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自己否定はどうやって生まれるか。
漠然とした質問ではありますが、 「自己否定」はどうして起こるか、疑問に思います。 例えば、 自分はダメな人間だ、自分なんて生まれてこなければ良かった、様々なコンプレックス、自信のなさ、自己嫌悪、など。 逆に、自分が大好き、自分の子どもは自分みたいになってほしい、またはナルシストなど、自己肯定する人間が必ずしも客観的にみて、素晴らしい人間であるとも限らないのに、本人は自分に大いに満足している。 そのような例がよくあると思うのです。 そのように、自己否定する人間、自己肯定する人間はどうやって作られるのか、ということを考えるようになりました。 ここで「努力」という言葉は私は無縁(とまではいかないが)ではないかと思うのです。 小さい頃、いかにまわりの重要な大人(多くは親)に愛されたかで決まるのか? 親の責任にしたいというのではありません。 自己否定とはどうやって生まれるのか。 自己否定の人間が自己肯定の人間に変わるのは、至難の業なのか。 もし、具体的な例があればそれも教えて下さい。
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- Rion4443
- ベストアンサー率16% (87/532)
こんにちは。はじめまして。 私なりに経験で回答させていただきます。 まず一つはどれだけほめられたかだと思います。 親や先生等、自分よりも高いレベルにいる人にほめられると、それが自信につながります。 もし、ほめられたことや愛されたことがないのであれば、 それを恨むのではなく、 自分が相手や自分の子どもをほめてあげられる人間になろうと努める事が大切だと思います。 二つ目は、謙虚や自分を卑下することで評価を得てきたかどうかです。 例えば、友達と仲良くなるため、輪に入るために、 「自分はダメだから」、「私なんて・・・」 などと自分を低く相手に見せることで相手に好かれようとした経験です。 誰でもそういう経験はあるかとは思うのですが、 それがエスカレートすると、相手からの評価が本当に低くみられてしまい、 自分がわざと低く見られようとした嘘のはずが、 やっぱり私はダメなんだと誤った認識をしてしまうことがあります。 これはなかなか払拭するのは難しいですが、 過去にそういったことがなかったか思い出したり、 あくまで評価するのは他人ではなく自分であることを 深く認識できれば、ある程度は軽減されるかと思います。 参考になれば幸いです。
- ribonnokishi
- ベストアンサー率40% (4/10)
はじめまして。 質問者さんは、自分が自己否定的だ、と思われていて、肯定的になりたい、と思っていらっしゃるのですよね? どうして否定的になるのか、というのは他の回答者さんと同じなので省きます。 私もかなり自己否定的で生きてきましたが、それを周りの人間がそんなことないよ、と説得してくれたり、愛してくれる人がいたり、色々肯定的にしむけてくれましたが、なかなか「いじけモード」から抜けだせずかなりひどい自傷行為などに発展したこともありました。 しかし、なんとなく読んだ「ツァラトゥストラ」。これが私の「自己肯定」のきっかけ(ほんのきっかけに過ぎませんが!)になったように今は思います。 この中の主人公、まあ、ニーチェとしますと、誰からも認められない自分を、「全身全霊、全力で肯定する」物語りです。少なくとも私にはそのように読めました。 「誰からも認められない」んじゃない、「わたし」こそが「自分」を全力で認めようとしなきゃ、誰もしてくれないんですよ。 それまで、私も社会からの疎外感を非常に強く持っていましたが、何よりも誰よりも自分自身が自分を強く疎外していたことに気が付きました。 質問者様の文章を読んでいても、非常に自分に対して過小評価に過ぎるような印象を受けます。 回答者へのお礼の欄を拝見しても、非常に文章に感情がこもっていて、論理的に物事を考えられる、聡明さ、豊かさを感じました。 きっと実際に御会いしたとしてもそのような魅力は感じられると確信しますね(^_^) もっと御自分を赦してあげてください。 もうすこし御自分を甘やかしてあげてください。 私は質問者様は厳しすぎると思いますヨ! もう読んじゃったよ...だったら... 読み返してみて下さいね(^^;)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4834014738/qid=1115601584/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-9432664-3449151 佐々木正美さんという方(児童精神科の先生のようです)が書かれた本に、「子供へのまなざし」という本があるのですが、 そこに、ご質問へのヒントになるのではないか?と思われることが書いてありました。 気が向かれたら、ぜひ。。。暖かい感じの、たくさんの子供たちを見てこられたかたの本なので、 わかりやすい本です。
