか? また職場などでそういう人がいるとその人意外の社員の人は仲良くできると思います。 人間って共通の敵がいると団結できますよね? 他にもそういう人だからこそ必要とされる仕事(普通の人はやりたくないような)があるのだと思います。 時代や場所によってそういう人が活躍できる場や必要とされる場もありますし価値が無いと思えば価値はないですがあると思えばあるのです。
お礼
まったくですね、比較の対象がないところで、自身の確認をすることは困難ですからね。それによって団結力もできるという浅はかなところも人間なのでしょうがないということですね。 そういう人だからやれる仕事って言うのもあるのかもしれませんね。
中国の老子などに、陰陽原理として書いてあります。この世界すべてのものに、陰陽、正反対のものが存在します。荒いと細かい、電気のプラス、マイナス、人の男と女、味の辛いと甘い、善と悪、漫才のボケとツッコミ、天気の晴れと雨、運の凶と吉などがあります。この世界は虚像の世界なので、実像の世界から陰が出てきたら、次に陽が出てきて、ぶつかり打ち消しあって中和して、また元の実像界に帰っていきます。陰陽がぶつかり、中和する時、宇宙の太極の癒しのパワーが発生します。この原理を応用するために、日本人は中間、中庸、あいまいを好みます。たとえば和食は中間の味です。浮世絵など高い山と広い海が対比して描かれてます。
お礼
わかります。光と影は常にセットであり、単独では存在できませんからね。日本文化っておくが深いですよね。そして、つつしみの精神があるということもいえます。
- highhill
- ベストアンサー率66% (4/6)
あなたの質問内容自体が粗野な人の存在理由になっていると思いますが。 反対の人はバランスとるためじゃないですかね。
お礼
さっぱりわかりませんね。
お礼
大変建設的な意見を伺いました。 問題の設定自体に問題があったのかもしれません。 まさに結論は、「そういう人たちとどう向き合うか」 つまり、社会に対する効用とか、プラグマティックな思考法を放棄することが必要なのかもしれません。 おっしゃるように、日本では人道主義はだめですね。偽りのものしかできない。それはまさに、最終段でおっしゃる、村意識、日和見主義の支配からだと感じています。絶対善という観念がない。一種キリスト教的な絶対者、絶対対象あるいは理念、そういった至上のものを設定したりはしない。中道といえば聞こえはいいですが、それよりは安寧、妥協が支配しています。実態を踏まえない議論、反ナチスの陣営のずるがしこさや非常さもちょっとかいま知っています。もっと、学んでからものをいえと。しかし学んだ言動はうるさがられる。 #6のなかで言ったのは、無責任に投影じゃない貨などという自己陶酔的な回答に対しての反論として出したまでで、具体性をかんきすれば、そんなはずはないという反証を示したかっただけで他意はないのですが。 ジャイアンによいところもあるが、そんな「よいところ」は別に問題じゃない。実際の被害が問題なのである。そういう具体性と建設性をピックアップしなければ何の駅もある議論になりませんよね。しして、その有益性をいつも一般論的には回避する傾向が高いように思えます。 あなたが被害にあったら=もはや倫理観の議論ではなく、パーソナルな強迫観念への移行ですね。なさけないことです。