哲学が物事を固定し、学者が固執する苦労によって理論化する学問ではなく、有用な生き生きとした仮説を導くための道楽的な試みですから、再現のない感情や不必要な偏見を押さえ込むのに有用です。自他共に現実から遊離した疲れる思索、行為を整理するのに役立ちます。
膨大な文献を残したカントでも、学問としてではなく試みるための哲学を教えることはできないと言ってます。あれも延々やってみた試みを述べているだけだから膨大なんですね。しかしカント以前の釈尊や、老子、エピクロス等は結論だけ述べているので簡略されているかのようですが、そこに至るまでは様々な経験(受動的)や体験(能動的)なものが詰まっているはず。過程が疑わしいとしても、おばあちゃんの智恵袋のように、智恵に直接触ることが出来なくても、独自にこうじゃないのか?実践に近づけたり失敗すればなおのこと、おばあちゃんがあらゆるものに注いだ眼差しや望んだことが感じれる。
収納の哲学というのがありますが(インテリアアドバイザーとか建築)整理整頓は時間と空間とお金の節約になります。不用な物を保管するだけで有用なお金も失ってしまうそうです。なぜかというと動かない物を所有するだけで心身共に自由度が減り、保管や処分の徒労の義務が生まれ、しまいには自慢したくなって、道楽は自己主張から遠のくというものだから。
動物は異性を誘致するため、同属と共食いしないため、異種には共倒れないため、つまり自己保存と種の保存の両本能の延長にある大事があるので自己主張するけれども、身体機能や感覚表現によって自己主張するのが自然界、動物界の慣わしです。
それが人間は本能を裏切って(?)自分に対しての感情、その自己主張によって自らの存在を確認する。寧ろこちらが成功することに安泰立命するので、売値を競って文芸芸術にまで感情の価値を高めていけるんですね。実の力と書いて実力ですが、実=身を与える力、というより自分に投資するのを楽しんでいたいのも人間ですから。
なので「哲学で世に貢献してゆくつもりです」という人も、体系化された言語学や社会経済学、科学、歴史の分野に興味があって哲学を自己アピールの手段として使う人と、自らの生き方や倫理(エーチカ)を肉体的機能や感覚を使ってアピールし生得的な本能に近いままで(天然な?)哲学の実践者とに分かれると思いますね。
>子供のころは哲学って意味も分からずにすごいものだと思っていましたけど、大人になってなくても良いような気も気もした
驚きは哲学の根源である/ポール・ティリッヒ。
当たり前に考えていることが永遠と続くなら驚くことなどなくなります。それを疑う必要も、わざわざ肯定する必要すらないのですが、大人になってくると驚くことも減ってきますよね。
犯罪や不一致をなかったことにする能力も、投資したり貢献して神格化する能力も人間にはなく、それが出来たとして理想なのかというと傍目には人としての誇りをなくして堕落していくようにも映ることもあって、哲学はより快適な安定を要求し、一方で「これでいいのか」と敏感な人たちから、いい加減な安定を否定もしていくのです。