他の方の回答をじっくり読んでいないので同じことを書くかもしれませんが、お読みいただければ幸いです。 何かを評価するときには、基準が必要になります。基準がなければ評価のしようがありませんよね。 よく、評価できる、できないというややこしい使い方はしないで、評価とは、良いか悪いかを決めることだと捉えてください。 基準ですが、それが自己否定がどうやって生まれるかのキーワードだと僕は思っています。 基準とは、人の「価値観・考え方」です。そして、この「価値観・考え方」こそ、人の判断や行動を決定づけるものです。 「価値観・考え方」の奥底には、「感覚・感情」があると思います。 腹が減ったら何かを食べる。これは、食べたいという感覚・感情、空腹をなくしたいと思う、感覚・感情が働くからだと思います。 「感覚・感情」はある条件をもとに、体内の物質の分泌等が出されたり、減ったりして感じるものだと思います。このレベルだと細胞での世界ですね。 人は、生まれながらにして、「価値観・考え方」を持っています。 それには、人として共通の「価値観・考え方」とその個人特有の「価値観・考え方」、 生まれた後からの経験(体験、知識の学び、技術の取得など)によって形成される「価値観・考え方」 の3つがあると思います。 生まれてからは、生まれ持った価値観を元に、経験による価値観が形成されていくと僕は思っています。 ―――――――――― ここからがややこしいですね。 子供は、親から愛されたい、認められたい、褒められたいと「価値観・考え方」があると思います。いや、親を中心として周りからもといった方がいいかもしれません。 しかし、親や周りの人が認めてくれない、もしくは、自分を駄目なものとして攻撃(物理的、精神的)してきた場合、それは辛いものであり、自分の生き方を否定されるものだと思います。 人は、本当に自分さえ良ければ良いと思って「満足して納得して」生きれるかどうか、たぶん、無理なんではないでしょうか。 生きることができても、誰かと付き合って生きていきたいと思うと思います。 しかし、周りから否定され続けて生きてきたのでは、後から経験によって形成される価値観や考え方の中に、「自分は、周りから、いじめられる、邪魔もの扱いされる」というものができあがると思います。 僕自身、これがありました。 また、別に、自分さえ良ければと思っても、生きるということは秩序が存在します。人は、自然の秩序の一部と、人間が作り出した秩序の中で生きています。 その秩序を乱すものは、攻撃されたり、拘束されたり、排除されます。だからこそ、秩序が維持できるのですが。 自分さえ良ければと思いつつも、秩序を乱さないようにしなければならないと思います。 また、人からの攻撃されてできた価値観ではなく、それ以外の経験よってある価値観ができ、ある価値観ができた時は、それで良いと思っていて、あとあと、自分の状態が変ってそれに悩まされることもあります。 僕自身の例えでは、僕は、2年間、引きこもりのニートでしたが、働かないということは駄目だという価値観に悩まされました。ニートになる前は、「働いて当たり前だろ」と思っていたがのが、諸事情があり、しなくて、「こんな自分はなんて駄目な奴なんだ」と思っていました。 つまり、自分自身の価値観自体で自分自身を好きにも認められなくなったのです。 ―――――――― 自分自身を自分自身で好きになる、認めるには、自分自身のどこが嫌なのか、認められないのか自覚する必要があります。 そして、どうして嫌なのか、どうして認められないのか、自分自身の価値観・考え方を自覚する必要も出てきます。 そして、 1.自分自身を変えること、つまり、価値観・考え方は変えずに、今の行動や現状を変えることです。 2.自分自身の価値観・考え方を変えることです。