- 締切済み
友人との哲学議論
今日、友人が私に相談、というか話し掛けてきました。 それで、どう答えたらいいのか、良く分かりません。どういう言葉をかけてやるべきでしょうか? >は、私の返事です。 ------------------- 「母親は子供にとってなくてはならない存在であるがそれは同時に呪縛ではないの か。」どんだけ母親が悪人でもきらいにはなれないこと。 平行して、両親は子供さえ居なければ赤の他人なのではないかと考える。 とりあえず胎児が好きなの。 > そうだろーな、きっと。ただし、「エディプス・コンプレックス」は例外かもし > れない 人が人を裁く権利はないと思う。気になるのはアボガドロの前髪前線後退警報。 子供と大人の境目って何だと思う? > 審判は神様の役目。子供と大人の境目なんて知らん。自己認識のレヴェルじゃな > いのか? 話を変える。←1つの事についていつまでも考えていられないアホ。 何故 人間が人間を殺してはいけないんだと思う? > いけないっていう法律はない。殺したらどうなるか、だけで。人が人を殺すとい > ろんな感情が生まれて皆が不幸になってしまうから、かな? つまり人間の人生目標って幸せになるってことなわけ? むしろ人間が人間を殺す事を怖がるのはそのあとの自分を考えるからであって結局 のところ人間は自分の中でしか生きられないんじゃない? ……ということを考えたが今さら自分自身の考え方に定理がないことに気付い たりする。ということは全ての言葉は狂言でしかないのか?とか思うので すが自己完結するべきでしょうか他人を取り込むべきでしょうか。 > 定理が無いなんて有り得ない。 > 他人との馴れ合いは自己判断でやれば良い ではかたくなになるのを恐れて定理を決めようとしないのは? ------------------- 返す言葉が思いつきません。 私は彼女に何をすればいいのでしょうか?
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
みんなの回答
- netcatme
- ベストアンサー率20% (76/371)
哲学は一つの定理だと思っています。 ただ、質問の内容は哲学以前の社会的な秩序を守るという社会人の視点がありません。人は社会的な動物であり、人として生きるためにはどのようにして社会的秩序を守るのかを考える必要があると考えます。 定理を定めないのは、単に無責任に生きていこうという態度なのかもしれません。思いやりなどの美しい感情を育てるのは社会的に生きることからです。 殺人を単に刑罰を恐れるからしないという考えは愛とかの他人を思いやる感情が未熟なだけでしょう。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
参考まで 「両親は子供さえ居なければ赤の他人なのではないかと考える。」 両親と子供の関係は肉体の親は確かですね。でも心は両親も子供も一人一人 独立な存在ですね。一人一人の心に焦点をあてると家族というのが単なる肉体の属性だけではないように思えます。個別に特性は違っていても傾向性は似ているのでは。 やはり心の強い属性があるように思えます。古い言葉では「縁がある魂群、心の傾向性」があると思います。 「人が人を裁く権利はないと思う。」 確かに権利ではありません。義務です。多くの生命が同じ領域で生活する場合の取り決めに違反した場合、裁かなければいけないケースがでます。これを責任をもって実行するという義務もあるのです。 三国志に諸葛孔明が涙を流して腹心を処刑するというのがありますね。孔明は立場上の義務として実行したのですね。誰一人として他を害する権利など持っていませんよ。 「何故 人間が人間を殺してはいけないんだと思う?」 地上に生まれる。両親から命を授かるということは、人生80数年を生き、いろいろな学びと、経験、仲間などを得るためでしょう。そうでなければ好んでこんな大変なところに生まれてきたくはないですね。一人一人に人生計画はあるのでしょう。だからその計画を他人が絶ってはいけないのです。人が人を裁く権利はないように、殺す権利もないのです。当然、自分を殺す権利もありませんよ。権利ではないので違反した場合に裁かれるのですね。 「つまり人間の人生目標って幸せになるってことなわけ? 」 吉田松陰先生は「学ばずして死ぬほど恥ずかしいことはない。」と処刑される前まで教えてました。多くのことを学び、多くの人々にに幸せをあたえることそれが人生の目的であるべきですね。結果として自らがどうあれそのような人生を歩みたいですね。