よくよく考えてみたら、自分は、周りの模範的な考え方にしばらえていたのではないかとか、人間的に考えていけば、別にそんな考え方をする必要もないだろうと思って変ること。 時と場合に応じて、判断するといった、考え方を増やすこと場合もあります。優しさとは人を助けることではないと、時には、黙ってみていることも優しさだと。とか。 僕は、このことを価値観の改善、細分化と言っています。 3.このケースは対人によるもので学んだことです。人と上手く付き合っていきたい(自分なりに)と思ったとします。しかし、なかなか上手くいきません。相手から無視されたり、気に入られなかったり、喧嘩・険悪になったりします。 この時、価値観や考え方を変える、もしくは成長すると、それに伴って行動も変ります。僕が気付かされたのは、相手のプライドを傷つけないというものでした。自分のプライドを傷つけられれば相手に対し、腹が立つか、嫌になります。逆に相手もそれがある。 でも、何に対してプライドを持っているか解らないし、自分と一緒ではない、でも、それが相手自身の性格でもあるから、その人と上手くやろうとしたらその相手をまず知ろうとすることだと。 上記の3つをしたとしても、自己否定はなくならないかもしれません。 それには、「結果」が原因しているのです。どんなに考え方を変えても、行動や現状が伴うものには、「結果」が大切です。 考え方が変って、それに基き、行動しても「結果」は変らなかったり、現状は同じく悲惨のままだったら、自己否定感はなくならないでしょう。 自己否定感をなくなること、それは、自分自身の人生が満足、納得いく範囲内の人生ということになると思います。 嫌な状態から逃げずに向き合い、嫌を無くし、好きに変える、それは、難しく大変なことです。僕もそれで何度も、生きていることが辛いと思ったか。 どうしても、変えることができなかったら、そういう環境等から逃げることも1つの手です。自分がそれで良いと思えるかは別になるから、簡単な決断ではありませんけど。 僕は、カウンセリングに行き、自分の弱さと向き合い、少しずつ、変えようとして努力してきたし、努力しています。 努力が報われたなら、努力したかいが合ったというものです。 逆に報われない努力は努力だと僕は思っていませんし、努力の仕方が悪いんだなと思っています。努力とは結果を出すためにあるものであると。 自己否定を自己肯定に変えることができることもあります。すべてのケースにおいてできるという断言は、今の僕にはできません。 しかし、自分自身がこれでいいんだというのを求めていけば、少しはそれに近づけるのではないかと思います。 長くなりましたが、自分の経験を踏まえて書きました。参考になれば幸いです。
お礼
そうですね。価値感、価値基準に照らし合わせて自分を計っているのですね。 鋭いところをつかれました。 私の価値基準は、自分が愛されるに値するか、というものです。 もちろん、人間関係において、相手を侮辱する、軽蔑する、意地悪をしておいて、その相手から愛されようなどとは思いません。 そんなレベルではなく、私が生理的な嫌悪感を抱かせるものを自分の個性のうちに持ってしまってはいないか、或いは魅力があるのかないのか、そのような価値基準があり、自分はどうだろうと不安になります。だから、人々を魅了することが商売の、芸能人が羨ましく思えます。 考えるヒントになりました。 ありがとうございます。
- pangnya
- ベストアンサー率36% (109/296)
No.2です。 本当に度々すみません。 >回答者さんは、重症のうつ病を患っておられるということですが、大丈夫ですか? こんなにたくさん文章が書けるということが不思議な気が致しますが。 私は難治性の遷延性うつ病(抗うつ剤がまったく効かない重症のうつ病)といいまして、もう10年にもなります。 実は、最初は、家族の一人が、統合失調症になり、その対応と看護から、家族が次々と将棋倒しのようにノイローゼとなり、最終的に、今では息子を含めた家族5人全員が、様々な精神疾患を患っております。 お医者様からも、こんなに酷いケースは見たことがないので、症例として学会に発表させて欲しいと頼まれたくらいです。 はっきり言って非常に辛いです。 私は、うつ病で精神障害者認定も受けておりまして(統合失調症などと違って、うつ病で精神障害者に認定されることは究めて稀だそうです。まあ、それ程重症だということでもありますが・・・)、まあ、言ってみれば国も認めたうつ病患者です。 