もう一つ、思うことが出てきました。 >むしろ人間が人間を殺す事を怖がるのはそのあとの自分を考えるからであって結局のところ人間は自分の中でしか生きられないんじゃない? 他人を傷つけることを怖いと思うのは、そのことで、自分が傷つくからです。他人を傷つけると、自分も傷つくことを、知っているのです。 他人を殺すと言うのは、自分の中でかなり重要な何かを殺す(失う)ことであり、その後の自分だとか、所詮人はエゴイストである、独我による存在だとか、そういう思考ではとおに及びもつかない事態が、起こっているのです。 現実と言うのは、頭の中で思うようには起こらないのであり、だからこそ、現実に対すると言うことは、意味の濃いことなのです。そして、その現実を、頭で受け止めれるだけの心の余裕がなければ、その濃い意味をものにはできないと感じます。 少なからず、現代人(学生も労働者も隔てなく、肩書を持つ人)には、その心の余裕が足りない場合が多く、せっかくの現実体験も、ただの繰り返しの徒労に終わっているという部分が、多くあります。(エンデ、「モモ」でいうところの、時間ドロボーに命である時を盗まれた、という状態になります。盗まれた人は、気づかないのです。なぜなら、時を失った時点の記憶そのものが、時を盗まれたことによって、その人に存在しないわけだからです。この本はおそらく、27年ほど前に世に出てます。今は、この教訓が、やっと人類にいきわたり、熟しているころでしょう。私を含む多くの遭難者は、この段階で、もたついているわけにも行かず、なぜなら、時間とともに失われるのは、ほかならぬその時間の持ち主自身ともいえるからです。) そういう場合は、時間が短くなり、年だけとったなあと感じます。意味のない時間というのは、存在しないからです。 最近、私にはそういう時間が流れている(つまり、時間が流れていない)のを感じます。 その場合に、自己を振り返るという作用が、自然に働くはずであり、その作用を適当に流して、暇(余裕)を持とうとする努力をせず、現実に埋没するというのはおろかなことであり、知的に生きると言うことは、ほかならず、自己を知るということと、密接につながるのです。自己とは、頭の中にあるものでもなく、頭がなくて、知覚できるものでもありません。それは、実に端的にいうところ、世界にあるのです。世界とは、自己と、現実の、統一をもたらすと、いえなくもないようです。 めんどくさい言い回しを使いましたが、 「バランスを意識して生きる」 と、端的に言えば、事は簡単にすみます。思惑と現実のバランスです。 肩書(肩の荷)を知っており、どのような社会状況であれ、私は私であるという確立した自己を持つものが、仕事に対しても責任に厚く、肩書(社会的立場)に自己を喰われずに、正しく社会に貢献できるものです。まずはそこまでが、目標にはなるのではないでしょうか? これをできている人は、結構居るのです。お手本になる人も、たくさん生きています。 >私は彼女に何をすればいいのでしょうか? ・その真剣さと頑固さによる、対話と思考で更に潜っていき、底を破るのを見守るか(偏った生き方、無骨な精神の持ち主の、危うき哲学の道ともいえます。達成するのは難しく、しんどい。中毒性です。) ・余裕を心に、現実を取り込んで、新しい思考元素と新鮮な酸素の投入によって、事態の進行を図るのをすすめるか(バランスのよい気持ちのいい、正統派の生き方)、 ・世界の場面の展開は、頭や自己や他人や現実がどうあれ、訪れるので、どうにでもなるっ!と、さじを投げたりも、できるのではないですか? しかし、彼女やあなたの思考は、他の人もそうかもしれませんが、私の経験ともよく似ています。 二度と浮き上がれないほどに、深く潜っていたんだ、ということを自覚する時は、自己で思考する当人にしか訪れないと、今になって思います。 その自己という、自分の世界の中心と思われていたものは、人体で言うと薄皮のような、外側を覆うわずかなもので、流れるのは汗ぐらいです。代謝率も高く、どんどん更新されていきます。 ですが、それは、その幼い頃には、全く異なり、自分を圧倒し包み込む、心底深い激流の渦であり、こわいこわい、混元の海の中なのです。