しかし、うつ病と言いましても、365日24時間いつも、鬱状態でいるわけではありません。 私の場合の鬱状態は、ランダムですが周期的に襲ってきます。 その際には、それこそ何もする気力が無いどころか、ほとんで寝たきりの廃人状態で、何かしようと思っても、何もできません。それこそ、気が変になりそうになります。 というわけで、私のような重症のうつ病患者でも、調子の良いときは、こうして教えて!gooに参加させていただける程、普通に近くなります。 >回答者さんのアドバイスは、借り物でなくご自身で考えたものだから、非常に説得力がありますし、うれしく思います。 耳が痛いです。 私の前述の回答は、単なる知識でしかありません。 私の知識は、前述しましたように私自身を含めて、家族全員が精神疾患に陥ってしまったため、私自身、何とか家族を救おうと、この10年間、様々な臨床心理や精神疾患の本を読みあさった結果の知識です。 私は、藁にもすがる思いで、これらの本を読み、知識を手に入れましたが、結果的には、何の役にも立っていないようで、家族はおろか、私自身の病気さえ治すことが出来ないでおります。 度々、失礼しました。
お礼
本当に度々すみません。 >とんでもありません。私の質問に関心を示してくださって、うれしく思っているのです。 お医者様からも、こんなに酷いケースは見たことがないので、症例として学会に発表させて欲しいと頼まれたくらいです。 >ごめんなさい。ちょっとだけ、笑ってしまいました。学会に発表させて欲しいと頼まれ、というところ。でも、悪い意味じゃありません。 深刻な状況に対して、怒らせてしまったかな? >回答者さんのアドバイスは、借り物でなくご自身で考えたものだから、非常に説得力がありますし、うれしく思います。 耳が痛いです。 >そんな、、、回答者さんを反省させる材料となってしまいましたか、、私のようなBPDは他責なのです。 鬱病患者さんは、真逆で、自責する人なのですね。 私の前述の回答は、単なる知識でしかありません。 >でも、その知識が他の人のためになることもありますよ。お医者さんだって、自分の臨床経験だけで、患者を治しているわけじゃありませんし、相当の書物を読んで勉強し、応用しているはずです。 私もたくさん読みましたよ。確かにそれが、特効薬になりはしませんでした。 でも、読まずにはいられなかった、ある意味専門書を読むことに依存し、読むという行為そのもので生き延びてきた部分もありませんか? お酒を飲まずにいられないアルコール依存とどこか似ている、、と。それに、それらの書物がなかったら、もっと心もとない思いをしているはずです。 すがる藁すらなかったら、と考えれば。 だから、私も、また新しく関心のある書籍が出たら、買ってよんでしまうと思う。でも、自分の症状や病理を書物の中に見つけたとき、安堵感を覚えませんか? 大変なご家庭があるのですね。 でも、家も姉妹もいろいろ大変なようです。 最近、話していないのでわかりませんが。 お互い苦労は耐えませんが、助けあっていきましょうね。 また、お話されたいことがありましたら、ご遠慮なく書き込んで下さい。 お待ちしています。
- gogokiki
- ベストアンサー率42% (12/28)
これはわたし個人の考えで、科学的(?)な根拠は全く無いのですが、わたしも、あなたと同じように考え、悩んでいた時期が長く、今は一応自分なりの答えを見つけたので、それを書かせて頂きます。 自己否定してしまう原因のひとつは、やはり人から否定された経験だと思います。まだ幼くて、自分の考えがしっかりしていない、外の影響を受けやすい時期に、愛情があっても、それがなぜ悪いのか子供に理解できない状況で、やたらに子供を叱ったり、親自身が幼くて、子供が当然受けられるような、愛情を受けられなかったりすると、子供は、大人のように、この人に原因があるから、自分がこういう扱いを受けている、とは理解せず、自分に原因があるんじゃないか、と考えるんだと思います。その時、自分では原因がわからなくても、子供にとって大人は絶対的である時期もあるので、「私には分からない、何かダメな所が私の中にはあるんだ」と(無意識に)自己否定してしまうのではないでしょうか。逆に、幼い頃、どんな自分であっても手放しで受け入れ、喜ばれていれば、自然と自己肯定するのでは?ただし、そういう子供であったがゆえに、学校で手ひどい目に遭って、そこで受け入れられない自分を、原因が何なのかわからず(ずっと肯定されてきたため)、自己否定してしまう場合もあると思います。