きびしい現実と、一般的に言われているものが、とりあえずの休息の場(一時は自己を忘れれる、自己から離れた場所)になるぐらいです。 やぶりがたい自己の限界にある、見えない壁で、開く術の見当たらない扉です。苦悩の元凶で、封印であり、手に負えそうにないものです。大人の助けなくしては、解く(破る)ことは不可能です。だけれども、自分の力(願い、思い、求め、努力、懸命)なしに、その海から脱することも、不可能です。 その扉が、失われることはあります。それは、自分を失ったときです。その者は、こわい海で、遭難したも同じです。 乱文で、吟味を欠いた口言でしたが、お許しください。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
>ではかたくなになるのを恐れて定理を決めようとしないのは? 私の疑問ですが、定理ってなんなんでしょうね(笑) 自分なりの生きかたってことかな。 あなたの友人に告げるべきことは、自分一人で考え込んで いないで、世間にでて世のため人のために少しは働けって ことですかね。 考えても考えても、なかなか答えのでないことというのは 世の中にはいくらもあるんです。 そういう時は、行動すべし。行動しているうちに何かが見えて くることもあるのです。 これは自分で経験しなければ、なかなかわからないのですが。 金儲けのために働くのが苦痛であれば、ボランティアで汗を 流すのもいいでしょう。 世間で人ごみに揉まれ、せちがらい人間関係に揉まれて悩み 抜いてみてください。 苦しんだ中で発見した何かには、それは素晴らしい価値が ありますよ。
>母親は子供にとってなくてはならない存在・・・ 人間の子どもがいるということは、母親と父親がいると言うことです。呪縛と考えるのは、母親を自分の中のある枠内で規定しており、母親という像を縛っているから、呪縛と意識に浮上してくるのだと思います。母親は、頭の中には住んでいないのです。言葉は、放たれているほうが、よい思考ができます。 もしかしたら、別の生物圏では、四人の親に、一人の子、なんていう場合も、あるかもしれません。 >平行して、両親は子供さえ居なければ赤の他人なのではないかと考える。 とりあえず胎児が好きなの。 赤の他人ではなかったから、子どもができたとも考えれます。場合によりますが、母親が、自分の子どもに、「とりあえず、愛してるわよ」なんていわれて、愛を感じるかは疑問です。とりもなさなくなれば、愛していないかも、ということでしょうか?(笑。「何はさておき(問題はいろいろあるけれども、わかっていることは)、愛している」というなら、それは愛しているのでしょう。 >人が人を裁く権利はないと思う。気になるのはアボガドロの前髪前線後退警報。 子供と大人の境目って何だと思う? 人を裁く権利は、人ではなく、裁判官というシステムに与えられています。 裁判官という席(社会機構)に、あるのであり、人にあるのではありません。また、その席を人が用意したのです。大人と子供の境目は、境目がないことです。子供時代を超えて、大人になるのと、子供時代を経て、大人になるのとでは、意味はよく似ています。 >何故 人間が人間を殺してはいけないんだと思う? それは、平等だからです。 >つまり人間の人生目標って幸せになるってことなわけ? そのような部分は多く認められえるのではないでしょうか?だけれども、断定するのは早いと思います。 >むしろ人間が人間を殺す事を怖がるのはそのあとの自分を考えるからであって 人を殺すのを怖がることが、その殺害後の自分を考えることと、いきなりつながっていますが、怖いのが楽しいという場合もありますし、その瞬間そのものが、恐怖を引き起こしている部分は多くあると思います。人にもよりますが、人に、後のことばかり考えて生きていられるほど、余裕があるとは考えにくいです(笑。 >結局のところ人間は自分の中でしか生きられないんじゃない? そんなことはないよ。むしろ、自分の中でない方が、よく生きれます。 >私は彼女に何をすればいいのでしょうか? コミュニケーションは言葉だけではありませんし、思考というのも、言葉だけで行われているのではありません。 コミュニケーションだけが、他者との関係でもありませんし、彼女を思って いるのなら、それですでにしていると思います。 何かをすれば、いいとは限らないのではないですか? >ではかたくなになるのを恐れて定理を決めようとしないのは? 恐れの定理があるのではないですか?