これと言った原因が無くても他人を虐げる人間はたくさんいますし、そういうのも自己否定の原因になるんだと思います。 そうした自己否定する自分は、自信が無いので自分の素直な感情を無意識のうちに押し殺してしまったり、否定して、心の底から「いい人」になろうとしてしまいます。それはとっても辛い事です。親に全否定されて、いい人になることを強いられた子供のようなものです。そして、「こんなに辛いのは、ダメな自分だからだ。誰も分かってくれない。」とどんどん追い詰められていくんだと思います。 冷静に考えれば、人に分かってもらうなんて、不可能に近い事なのに、「自己否定」という間違った考えが根底にあるので、正しい判断ができないんだと思います。 大人になって、自分や他人を客観視できるようになったら、幼い頃にできた、そういう自己否定の思いこみを、自分自身で訂正してあげると、どうしても自己否定してしまう苦しさはラクになると思います。 自分の中にある、過去の嫌な思い出に帰って、今度は大人の価値観を身につけた、冷静な自分として、その頃辛かった自分に、「こういう理由で、こういう扱いを受けているんだ」「だから自分を全否定する事は無い」と大人としてアドバイスしてあげる。何度もやって、自分自身の無意識の中で思いこんでいる、頑なな思いを、改善してあげるといいと思います。 あと、「みんなはいい人なのに、自分はどうしてこうなんだ」と過剰な劣等感を持たないように、他人は誰だって、汚い部分や嫌らしい部分を持っているけど、それを人前に出していないだけ、と言う認識つ事も大切だと思います。そう思えるようになる為には、自分の汚くて、嫌らしい所も、そのまま受け入る事です。それは別に悪い事でも、恥じる事でもないし、誰だってそうなんだ、と言い聞かせて、他人にはまた別のいい顔を見せて、上手くやっていくことです。 つまらなかったり、嫌らしかったりする(と思ってる)自分でも、ちゃんと人と上手くやれる技術や知識を持っている、それが理想の形なんだと思います。 自分の嫌らしい所、汚い所って、意識しやすいものです。いつも自分のありのままの気持ちに耳を傾けていれば、結構愛着のわく自分を見つけらるし、辛い思いをしなくても、他人と上手くやれたという経験を重ねて行けば、自然に自信がついて行くと思います。
お礼
回答者さんのアドバイスは、借り物でなくご自身で考えたものだから、非常に説得力がありますし、うれしく思います。 手放しに受け入れられたという体験を子どもの頃に持てたかどうかは、この話に大きく関係していると思います。 私も、手放しに受け入れられたという体験を持っていません。 子どもの扱いの下手だった母親や女子どもをぞんざいに扱う父親の間に育ちましたし、、 母親も、わざと病気に育てよう、自己否定感を与えようとしたわけではないのは当然ですが、子育てにも得手不得手、また、教育に関する素養がなかったのかもしれませんね。 親のせいとばかり決め付けられませんが、、、 嫌らしい所、汚い所は誰でも持っている、殊更自分を責める必要はないのですね。そんな考えははじめて知りました。ありのままの気持ちに耳を傾ける習慣というのは、わりと意識的に持っているつもりなのですが。 他人と上手くやれないのですが、、、 アドバイス、参考になりました。 ありがとうございます。
- pangnya
- ベストアンサー率36% (109/296)
度々済みません。 No.2です。補足です。 No.1さんもいっしゃられておりますように、幼少時に周りから否定されつづけて育てられ方が、いわゆる「自己否定」の人になるのは良く分かります。 いわゆる、アダルトチルドレンの原因とされていますよね。 アダルトチルドレンの発症の過程は、まさに、親のいう事を聞かない子はダメな子と思わされて育てられ、他にやりたいことがあったとしても、それを言えないままの生活が続き、たとえ、言ったとしても否定され、その家庭内にて居づらくなってきても一緒に生活するようになります。 親側は自分の言う事を聞かせようとした時、子供の自己主張や意見をまったく取り入れようとしないし、または接し方がわからない等、多々の原因があるとされています。 その結果、こうした過程を経て成長された方は、トラウマ(心的外傷)、PTSD(心的外傷後ストレス障害)等になりやすく、さらに抑うつ傾向にもなりやすく、また、実際にうつ病等の精神疾患にまでなってしまう場合も多いとされています。 これらのような「自己否定」の発生過程は理解できるのですが、私にはこの反対の「自己肯定」の発生過程が全く分かりません。 よく、私の周りにも、何にでも自信満々に発言して、私の言うことに間違いはない、かのように振る舞っていらっしゃる方がおりますが、この自信がどこから出てきているのか、さっぱり分かりません。 その自信の根拠を聞いてみても、たいていの場合、大したことは特に何も無いんですよね。 ちなみに、私の場合は、基本的に、あなたと私の考えは違って当たり前というスタンスでして、自信満々に私の言うことが正しいみたいな人をみると、不思議でしょうがありません。 だから、私には客観的(自分の思っている客観的。他人から見れば、主観的にしかみえないかもしれませんが)にしか物事を発言することが出来ません。 自信を持って、主観的に主張することが出来ないのです。 さらに、私は現在、重症のうつ病を患っておりますので、今では完全に「自己否定」の人となっております。 私も、自信を持ちたいなぁ・・・。
お礼
再度のご回答、うれしく思います。 回答者さんは、重症のうつ病を患っておられるということですが、大丈夫ですか? こんなにたくさん文章が書けるということが不思議な気が致しますが。 私はBPDと診断されています。私も、自分自身に自信が持てない、というか、自己嫌悪する(外見なのか、自分の中身についてなのか、考えすぎてわからなくなっている)ところがあります。 私は愛されるべき人間なのか、というところに自信がないわけです。 自分を嫌うとき、すぐ死を思い浮かべます。が、簡単に実行できることではありませんし、してはいけないと思う自分もしっかりとあり、そのせめぎあいというところでしょうか。 私も、少し知っている人にナルシストだという人がいますが、失礼ながら、なにを根拠に彼は自分を好きなのか納得できない。 私が子どもの頃、否定され続けて育てられたかというと、それも違う気がします。交流分析の本を読んでいたときに、欲求が充足されないことが自己否定感を生む、というようなことが書かれておりました。なるほどと思った事があります。 回答者さんは基本的に自分と他人の考えは違って当たり前と認識されているとのこと、素晴らしいですね。 大人ですね。 御身体、だいじになさってください。
- pangnya
- ベストアンサー率36% (109/296)
う~ん、難しいご質問ですねぇ。 ちょっと、質問者様の求めていらっしゃる答えとは方向性が違うかもしれませんが、私見を述べさせていただきます。 まず、「人格」、「性格」、「気質」という3つの言葉があります。 ほぼ、同義語かとは思いますが、ニュアンスの違いを敢えて求めた場合、「気質」は生物学的、生理学的な観点からの特徴を現し、そこには遺伝的なものも含まれているようです。 「性格」は、後天的に獲得された特徴を現しており、「人格」は、先ほど述べました「気質」と「性格」を統合した概念で、場合によっては道徳観や価値観までをも含めたニュアンスがあると思われます。 そこで、それでは「自己否定」は、どこに入るのかと考えますと、やはり、後天的な「性格」か先天的な「気質」のどちらか、あるいは両方に該当すると思われます。 ところで、「自己否定」と「自己肯定」は、ある種の精神疾患における典型的な特徴とされております。 病名を確定する際の、診断基準の一つにもなっております。 つまり、うつ病の典型的な症状は、抑鬱と「自己否定」であり、躁病や統合失調症におけるそれは、尊大なまでの「自己肯定」です。 以前は、これらの精神疾患を、心の病気と思われておりましたが、今日では脳の機能異常が原因と考えられております。 脳の中の神経伝達機構に問題があると考えられており、セロトニンやノルアドレナリンなどモノアミン系の神経伝達物質のはたらきの低下や異常が原因とされています。 抗うつ剤には、このセロトニンの働きを活性化される作用があります。 したがって、うつ病の患者さんに、抗うつ剤を投与すると、「自己否定」感も薄らいできます。 逆に統合失調症の治療等に用いられる向精神薬には、このセロトニンの働きを抑制する作用があります。 したがって、統合失調症や躁病の患者さんに、これらの向精神薬を投与すると「自己肯定」感が治まってきます。 そして、これらの疾患の原因は、いわゆる性格とは基本的には関係なく、先天的な脳の器質の異常により生じるとされています。 異常といいましても、どれが正常なんだという問題もありますし、実際の所は、ほとんどの人が、何らかの器質的な異常を持っているともされています。 