- maris_stella
- ベストアンサー率71% (241/336)
哲学的議論というのは、答えが決まっていないのが普通です。人それぞれの生き方や境遇や、持っている知識や考え方で色々な考え方があります。貴方がすべてを知っていて、貴方の考えが正しいなどということはありません。 従って、そういう話をしたくないのなら、別に他の話と同様、「話したくない、興味ない」と答えればよいでしょう。あるいは「分からない」でも何でもよいでしょう。 相手の話や議論に応じる心があれば、「わたしはこう考える」と述べて、自分の見解を述べればよいでしょう。それに対し、反論が出てきても、何も不思議なことではありません。お互いに、議論して、相手が、自分の言葉を理解していないように思える場合、または、相手の話が、興味ないと思えば、適当な言葉で、話の中断・終了を宣言すればよいだけです。 ただ、他者の色々な意見や見解を聞いて議論するというのは、自分の考えの反省にもなり、自分では正しいと思っていた考えが、不備があることに気づいたり、間違っていると気づくこともあります。 それと、哲学的議論は、徹底してすると、宗教的信念のような、「信仰」の話になるか、さもなければ、どこまでも答えのないきりのないものになるのが自然です。そういうきりのないことを、延々と論じ合うのがまた、思考の訓練になり、自他や世界を深く考えたり反省する契機となるのです。 哲学的議論は、必死に理論したとしても、延々と論じたとしても、楽しいものでなければならず、楽しむという余裕がないとなりません。論争もありますが、哲学的論争なら、互いに相手を尊重できるはずです。(宗教的信念が前提になっている場合は、哲学の議論ではなくなります)。 「哲学的議論」とは、「知識や信仰の開陳」を言うのではないのです。自分の方が詳しく知っているから、どうということもありません。 また、相手を言い負かすために哲学的議論をするのではありません。言い負かすこともあるでしょうが、言い負かせないので、議論にならないという訳でもありません。 果てしのないのが哲学的議論で、「何故か?」と果てしなく尋ねられていると、「そんなことは、宇宙の果てに住む、白い巨象が知っているので、わたしは知らない。白い巨象がいるかどうかもわたしは知らない。探してみて質問してくれ~~~~」でもよいでしょう。 (こういうことを言うと、怒り出す人もいます。それは注意しなければなりません。冗談やユーモアが理解できない人は、ちょっと怖いし問題なのです)。 上に言いましたが、普通の話と同じで、面白くなくなれば、うち切ればよいだけで、分からない場合、分からないと言い、自分の知識を相手に伝える場合、伝えて相手が納得しなければ、それも仕方ないことです。 妄想的確信を相手が持っている場合、それは「明らかにおかしい」などと論証しても、普通は納得しません。この場合、意見の相違だということになります。宗教の強制勧誘では、「わたしは違う考えです」と言っても、相手がしつこく「考えを改めるのがよいです」などという場合がありますが、これも、どこかで話を打ち切る必要があります。 また、逆に、自分が妄想的信念を持っていないかと反省すると、たくさん持っていることに気づくことがあります。哲学の格率は、「汝自身を知れ(グノーティ・サウトン gnothi s'auton. == gnothi seauton == Know yourself [seauton == yourself].)」または「みずからの無知を知れ」です。
- sinnkyuusi
- ベストアンサー率19% (639/3298)
>私は彼女に何をすればいいのでしょうか? 提案その1)面倒なので否定しない。彼女に合わせて返事をしておく。 提案その2)話自体を聞かない。 提案その3)付き合いをやめる。 これしか思い浮かびません。 他人の意見を聞き入れそうもないので・・・。