そして、脳に器質的な異常があるからといって、必ずしも病気として発症するわけではありません。 何故かは分かりませんが、病気として発症してしまう人と、一生発症しない人もいるわけです。 昨今では、これらの違いは、ストレス耐性によるのではないかとされています。 ストレス耐性と言いましても、精神的な問題だけではありません。 身体的(先天的)な問題も含めてです。 質問者様の求めていらっしゃった答えとは、おそらく、だいぶ違っているかと思われますが、私は、そこら辺のところが、大いに関係しているように思えます。 つまり、病気としてまでは発症していなくても、産まれたときから、脳の器質的な異常(というよりも違い?)は、誰でも持っているわけです。 当然、その違いは、普段の、いわゆる性格の違いとしても現れてくるものと思われます。 勿論、先天的な器質の違いだけで、後天的な性格が全て決まると言っているわけではありません。 おそらく、質問者様は、この後天的な性格の違いが如何にして生じるのかを質問されているのだとは承知しております。 それを承知の上で、敢えて、器質的な部分に関してのみ私見を述べさせていただきました。 残念ながら、私には後天的な性格の違いが生じる過程が良く分かっておりません。 もちろん、親の愛情や育て方、環境等が複雑に影響していることは分かりますが、その違いがどうすると「自己否定」の人になり、どうならば「自己肯定」の人になるのか、全く分かっておりません。 そこら辺の所は、心理学に詳しい方にお譲りします。 失礼しました。
お礼
脳の器質的なものに、私の提起したことがすべて起因するようには思えないのです。 うつ病やその他の疾患の背景に自己否定があることはその通りだと思いますが、必ずしもそれが脳の気質的な問題に起因しているとばかりいえないような気がするのです。 薬によって、脳内の物質(セロトニンやアドレナリン)の量が変化することはそうでしょう。 そして、抗精神薬によって、一時的に自信を得たような気分になる、自己肯定感を得られたような気分になるのではないか、と。 もちろん、薬はそれら疾患に多大な影響(プラスの)を与えているでしょう。 しかし、本来的、根本的に自己を肯定する、否定するという問題とはまた別のように思うのです。 ご回答、ありがとうございました。
- hiruneneko
- ベストアンサー率37% (60/158)
自己否定の考え方になる一つの理由として、子供の頃の経験があると思います。 産まれた時は誰もが自己否定する考えをもっていませんが、育つ中で周りから否定された育てられ方や接し方をされると、自分はそうなんだという風に考えるようになるのではないでしょうか? 鏡が無ければ自分の顔がわからないように、自分という人間を自分が一番わかりづらいので、周りを鏡にして自分を判断します。 周りが自分を否定する=鏡が自分を否定するということで、自分は否定される人間なんだということが植え付けられて、自己否定がうまれることもあると思います。 これは単に否定されていることだけでなく、高い期待に応えられないということからも生まれることも考えられます。親の期待に応えようとして、うまくいかなかった場合などが考えられます。 変わるために必要と考えるのは自己承認です。 失敗した自分、うまくいかない自分も含めて自分です。他の人と比較することでなく、自分が自分でいられるということを大切にする事だと思います。ありのままの自分を受け入れることから自己否定の考えを少なくしていくことができると思います。 しかし、自己承認の習慣がないので簡単とは思いませんが。 自己承認を習慣化するための一つとして、毎日一つ何かやったということを作る事もいいと思います。 今日は○○をやった(できた)という積み重ねで、自分はできるんだという自信を持つことです。それはどんな小さなことでもいいと思います。一日一日自分のプラスの出来事を積み重ねて自分を認められるようになるといいと思います。 長文失礼しました。
お礼
自分を写す鏡の話は、そうかもしれませんね。 今できる自分を認めるための習慣として、毎日何か一つやったという事を作る、つまり達成感を得るという作業と言い換えてよろしいでしょうか? 大事な事ですね。 私も自己否定の人間として、生活の中に、取り入れていきたい。 アドバイス、ありがとうございました。
お礼
なんとなくホッとする感じの本ですね。 ご紹介、ありがとうございます。